大和を考える

大和神社 (1)ヤマトタケルの「ヤマト」 ある大学の先生が、学生に漢字の読み方の問題を出したそうです。最初は「天照大神」。ある学生の答案にいわく「てんてるだいじん」。これはペケで、正解は「あまてらすおおみかみ」。2つ目は「日本武尊」。「にほん…

 井上皇后呪詛事件

佐保川 白壁王が即位し(光仁天皇)、井上内親王が皇后、他戸(おさべ)親王が皇太子と定まって、称徳女帝没後の皇位継承問題は一件落着とみえたが、そうすんなりといかないのが人の世の常、そこがまた歴史を読む醍醐味でもある。 事件が起こったのは新天皇…

 光仁帝と志貴皇子

称徳女帝は独身だったから子どもはいない。それはやむをえないことだが、後継者たる皇太子を決めないまま、亡くなってしまった。無責任のそしりはまぬがれないが、廟堂の重臣たちにも責任があっただろうに、と思える。どういう事情だったのだろう。 称徳天皇…

 女帝と道鏡

和気清麻呂(朝倉文夫作) 私の母は少年の私に、奈良時代について二つのことを教えてくれた。 一つは、「奈良、七代、七十四年」。この場合「七」は「ナナ」と読んで語呂合せする。奈良時代は天皇が七代で、七十四年間つづいたという暗記法である。 もう一つ…

 光明子と藤三娘

「光明池(こうみょういけ)」という名前は、地元以外の多くの関西人には、駅名として知られはじめたと思う。人口十数万の泉北ニュータウンを走る鉄道の駅名で、駅が開業したのが1977年というから最近のことである。もちろん付近に「光明池」という池がある…

 草壁系と高市系

先に掲げた「大津皇子の悲劇」「藤原不比等」「長屋王の悲劇」の中で、折りに触れて書いてきた「草壁系と高市系」について、私の考えのあらすじをまとめておく。詳細は先述の記事を参照していただくという趣旨なので、この文章はメモ風で味気ないものになる…

【感動日本史】 阿修羅幻想

法隆寺に「橘夫人念持仏(たちばなぶにんねんじぶつ)」という仏像がある。 大きな厨子(ずし)に入った阿弥陀三尊像だが、像自体は高さ30㎝ほどの小さなもので、いかにも女人が身辺に置いた念持仏にふさわしい愛らしさである。とは言え、「伝」の文字がつい…

【感動日本史】 長屋王の悲劇

長屋王と藤原四兄弟 長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は、壬申の乱のときに父の天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者であった。天武天皇亡きあと、持統女帝の即位直後、高市皇子は太政大臣となり、藤原京造営など、政界のトップとして時代を…

 藤原不比等

草壁皇太子と高市皇子 天武天皇崩御(686年)のあと、後継者は容易に定まらなかった。 大津皇子の死によって、もはや皇太子である草壁皇子の即位を阻むものはなくなったはずである。にもかかわらず、皇后(のちの持統女帝)による称制となる。称制とは即位し…

 藤原宮の富本銭

大海人皇子は壬申の乱に勝利すると、近江京を捨てて飛鳥古京に帰り、天武天皇になる。その後、飛鳥の北方に新都を計画するが、完成を見ないうちに亡くなってしまう。持統女帝は亡き夫の遺志を継いで都を完成させ、694年に遷都する。これが藤原京である。しか…

 大津皇子の悲劇

大津皇子がはじめて史書に登場するのは、「壬申の乱」のさなかである。 「壬申の乱」は天武天皇の権力確立の出発点であるが、その妃、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)にとっても天武天皇との夫婦の絆を確固たるものとし、皇后への道を決定的にした出…

 天智天皇の人間性

天智天皇(中大兄皇子)といえば、「大化の改新」を断行して新しい国づくりを進めた英邁な君主というイメージが定着している。本当にそうだろうか。 いったい天智天皇とはどんな人柄だったのだろう。 『日本書紀』では多くの天皇について、寸評が書かれてい…

 有間皇子

有間皇子は孝徳天皇の子である。 「乙巳(いっし)の変」ののち即位した孝徳天皇の治世は9年だが、その最後はみじめだった。天皇は難波に都していたが、中大兄皇子が飛鳥へ帰ろうと言い出し、天皇の反対を押し切って、百官を引き連れて飛鳥に帰ってしまった…

 入鹿暗殺

鎌足は中大兄皇子に近づこうと機をうかがっていた。 ある時、中大兄が蹴鞠(けまり)をしていると、鞠を蹴った拍子に靴が脱げて、見ていた鎌足の方にころがってきた。鎌足は靴を両手で捧げて膝まづき、つつしんで中大兄に差し出した。中大兄もまたひざまづい…

[感動日本史] 軽皇子と鎌足

(承前)鎌足が神祇伯を固辞したという『日本書紀』の記事は、そのあと、段落を変えずに、こうつづく。 「(鎌足が勤めを休んでいた)ちょうどその時、軽皇子(かるのみこ=のち孝徳天皇、このころ48歳)も脚の病で朝廷を退いていた。鎌足は以前から皇子と親…

