大和を考える

大和神社
 
(1)ヤマトタケルの「ヤマト」  

 ある大学の先生が、学生に漢字の読み方の問題を出したそうです。最初は「天照大神」。ある学生の答案にいわく「てんてるだいじん」。これはペケで、正解は「あまてらすおおみかみ」。2つ目は「日本武尊」。「にほんぶそん」ではなくて、正解は「やまとたけるのみこと」。3つ目は「倭建命」。「わけんめい」ではなく、これも「やまとたけるのみこと」が正解です。

 天照大神はともかく、ここでは「ヤマトタケル」に注目します。ヤマトタケル古事記日本書紀に登場する伝説上の英雄で、先代市川猿之助スーパー歌舞伎でも有名です。そのヤマトタケルに二つの漢字表記があるのはなぜか、を考えたいのです。

 まずタケルは「武」でも「建」でも「タケル」と読めますから、まあいいとして、「日本」と書いて、なんで「ヤマト」と読めるのか、「倭(わ)」と書いて、なんで「ヤマト」と読めるのか、「ヤマト」は「大和」じゃなかったのか、といったことを考えてみたいのです。

 最初に注釈をつければ、「日本武尊」は『日本書紀』の表記、「倭建命」は『古事記』の表記だということです。では古事記日本書紀に、ヤマトタケルの場合と同じように、「ヤマト」を「日本」と書いたり「倭」と書いたりした例は、他にはないのでしょうか。

 

(2)「倭」から「日本」へ

 戦前の教育を受けられた方々で、歴代天皇の名前を暗誦できる方がおられます。神武、綏靖、安寧、懿徳・・・という調子です。これらは漢字2字による漢風諡号(かんぷうしごう)、つまり「中国風の、死後の贈り名」ですが、もうひとつ和風諡号という贈り名があります。たとえば神武天皇の漢風諡号は「神武」で、和風諡号は「かんヤマトいわれびこのみこと」です。この和風諡号は、古事記では「神倭伊波礼琵古命」と表記され「ヤマト」の部分は「倭」(音読みではワ)です。また日本書紀では「神日本磐余彦尊」で、「ヤマト」の部分は「日本」となっています。これはヤマトタケルの「ヤマト」が古事記では「倭」、日本書紀では「日本」と表記されているのと同じです。

 古事記日本書紀でなぜヤマトの漢字表記が違うのでしょう。それは書物としての性格が違うからです。二つとも同じ神代(かみよ)の物語から始まる歴代天皇の物語には違いないのですが、古事記(712年成立)は口伝えも含めた古い記録に基づいた、いわば民間の日本古代史物語であり、それに対して日本書紀(720年成立)は、国家事業として編纂された官製の「正史」なのです。つまり古くからの「倭」という国名を、古事記では残していますが、正史である日本書紀では「もう『倭』は使わず、『日本』が正式ですよ」と主張しているのです。

 このように国名を「日本」と決めたのは、天武天皇(在位673~686、生年不詳)のころだと言われます。この国名変更は唐に通知され、以後、唐の歴史書は「倭」をやめて「日本」と変わっています。

 ヤマトの漢字表記が「倭」から「日本」に変わったわけですが、ではわが国はいつから「倭(ワ)」という漢字で表記されていたのでしょうか。

 

 (3)倭の登場

 「楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)あり(漢書)」

 この一文が、わが国を世界に紹介した初めての文献です。時は紀元前1世紀ごろのこと。漢帝国の楽浪地方(朝鮮半島の付け根あたり)の海の向こうの島に倭人がいる、という意味です。

 次に倭が登場するのは『後漢書』で、紀元後57年の出来事です。倭の奴国(なこく)から使者が来たので、光武帝印綬(いんじゅ=ひも付きの印鑑=金印)を与えたと書いています。ここではわが日本列島の詳しい地形はわからぬままざっくりと「倭」と呼び、その中に「奴国」があると書いているわけです。

 つぎに倭が登場する文献は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で、3世紀のわが国を描いています。ここでは朝鮮半島から対馬壱岐を経て邪馬台国に至る道すじが書かれています。

 倭においては、国々が互いに戦う戦乱の時代があり、その末に「共に一女子(卑弥呼=ひみこ)を立てて王となす」ことで倭の内乱が収まったと書いてあります。このように卑弥呼を「共立した」国々から成る連邦国家(女王国)を、近年の専門家たちは「邪馬台国連合」と呼んでいます。その中心にして最大の国は、むろん「卑弥呼が都する所」である邪馬台国です。つまり卑弥呼は「邪馬台国の女王」ですが、同時に「邪馬台国連合の女王」なのです。

