光明子と藤三娘

 「光明池(こうみょういけ)」という名前は、地元以外の多くの関西人には、駅名として知られはじめたと思う。人口十数万の泉北ニュータウンを走る鉄道の駅名で、駅が開業したのが1977年というから最近のことである。もちろん付近に「光明池」という池がある。
 光明池は昭和戦前期につくられた人工池で、池の水を槇尾川(まきおがわ)から引いているが、その取水堰が和泉市国分町にあり、ここはかつて国分寺の所在地で、その地で光明皇后が誕生したという伝説がある。というつながりで、人工池に名前をつけるにあたって、「光明」の名を拝借したという。

 国分町光明皇后とは、伝説でつながるだけかと言えば、歴史上、つながらないこともない。それは全国の国分寺は、聖武天皇の詔(みことのり)(741年または738年)で設置されたのだけれども、
東大寺と天下の国分寺とを創建するは、もと太后光明皇后)の勧めしところなり」(『続日本紀』)
とあり、聖武天皇国分寺の建立を勧めたのは光明皇后なのである。
ここで「東大寺と天下の国分寺」とあるのは、東大寺が天下の国分寺の総元締めと位置づけられていたからで、つまり大和国国分寺と日本の総国分寺を兼ねた寺が東大寺だった。「東大寺」とは、「平城京の東の大寺(おおてら)」という一般名詞に近い名称である。
国分寺」とは「国ごとの寺」という意味で、これを仏教的に説明すると、国ごとに「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」を根本経典とする寺を設置させたという言い方になり、だからそれらの寺を「金光明寺」という。以上をまとめて言うと「全国に諸国分金光明寺を置いた」となり、たとえば讃岐国国分寺を丁寧に言うと「讃岐国国分金光明寺」となり、東大寺は「大倭国国分金光明寺」となる。
こうした施策の源には、仏教による鎮護国家という思想があり、それが奈良仏教の特徴であった。平安期も後半になると、自分自身の極楽往生のための仏教、いわばパーソナルな仏教になってゆくが、それと対比すれば、奈良仏教が国家仏教と言われる意味がよくわかる。で、「金光明最勝王経」には四天王が東西南北を守ってくれることが書かれてあり、ゆえに「金光明寺」をもっと丁寧に言うと「金光明四天王護国之寺」ということになる。
国分寺には尼寺を併設させた。対比した言い方をすれば、国分僧寺国分尼寺となる。尼寺の方は「法華経」を根本経典とし、寺名は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」、その総元締めは奈良の法華寺である。法華寺はもともと光明皇后の住まいだったところだから、この事業が彼女の発案であることを納得させてくれる。
こうした構想は彼女の独創ではなく、唐の模倣である。すなわちそれより50年ほど前の690年に、則天武后(そくてんぶこう)が唐の各州に「大雲経」を頒って「大雲光明寺」を置かせたのをまねたのである。またこの時代、唐では巨大な磨崖仏(まがいぶつ)がつくられており、その影響もあって奈良の大仏がつくられた。
ここまでを振り返ると、「金光明最勝王経」の「光明」や唐の「大雲光明寺」の「光明」を踏まえて、藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)は、みずから「光明子(こうみょうし)」と名のるようになったようで、だから「光明皇后」なのである。そして、それは740年ごろ、彼女が40歳ごろのことと思われる。
私はここに、もうひとつの「光明」を付け加えてもいいのではないかと思う。
ちょうどその740年2月に、天皇・皇后は河内の知識寺を訪れて毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を拝し、衝撃に近い強い感銘を受けた。その理由は、寺院も仏像も大きく立派だったことは当然だが、いまひとつ、それらすべてが寺名のとおり「知識」によって造られたことである。「知識」とは身分の上下を問わず、仏につながろうとする人々が、あるいは浄財を持ち寄り、あるいは労力を差し出す、その行為のことであり、同時にそのような人々のことでもある。もちろんこれが3年後の大仏造立の詔につながるのだが、大仏造立の手法を「知識」に求めたのも、この知識寺に発想を得てのことであった。
で、夫妻が強い感銘を受けたその毘盧遮那仏だが、この仏名はサンスクリット語の漢訳で、その原義は「光明遍照」である。「光明、あまねく照らす」、つまり宇宙万物すべてに光明をふりそそぐという最高位の仏さまで、密教では「大日如来(だいにちにょらい)」と訳していると言えば、なるほどと思っていただけよう。私が言いたいのは、「藤原光明子」の「光明」には、この「光明遍照」の「光明」の意も入っているのではないかということである。
だが、それは、光明子自身が「私はすべての人々に光明をふりそそぐ仏さまのような存在だ」と自認したという意味ではない。そうではなくて、「仏さまの光明によって照らされ導かれている私」という受動的な、謙虚な動機だろうと思う。

