2009-01-01から1ヶ月間の記事一覧

 卑弥呼の外交

『梁書』 卑弥呼の外交はすごい。 当時、中国は『三国志』の時代で、日本に近い華北の地は、魏の版図にあった。日本から見ると、朝鮮半島を伝って北上し、そこから魏へ行くには遼東半島を通過しなければならない。当時この遼東半島に、あたかも独立国のよう…

 倭人の記録

私たちは学校で、日本の国の始まりを、中国の文献で説明された。邪馬台国や卑弥呼の話しである。ところが邪馬台国の位置をたずねて、記述どおりに地図をたどってゆくと、九州南方の海に落っこちてしまうという。 一方、わが『古事記』『日本書紀』は信用でき…

 岩宿の発見

少年が10歳のころのことである。 少年の父は雅楽の演奏家で横笛を得意としたが、そのころ歌舞伎の巡業団に加わって九州あたりを転々としていた。そのうち留守宅への仕送りもとだえがちとなり、母は手内職や近くの別荘の草取りなどで小銭をかせぎ、5人の子ど…

神願寺はどこか

京都の高雄といえば紅葉の名所だが、また神護寺でも有名である。 神護寺は和気氏の氏寺(うじでら)で、もと高雄山寺(たかおさんじ)と言った。この高雄山寺と神願寺(じんがんじ)という寺を合併したのが神護寺なのである。古い順に繰り返すと、神願寺が出…

くじ将軍

室町幕府の第四代将軍足利義持は、病気で重態になり、重臣たちに後継者の決定を求められたが「しかるべきように」としか言わない。重臣のひとり醍醐三宝院満済は、候補者である四人の「御名字を八幡神前において御くじをめされ」てはどうかと申し上げたとこ…

吉井勇と一枚の写真

八幡市の松花堂庭園のなかに資料館がある。資料館の展示室に入ると、すぐ左側の端に、吉井勇関係の資料が展示してある。 その中に古ぼけた一枚の写真がある。和服を着た十数人の集合写真で、説明文にこう書いてある。 「松花堂庭園にて。吉井勇、孝子夫人、…

八幡切

書道の世界では、平安から鎌倉初期にかけて書かれた仮名の名品を「古筆」(こひつ)という。「秋萩帖(あきはぎちょう)」「高野切(こうやぎれ)」「寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)」などは、古筆の最高峰として有名である。 そうした古筆のひとつに「…

八幡の「園と栗」

律令制のもとで、天皇家・貴族・社寺などは、各地に「園」あるいは「御園(みその)」と呼ばれる土地を持っていた。 園は田んぼではない。竹御園、橘園、漆園、柿御園、松茸御園、黄瓜御園、石榴園、地黄御園、柑子園などの名前が史書に見えるように、竹、漆…