大津皇子の悲劇

大津皇子がはじめて史書に登場するのは、「壬申の乱」のさなかである。
壬申の乱」は天武天皇の権力確立の出発点であるが、その妃、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)にとっても天武天皇との夫婦の絆を確固たるものとし、皇后への道を決定的にした出発点であった。ということは、わが子、草壁皇子(くさかべのみこ)をつぎの天皇にという当然の欲望が湧き出た源流でもあり、その犠牲となった大津皇子の悲劇の種子もここに宿ったと言える。
 以上のとらえ方から「壬申の乱」の経緯を述べてみよう。

 壬申の乱
 天智天皇は即位したときに、弟の大海人皇子を「皇太弟」として次の天皇を約束した。それなのに、いざ死期が迫ってくると、自分の子ども(大友皇子)に跡を継がせたくなった。
 そこで大海人皇子を病床に呼んで、皇位を継ぐようにと勧めるが、大海人皇子は丁重に辞退した。
 このとき、もしも天皇の言葉を素直に受け入れて「では不肖わたくしが天皇に」と答えたらどうなるか。謀反の疑いありとして否応なく逮捕されただろう。そういう時代なのである。
 大海人皇子天皇の前を辞すると別室でただちに髭や髪を剃り落として僧体となり、私有していた武器をすべて差し出すと、二日後には仏道修行のためと称して近江京をあとにして吉野に去った。
 世人は「虎に翼を着けて放てり」と評した。強大な実力者は身近に置いて監視すべきで、それを遠くに追いやったのは、虎に翼をつけて自由にさせたようなものだというのだ。大海人皇子がいかに畏敬の念をもって仰がれていたかがわかる。
 天智天皇崩御はそれから一カ月半ののちであった。
 さらに半年のち(672年)、大海人皇子は吉野を出て東国へ向かい、ここに古代史上最大の内乱「壬申の乱」の幕が切って落とされた。
 当初、大海人皇子に従ったのは、鸕野讃良皇女(のちの持統女帝)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)をはじめとする一族二十人ほどと女嬬十人ほどだったが、東進するにつれて軍勢も数を増した。途中、近江京に使者をやって、高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子を呼び寄せた。高市皇子の年齢は二十歳前後、大津皇子は十歳前後だったと推測される。
 高市皇子を招いたのは、頼りにできる身内としてである。何日かあとで、大海人皇子がこう嘆く場面がある。「近江朝廷には有力な諸将がそろっているのに、自分には心をうちあけて作戦の相談をする相手がいない」と。すると高市皇子が腕まくりして剣をつかんで「近江の軍勢がいかに多勢であろうと、天皇大海人皇子)の霊威に逆らえるものではありません」と励ました。これを聞いて大海人皇子は大いに喜び、高市皇子に軍の指揮権をゆだねたという。
 高市皇子はこのように頼れる身内だったが、一方、大津皇子はまだ子どもである。大海人皇子はおそらく大津皇子の聡明さを愛して将来に期待したのではないか。あるいは、この子は幼くして母を亡くしていたから、不憫でもあったろう。
 大海人皇子は戦いに勝利すると飛鳥古京に還り、天武天皇として、日本という国号や天皇という称号を定め、国家の基本たる法体系を創出するなど、古代史上、最も偉大な天皇となった。