光明皇后の人物像を考えるとき、一番、むつかしいのが、ここのところである。
品のない表現をすれば、彼女は仏教かぶれであり、唐文明かぶれであり、そしてどうやら則天武后かぶれのようでもある。もっとも、彼女の名誉のために弁護しておくが、唐文明と仏教はこの時代の最新文明であり、ひとり彼女だけがかぶれたわけではなく、当時の知識人たちすべてを襲った怒涛のごとき新思潮であって、例えて言えば文明開化期の西洋かぶれ、アジア・太平洋戦争後のアメリカかぶれのようなものだ。
ここで問題なのは則天武后かぶれである。つまり光明皇后則天武后になろうとしたのではないかという設問である。則天武后は唐の高宗の皇后だったが、夫の死後、傀儡の皇帝を立て、やがてこれを廃してみずから帝位についた中国史上唯一の女帝である。はたして光明皇后には、天皇となって天下に指図する権力志向があったかどうか、そういう人柄であったかどうか、そこの判断がむつかしいと言っているのである。
まず、光明皇后の時代、則天武后をまねた例を挙げてみよう。
①諸国に国分寺を置き、大仏をつくった(741年)。
②日本の元号は「大宝」「和銅」のように2字だったのに、則天武后にならって「天平勝宝」「天平宝字」など4字とした(749年)。また「年」を「歳」とし、例えば「天平勝宝7年」を「天平勝宝7歳」とした(755年)
皇后宮職(こうごうぐうしき)を「紫微中台(しびちゅうだい)」と改めた。これは唐で「中書省」を「紫微省」と言い、また則天武后の時代に「尚書省」を「中台」と改めたのを借用したものである(749年)。そのほか官名を唐風に改めた。
 まず①だが、先述のとおり、国分寺光明皇后の発案ではあるが、あくまで聖武天皇に進言したにすぎないし、大仏造立は聖武天皇の発案・実行と見るべきであろう。ゆえにこれをもって光明皇后則天武后のごとき権力者だったとは言えない。
それどころか、聖武天皇の時代(724〜749)には、天皇以上の実力者が隠然として君臨していた。それは元正太上天皇である。太上天皇上皇)とは譲位した先の天皇のことだが、天皇を引退したというより、上皇という位についたと言う方がよく、天皇と同じ命令権を持っていた。しかも元正上皇聖武天皇の叔母であるが、実態は養母と言っても過言ではない。元正女帝の譲位を受けて天皇にしてもらった24歳の聖武天皇が、44歳の養母に頭があがらないのは当然であり、その関係は上皇の死(748年)まで約24年間つづいたと思う。この間、光明皇后の格は上皇天皇に次ぐ第3位にすぎず、娘の阿倍皇太子が4位となる。そしてあたかも元正上皇の死を待っていたかのように、翌749年、聖武天皇は譲位して、皇太子(31歳)が即位(孝謙天皇)する。繰り返すと、この年、上皇が亡くなり、天皇も退いたのである。
そこで元号を改め、上述②のとおり、天平感宝天平勝宝と4字年号が使われたのである。
また、上述③の役所名の変更もこの年で、すなわち、光明立后のときに置かれた皇后宮職(こうごうぐうしき)を、光明皇后が皇太后になったこの時に、紫微中台と変更し、その長官である紫微令藤原仲麻呂が就く。仲麻呂はこの時、参議から中納言をとばしていきなり大納言に昇進した。光明皇太后孝謙天皇の支持あってのことである。その後、仲麻呂左大臣橘諸兄と権力闘争をくりひろげて彼を退け、その子橘奈良麻呂の反乱を未然に鎮圧、また孝謙天皇譲位、淳仁天皇擁立に成功し(758年)、権勢をほしいままにした。そして官名を唐風に改め、右大臣を太保と改めてみずからその地位に就き、760年には太師(太政大臣の唐風名)にのぼりつめる。
ここまででおわかりのように、この藤原仲麻呂こそ唐かぶれの最たるもので、光明子をはるかに上回る。つまり②③の唐かぶれ、則天武后かぶれは仲麻呂の政策であって、それを光明皇太后は許容していたのだろうと思う。もっと言えば、仲麻呂はあたかも光明皇太后則天武后に擬するかのごとく、おもねり、おだてたのであろう。
逆に、もし光明子天皇たらんとする野心があったとするならば、748年に元正上皇が亡くなり、聖武天皇が仏門に入って権力の座を降りたときに、光明皇后の称制もしくは即位があり得たのではないか。あるいは756年、聖武太上天皇が亡くなったあとの皇太子の交代や淳仁天皇即位のときも同様の機会はあり得たのではないか。だが、いずれの時にも光明子にはそんな野心は伺えない。私は、彼女には則天武后たらんとする志向はなかったと思う。
光明子が政治に口をはさんだのは、全国国分寺の造立と、悲田院・施薬院の設置で、それは仏教による鎮護国家社会福祉を真剣に希求したゆえにすぎないと思う。
続日本紀』はこう書いている。
太后光明子)、仁慈にして、志、物を救ふにあり」(人柄は慈愛深く、人を救うことを志しておられた)。
「悲田・施薬の両院を設けて、天下の飢え病めるともがらを療(い)やし養う」(悲田院は生活困窮者の救護施設であり、施薬院は病院である)。
40歳のころ「光明子」を名のった意図が、傲慢に拠るのではなく謙虚な思いに拠るものだろうと、私は先に書いた。
光明子と名のった彼女は、43歳のときに、自分の発願した一切経の写経の奥書に「仏弟子、藤三女(とうさんじょ)」と自称している。また44歳のときに書写した『楽毅論』の奥書には「藤三娘(とうさんじょう)」としている。「藤原の三番目の娘」という意味である。藤原不比等の長女は文武天皇夫人で聖武天皇の実母宮子であり、次女は長屋王室の長娥子(ながこ)、そして光明子は三女である。「藤三娘」という言い方は唐風なおしゃれな名のりで、例えば漢詩人の淡海三船(おうみのみふね)は、藤原刷雄のことを「藤六郎」と呼んでいて、それは彼が藤原仲麻呂の第六子だからである。