 鎌足と仏教

鎌足肖像 入鹿暗殺事件は、登場人物といい舞台といい、これほど豪華でドラマティックな物語はない。『日本書紀』も歴史書としての冷静な筆致を忘れて、詳細に描写している。ただ、繰り返し読むほどに「なぜ」と引っかかる個所がいくつか出てくる。 最初の「…

 蘇我氏四代

中大兄皇子は、なぜ蘇我入鹿を殺したのか。 大きな流れから見ると、それまでは天皇権力と豪族勢力のせめぎあいの時代であった。もっとも豪族勢力といっても蘇我氏が豪族たちの中で抜きん出た存在になると、蘇我氏と天皇権力とは直接対峙の様相を呈することと…

大化の改新

むかしは「大化の改新、むし5ひき(645年)」などと暗記して、645年の入鹿謀殺によって改新の幕が切って落とされ、翌年、「改新の詔(みことのり)」が発表されて新政策が打ち出された、と教わってきたものですが、最近はそう単純にはいかず、話しがややこ…

 聖徳太子の思想

聖徳太子の仏教思想とはどんなものだったか。 太子の著作と言われる『三経義疏(さんきょうのぎしょ)』とは、三つのお経に注釈をほどこしたもので、その三つのお経とは『勝鬘(しょうまん)経』『維摩(ゆいま)経』『法華経』である。ここでは「勝鬘義疏」…

 推古朝の改革

推古朝は画期的な時代だった。律令体制という、当時における中国的先進国への脱皮は「大化の改新」から始まったと思われがちだが、実はそれより半世紀前、この推古朝の改革からスタートしたのである。 603年10月、小墾田宮(おはりたのみや)に遷宮する。小…

 継体天皇の謎

継体天皇も謎の多い天皇である。 暴虐で悪名高い武烈天皇(第25代)が跡継ぎのないまま若死にしてしまうと、大伴金村(おおとものかなむら)の主導で、はるばる越前の国から迎えられたのが継体天皇(第26代)である。応神天皇五世の孫という。まずこれが疑わ…

 仁徳天皇高津宮

高津宮址碑 ある時、仁徳天皇が高台にのぼって眺めると、家々から煙が立っていない。民はかまどでの煮炊きにも事欠いていると察した天皇は、それから三年間、労役を免除した。その間、天皇は衣類も新調せず、住まいが荒れて、雨が漏り、すきま風が吹き込んで…

 八代の系図

埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文は、「辛亥年(471年)七月中記す」と、記した年月日から始まり、そのあとは人名が列挙される系図となっている。 その最初の人物は「オワケノオミ(むろん原文はすべて漢字)」で、この人が鉄剣をつくらせた主人公であ…

 ワカタケル大王

雄略天皇は、若いころ大泊瀬皇子(オオハツセノミコ)といったが、ずいぶん粗暴な振るまいが多く、いとこの娘たちを妃にと申し入れたときも、「(あの方は)つねに暴(あら)く、強(こわ)くまします。たちまちに怒り起こりたまへば、朝にまみゆる者、夕に…

 王朝交替説

戦後の一時期、「王朝交替説」がにぎやかに議論された。1952年に水野祐が言い出した崇神王朝、応神王朝、継体王朝の三王朝説から始まって、その後、葛城王朝、九州王朝、吉備王国や出雲王国などなどである。 皮切りの水野説にも先達はあり、戦前の津田左右吉…

[感動日本史] 葛城一言主神

葛城一言主神社 春がすみいよよ濃くなる真昼間(まひるま)の なにも見えねば大和と思へ(前川佐美雄) 「春がすみ」とおだやかに歌い出すが、しだいに調子が変わり、下の句では怒涛の如く、一気に激して終わる。この語気はただごとではない。しかし、何が言…

 倭建命

小碓命(おうすのみこと)は、第十二代、景行天皇の皇子である。 ある朝、天皇は小碓命に「お前の兄は朝夕の食卓に顔を出さないようだが、お前から教え諭しておけ」と言われた。それから幾日か経ったが、一向に兄は顔を見せない。天皇が小碓命に「まだ教えて…

 卑弥呼の外交

『梁書』 卑弥呼の外交はすごい。 当時、中国は『三国志』の時代で、日本に近い華北の地は、魏の版図にあった。日本から見ると、朝鮮半島を伝って北上し、そこから魏へ行くには遼東半島を通過しなければならない。当時この遼東半島に、あたかも独立国のよう…

 倭人の記録

私たちは学校で、日本の国の始まりを、中国の文献で説明された。邪馬台国や卑弥呼の話しである。ところが邪馬台国の位置をたずねて、記述どおりに地図をたどってゆくと、九州南方の海に落っこちてしまうという。 一方、わが『古事記』『日本書紀』は信用でき…

 岩宿の発見

少年が10歳のころのことである。 少年の父は雅楽の演奏家で横笛を得意としたが、そのころ歌舞伎の巡業団に加わって九州あたりを転々としていた。そのうち留守宅への仕送りもとだえがちとなり、母は手内職や近くの別荘の草取りなどで小銭をかせぎ、5人の子ど…