 吉野の盟約
 壬申の乱から七年たった679年、天皇は吉野に行幸された。吉野は天武政権発祥の地であり、天皇・皇后夫婦の絆を磐石に固めた思い出の地である。
 これに同行したのは、皇后となった鸕野讃良皇女はじめ六人の皇子たちで、草壁皇子大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子(しきのみこ)である。注目すべきは河嶋皇子芝基皇子の二人は天智天皇の子だということ、また逆に天武天皇の皇子なのに呼ばれていない皇子もいるということだ。つまりこの六人は天武天皇の子供たちを集めたのではなく、その時点における皇位継承レースの最有力候補者たちを集めたのである。
 天皇が「汝らとともに盟(ちか)いて、千歳ののちに事なからしめむと欲す」(千年のちまで争いごとのないように盟約を結ぼう)と言われると、草壁皇子が「私たちは、母親こそ違うものの、天皇のお言葉に従って互いに助け合います」と誓った。他の五人の皇子たちもこれにつづいて次々と誓いを立てた。
 天皇は「襟(えり)をひらき、その六皇子を抱きたまふ」。
 いかにも芝居じみているが、要するに草壁皇子が六皇子を代表して真っ先に誓ってみせることで、後継者の立場を表現し、他の五人は争いをしないと誓ったわけだから、草壁後継を認めさせられたことになる。
 これが「吉野の盟約」だが、この演出は、鸕野讃良皇女のアイデアで、天皇はそれに従ったのではないか、というのが筆者の推測である。その理由はいくつかある。
 第一に、草壁皇子の擁立に最も熱心なのは、当然ながら実母である皇后鸕野讃良皇女であること。
 第二に、もし「吉野の盟約」が天武天皇の企画演出だったとしたら、吉野から帰ってすぐに草壁皇子を皇太子にすればよいのに、草壁立太子はそれから二年のちの681年であること。
 第三に、さらに二年後の683年に「大津皇子、はじめて朝政を聴く」とあって、大津皇子が政治を行ったというのである。「えっ? 草壁皇子で決まりじゃなかったの?」という感じで、天武天皇の真意が疑われてくる。
 だいたい天皇大津皇子がお気に入りだった。壬申の乱のとき近江から呼び寄せたのもその証左だが、ずばり「天皇大津皇子を愛していた」と書いた記事がある。大津皇子の死を報じた箇所である。
 「(大津皇子は)容止墻岸(ようししょうがん=立ち居ふるまいがきわだっている)、音辞俊朗(言葉がすぐれて明晰)なり。天命開別天皇天武天皇)の愛するところとなる。長ずるに及び弁(わきわき)しく(分別がある)、才学あり、もっとも文筆をこのむ。詩賦(漢詩)の興り大津よりはじまれり」と、べた褒めである。
 これに対して、草壁皇子はどうか。残念ながら、その人柄に触れた記述は皆無であり、凡庸だったと推察するしかない。
 となると、皇后としてはわが子、草壁皇子の地位を確たるものとする演出が必要で、それが「吉野の盟約」だったと思う。

 ライバル
 この時代、天皇レースの優劣は、まず実母の出自であった。草壁皇子の母、鸕野讃良皇女は天智天皇の娘である。つまり皇女からみれば、父の弟(叔父)に嫁いだことになる。
 天智天皇の娘で天武天皇の皇后だから、その子が皇太子となって当然である。
 これに対して大津皇子の母はといえば、これまた天智天皇の娘で大田皇女といい、鸕野讃良皇女の姉なのである。ただこの姉は667年に若くして亡くなってしまった。あとに残されたのは大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子姉弟で、大津皇子はこのとき五歳だった。 要するに草壁皇子の母と大津皇子の母は実の姉妹で、家柄に優劣はまったくない。二人は宿命のライバルだったのである。
 では他の皇子たちはどうかと見ると、最も実力のあるのは高市皇子で、壬申の乱天武天皇から軍の指揮を委ねられたほどであったし、のち持統女帝は彼を太政大臣に任じて政界首座に据えているほどである。ただその母は胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)という九州の豪族の娘で、身分差は歴然としている。
 皇太子の地位を得て次期天皇を約束された草壁皇子。人気と「聴政(まつりごとを聴く)」という立場を得た大津皇子。二人の争いが予断を許さぬ状態のまま、朱鳥元年(686)九月九日、天武天皇崩御する。