藤三娘」と署名したとき、彼女は皇后となって15年、押しも押されもせぬ皇室の一員である。その彼女が、天皇家や皇后の地位を振りかざすのではなく、「私は藤原の3番目の娘です」と名のっていることに、私は感動する。彼女は傲慢ではなく謙虚な人柄だったと思う。
752年、遣唐使の大使に任じられた藤原清河に光明皇太后は次の歌を贈った。
「大船に、真楫(まかじ)繁貫(しじぬ)き、この吾子(あこ)を、から国へ遣(や)る、斎(いわ)へ神たち(万葉4240)」
 「真楫繁貫き」とは櫓をずらりと並べた偉容を表現したもの。それにしても歌い出しの「おおふねに」と言い、「遣る」という表現と言い、「斎へ神たち」という命令形と言い、じつに堂々たる歌いぶりで、まさに「国母(こくぼ)」と呼ぶにふさわしい。だが、この歌はあまりに立派すぎて、素人の域を超えていて、柿本人麻呂クラスのプロの歌かと私は思うのですが、いかがでしょう。しかし、そんな中でも心を打つのが「この吾子を」の1句で、皇太后たるもの国民すべてをわが子と思わねばならないという意識は、確かに彼女には強くあったと思う。そして事実そう思い込めるほどに彼女は情の深い、人間への愛着の強い、まさに「母」だったと思う。

遣唐使

 聖武天皇は体の弱い人だったようだが、天皇を退いて7年生き延び、756年に亡くなった。その翌月、光明皇太后は亡夫遺愛の品々を東大寺に奉納した。亡くなった翌月とは、何と潔いことよ、と思うが、その心情は「東大寺献物帳」にこう書かれている。
「右、件(献物の品々)は、みなこれ先帝(聖武天皇)翫弄(がんろう)の珍、内司供擬(ぐぎ)の物なり。疇昔(ちゅうせき)を追感して目に触るれば崩摧(ほうさい)す」。
「先帝遺愛の品々に目がとまると、昔が思い出されて、体が崩れ落ちてしまう」というのである。
亡き夫をしのぶ歌が万葉集にある。
「吾が背子(せこ)とふたり見ませば幾ばくか この降る雪のうれしからまし」(1658)
これはまた素直な歌である。率直で何の飾りけもない。雪を見て心に浮かんだ独り言をそのままつぶやいたような歌である。ごくありふれた夫婦と少しも変わらぬ思い、夫を亡くした老女が誰でもふと思う亡き人への懐旧、平凡でありふれているだけに、深くうなづけるいい歌である。
聖武太上天皇が亡くなった翌年、橘奈良麻呂の変が起こるが、彼女は首謀者たちにこう諭している。
「汝らはわが近き人なれば、ひとつも我を怨ぶべきことはおもほえず・・・」
「おまえたちは私に近い家筋で、私を恨むようなことは何も思い当たらないのに・・・」と、家長をつとめる57歳の老女が親戚の不始末を諭すような口調は、嘆きにも似た繰り言のようで、痛々しくさえ思われてくる。

藤原光明子とはそういう女性だった。則天武后に憧れるような権力志向の人ではなかった。私はそう思う。
 彼女が亡くなったのは、夫の死から4年後だった。享年60。
 その1周忌のために、法華寺境内の南西隅にお堂がつくられた。阿弥陀浄土院である。
思えば彼女の母三千代が朝夕礼拝していた阿弥陀如来こそ、彼女にとってもっとも親しい仏さまだったのだろう。
 夫の遺愛品すべてを東大寺毘盧遮那仏に捧げて無一物となった彼女の帰るところは、小さな安宿媛が情愛深い母とならんで阿弥陀仏に手を合わせた、あの幼い日々だったのではないだろうか。 (了)

阿弥陀浄土院跡碑