 この邪馬台国連合は、あくまで連合であって、邪馬台国周辺諸国を「征服」したとは限りません。例えば伊都国は「世々、王あるも、皆、女王国に統属す(代々、王がいるが、皆、女王国の連合に参加していた)」とあるように、王を戴く伊都国という独立性を保ちつつ大きな邪馬台国連合という傘の中に入っていたのです。反対に、狗奴国(くぬこく)のように「男子を王となす。女王国に属せず」と、まだ連合に対立している国もありました。

 

(4)邪馬台は「ヤマト」

 『魏志倭人伝』では、対馬国(ツシマコク)とか伊都国(イトコク)とか、いちいち「国(コク)」がついていますが、それは魏(ぎ)の役人が倭(わ)の村落のことを「国」と記録しただけで、まだ文字を持たない倭の使者たちが、実際に魏の役人に話したとき、口頭では、つまり言葉では、「ツシマ」「イト」「マツラ(末盧)」というふうに、「国」を付けなかったと思います。だから邪馬台国にも「国」は付けなかった、「ヤマタイコク」の「コク」は言わなかったと思うのです。

 では倭人は「ヤマタイ」と言ったでしょうか。そうではなくて、「ヤマト」と言った、と私は思います。それを聞いて魏の役人は勝手に「邪馬台」という漢字を当てて記録したのだと思うのです。

 「ヤマト」を中核とした連合(邪馬台国連合)はその後、拡大を続けて、あたかもローマという都市が膨張してローマ帝国となったように、周辺諸国を傘下に吞み込んでその勢力がほぼ倭国を覆ったと見えたとき、魏はヤマトの女王卑弥呼を倭の女王と認め、「親魏倭王(魏と親交のある倭の王)」と認定します。本来の「ヤマト(邪馬台)」に加えて、肥大化した「ヤマト連合」つまり倭国全体をもヤマトと言った。だから漢字の「倭(わ)」は「ヤマト」と読むようになり、「倭」が「日本」と漢字表記が変わっても、読み方は両方とも「ヤマト」だったのです。

 つまり「邪馬台国」も「倭」も「日本」も、漢字でそう書くだけで、話し言葉ではつまり読み方としては最初からずっと「ヤマト」であり、最初からずっとわが国の国名は「ヤマト」だったのです。ヤマト魂、ヤマト絵、ヤマト言葉、ヤマト撫子、それらが奈良県ではなく日本を指しているのはそういう理由です。

 

(5)奈良県はなぜ「大和」か?

 奈良時代の八世紀初めごろ、各地の国の名前は「漢字2字とし、好字(良い字)を用いよ」という命令が出ます。例えば、近淡海(ちかつおうみ)を近江、上毛野(かみつけぬ)を上野(こうづけ)、木を紀伊、粟を阿波などと改めます。

 奈良県(ヤマト)は、「倭」と漢字表記していたのですが、これを「和」という「好字」とし、さらに2字にすべく「大」をつけて「大和」とし、これを「やまと」と読むことにしたのです。

 奈良県に「大和神社」という古い神社があります。普通に読めば「やまとじんじゃ」となりそうですが、ここは「おおやまとじんじゃ」で「和」だけでヤマトと読むのです。

  古くは「倭(わ)」をヤマトと読んでいたのですが、「倭」という漢字は、背の小さい人を意味していて「好字」とは言えないので「和(わ)」に変えたわけで、「和」となってもやはり「ヤマト」に違いないのです。「倭」は「ヤマト」つまり「日本」のことでしたから、「和」と漢字を変えても「日本」を意味するのは同じことで、「和風」「和様」「和式」など、今も使われています。

 倭建命(ヤマトタケルノミコト)は九州の熊襲建(クマソタケル)や、山陰の出雲建(イズモタケル)を征伐した英雄ですが、近江で傷を負い、今の亀山あたりまでたどりついた時、目指すふるさとヤマトの地を思いつつ「倭(やまと)は国のまほろば、たたなづく青垣、山籠(やまごも)れる倭し麗し」と詠い、この地に絶命します。これは古事記の語る伝説にすぎませんが、この歌の倭(やまと)が日本ではなく奈良県を指すことは明らかです。さらにこの伝説は、邪馬台国連合が熊襲や出雲を傘下におさめた記憶を、ひとりの英雄に仮託して語ったものでしょう。邪馬台国連合が黎明期の大和朝廷と重なることは明らかで、今も考古学は営々として「親魏倭王」の証拠物件を探し続けているのです。(了)