 謀反
 大津皇子が謀反により逮捕されたのは、天皇崩御からひと月もたたぬ十月二日であった。連座して逮捕されたもの三十余人。
 翌日には「死を賜る。ときに年二十四」。
 皇子の妃、山辺皇女は「髪をみだし、すあしにて奔(はし)りゆきて殉ず(殉死する)。見るもの皆すすりなく」。
 ところがそれから二六日後には、持統女帝はつぎのような詔を出す。
 「大津皇子は謀反した。皇子にだまされて加担した役人らはやむをえなかったのだ。今、皇子は死んだので、縁坐した従者はみな赦(ゆる)せ。ただし礪杵道作(ときのみちつくり)は伊豆に流せ。また新羅僧行心(こうしん)は謀反に加わったが、処罰するに忍びないので飛騨国の寺に送れ」。三十余人のうち、流罪一名、左遷一名で、他は無罪放免である。
いったい大津皇子の謀反とは何だったのか。本当に謀反の実体があったのか。
 もっとも、以上は『日本書紀』の記述で、日本最古の漢詩集として有名な『懐風藻』の「河島皇子伝」にはこう書いてある。
 「(河島皇子は)はじめ大津皇子と莫逆のちぎりをなす。津(大津皇子)逆を謀るに及び、島(河島皇子)すなわち変を告ぐ」とあって、河島皇子が密告したという。
 また同書「大津皇子伝」にも、
 「ときに新羅僧行心あり。天文卜筮を解す。皇子につげていわく。太子の骨法はこれ人臣の相ならず。これをもって久しく下位にあらば、おそらくは身を全くせざらんと。よりて逆謀をすすむ」。「あなたの相は人につかえる相ではなく、このままでは身を滅ぼすことになります、と謀反をすすめた」というのである。
 このように『懐風藻』は、謀反があったという書きぶりである。
 筆者の結論を言えば「大津皇子のささいな失敗をとがめて謀反と言いつのり、死に追い込んだのだろう」と思う。
 その根拠は、天武天皇崩御の記事である。
  (朱鳥元年、686年、九月九日)天皇の病、ついにいえず、正宮において崩ず。
  (一一日)はじめて哭を発す(死を悲しんで泣き声を発する儀礼)。すなわち南庭に殯宮(もがりのみや)をたつ。
  (二四日)南庭で殯を行い、哀を発す(哭に同じ)。是の時に当り、大津皇子、皇太子に謀反す。
  (二七日)もろもろの僧尼、殯の庭において哭を発して退く。・・・(以下儀式が続く)
 ご注意いただきたいのは、「是の時に当り」の一句である。
 「この日に別の場所で謀反があった」のだろうか。ここは、そう読むよりも、「殯の儀礼を行っている、そのときに、謀反があった」と解釈すべきだろうと思う。その謀反は皇太子に対する謀反だったというのだから、儀礼の場における大津皇子の何らかの行為が、皇太子に失礼にあたるものだった、ということではないか。その行為は作為的なものだったとして咎められたが、実は悪意のない失態だったかもしれないし、ましてや大津皇子天武天皇から「聴政」という立場を認められていたのだから、儀礼の場でも最高クラスの扱いを受け、そう振る舞っていただろう。そこに難癖をつけられたかもしれない。
 そもそも「謀反」という言葉から受けるイメージとしては、武器を携えた多数の兵が集合して・・・というものではないか。しかるに『懐風藻』にも『日本書紀』にも、「謀反があった」というばかりで、武器を集めたとか、兵を集めたといった話しはまったくない。
 それにもし武装蜂起といった動きがあったのならば、九月二四日に謀反が発覚しながら、一〇月二日に逮捕という悠長な経過にはなるまい。
 さらに、大津皇子は伊勢にいる姉を訪ねて今生の別れを告げているし、辞世の漢詩や短歌を残している。これは謀反と決めつけられてから逮捕まで時間があったこと、その間、大津皇子武装蜂起の準備をしたわけでもなく、逃亡したわけでもなく、ただ身に迫る危険におののく日々を送っていただけだろうと思われる。

 姉の悲しみ
 大津皇子には母を同じくする姉がいた。大伯皇女(おおくのひめみこ)という。父天武天皇はこの皇女を伊勢神宮に遣って、斎宮(斎王)として仕えさせていた。大津皇子はその姉に会いに行っている。日にちは特定できないが、すでに状況は切迫していたようで、おそらく最後の別れを告げるためだったのであろう。
 突然の弟の訪問と、窮地に陥ったいきさつを聞いて、姉はさぞ動転し悲しんだことだろう。あっという間に時がたち、別れのときがきた。
 大伯皇女の歌が残っている。
  ふたり行けど行きすぎがたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ(万葉0106)
  (ふたりで手をとり合って歩いても危ない山道を、弟よ、あなたはひとりでどうやって越えて行くのでしょう)
  わが背子を大和へやるとさ夜ふけて あかつき露にわれ立ちぬれし(万葉0105)
 あわただしい別れだった。いつまでも別れがたく、ついに夜がふけてしまった。暗い運命の待つ大和の地へ、それでも弟は帰らねばならない。見送った姉はそのまま弟の行く末を案じながら、あかつきの露に濡れるまで立ち尽くしていたというのである。
 
 大津皇子の遺体がどこに埋葬されたのか定かでないが、その後、二上山に改葬された。おそらく持統女帝の指示であろうが、いかなる心境による措置だったのか。
 大伯皇女もすでに伊勢から飛鳥の都に呼びもどされていた。
 飛鳥から西を望めば、夕陽の落ちるあたりに、二上山が二つの峰を並べてたたずんでいる。そこに大津皇子は眠っている。
 大伯皇女はこう詠んでいる。
 うつそみの人にある吾や あすよりは二上山を弟(いろせ)とわが見む(万葉0165)
 「現身(うつそみ)の人にある吾や」とは、「この世に、まだ生きている私です」というのである。生きていることが辛いのである。弟と一緒に、この世ならぬところに行ってしまった方がよかったのである。何と悲しい歌だろう。(了)