卑弥呼の外交

梁書』 


 卑弥呼の外交はすごい。
当時、中国は『三国志』の時代で、日本に近い華北の地は、魏の版図にあった。日本から見ると、朝鮮半島を伝って北上し、そこから魏へ行くには遼東半島を通過しなければならない。当時この遼東半島に、あたかも独立国のように勢力を張ったのが、公孫氏(こうそんし)であった。魏にとっても日本にとっても邪魔な存在だった。ところが魏は238年8月、目の上のこぶだったこの公孫氏を攻め滅ぼしてしまう。すると翌239年(景初3年)6月、卑弥呼は魏に遣いを送って、魏の明帝の歓迎を受けている。卑弥呼は公孫氏の滅亡と、そのおかげで魏への交通が楽になったことを情報として知っていたのである。そういう大陸の政治状況を見極めて、すばやく対応した外交手腕は鮮やかである。
卑弥呼は「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」とあるために、未開野蛮な女酋長みたいなイメージを持たれがちだが、そういう「宗教的状況」と「文明の進歩の度合い」とは次元の違うものである。その証左として、現代的なビルの屋上に古色蒼然たる神社が祀られているという事例を挙げておこう。
こののち卑弥呼ないし倭王は魏と頻繁に交流しているが、265年に魏が滅亡し西晋が起こると、さっそく翌266年、倭の女王(おそらく壱与)は西晋に遣いを出して貢献している。これまた的確な外交である。
ところで「記紀」の伝承によれば、応神天皇のときに百済王仁博士が『論語』と『千字文』を持ってきた、これがわが国への漢字伝来の初めだという。そんなことはないでしょう、と私は思うし、多くの専門家もそう言う。王仁博士の話しは漢文の権威を招請したという話しであって、漢字はそれ以前から伝わっていただろうと。そう言いながら、専門家は、王仁博士と漢字が来たのは、応神天皇が実在したとして、5世紀前半のころのこと、まあそれより前に漢字は来ていたでしょう、としか言わない。つまり漢字をつかって日本語が書かれるのは5世紀からというのである。
それではそれより200年以上前の3世紀の卑弥呼の遣いは、魏の皇帝に漢字で書かれた国書を捧げなかったのだろうか。魏の皇帝から鏡や印をもらっても、そこに刻まれた漢字が理解できなかったのだろうか。そんなバカな話しはない。もちろん公式な国書の漢文は中国の専門家をやとって書いてもらっただろうが、邪馬台国の政治中枢には日常的に漢文を読み書きできる人はたくさんいたに違いない。
と言うと、そこはちょっと違う、と反論があるでしょう。中国語としての漢字の読み書きはできたとしても、日本語の話し言葉を漢字で表記するという発明は、まだなかったのではないか、と。しかし、日本の話語を漢字で表記することが、そんなに突拍子もない大発明だろうか。現に、倭人が日本語の話し言葉で「ナの国」と言えば、中国人は「奴」と漢字で書いているではないか。「ヤマト」と言えば「邪馬台」と書いているではないか。それを自分たちも使うだけのことで、そんなことはすぐにできるし、やっていたにちがいない。卑弥呼邪馬台国を未開野蛮とバカにしないでほしい。
たとえば私たちは、「縄文時代」を未開野蛮な時代と想像していたが、その集落の巨大にして整然たる構造に唖然とし、巨大な柱あとが出土するとその建築技術の高さに驚き、編布(あんぎん)という布が各地で出土すると縄文人の衣服のイメージを一新させられ、骨でつくった釣り針の反り(かえり)や漁網を見てその智恵の深さに目を見張り、食生活の豊かさに感心させられてきた。新発見があるたびに、それまでの想像を上回る文明の高さに驚かされてきた。
いま、弥生時代についても、その始まりを数百年さかのぼらせるべきだという提言が学者から出ている。これまで水田稲作の始まりは紀元前5世紀から4世紀のころとされてきたが、それを紀元前1000年までさかのぼらせるべきだという。その当否はともかく、研究が進めば進むほど、古代は想像をつぎつぎと裏切って文明度の高さを明らかにしてゆくものである。今後、邪馬台国も想像以上に進歩した国だったことがわかってくるだろう。

 それでは、邪馬台国をもっと文明度の高いものとしてイメージすると、どうなるだろう。おそらく初期の大和朝廷の在り方とダブってくるだろう。
私の結論を先に言うと、邪馬台国大和朝廷の原初の姿だと思う。
 
 『魏志倭人伝』を読もう。
倭国」はもと男王だったが、倭国が大いに乱れたため、「共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」。
 ここで注を入れると、「倭国」とは「倭人の住む国」という意味で、いわば漠然と、中国から見た日本列島全体のことと思っていただきたい。そして倭国はまだ完成された統一国家になっておらず、もともとの百余国から、各地で統合を重ねて、ざっと三分の一くらいの数にまとまってきていた。「連合国家としての倭国」へと進んでいたのである。この「連合国家倭国」は、はじめ男王を立てていたが、互いにあい争う戦国時代になった。「倭国大乱」である。やがて和平の機運が訪れて、今度は「一女子」を「共立」して、つまり「共にいただいて」やっと平和を回復した。その女王の名が卑弥呼である。
 ここにご注意いただきたい。卑弥呼は「倭国の女王」なのである。もっと言えば「邪馬台国の女王」ではないのである。邪馬台国は「女王の都するところ」にすぎない。卑弥呼邪馬台国に都を置いていた、つまり居住していたけれども、その地位はあくまでも「倭王」なのだ。卑弥呼は「親魏倭王」、つまり魏の冊封体制に直接的に属する倭国王であった。
 倭の諸国は、「(魏と)使訳通じるところ三十国」(魏と外交関係のある三十国)とあるように、三十国それぞれが、あたかも漢代の「漢倭奴国王」(漢に属する倭に属する奴国)のように、おのおの魏と通じていた。それに対して「親魏倭王卑弥呼は「魏に(直接的に属する)倭王」であって、諸国王とは一段上の立場にあり、決して「親魏倭邪馬台国王」ではないのである。
 というのは私の独断と偏見である。人はこう反論するだろう。邪馬台国を女王国とも言っているではないかと。その通り、中国の文献では倭国邪馬台国がしばしば混用されているのである。なぜそんな混用が生じたかを説明しなければならない。
邪馬台国は、倭国を形成する三十国の中で、もっとも強大な国だった。共立された卑弥呼は、その邪馬台国に都を置いた。日本列島に成立したこのような国家を、近年、学者たちは「邪馬台国連合」と呼ぶ。そして邪馬台国は女王の宮処(みやこ)する連合の中心地となることによって、他のどの国よりも強く大きいというそれまでの比較級のレベルを超えて、最上級の圧倒的・絶対的な存在になっていったのだろう。
私は「邪馬台」は「ヤマト」の音写だと思う。そして邪馬台国奈良盆地にあったと思う。ヤマト(=邪馬台国)が版図を拡大し、倭国(わこく)全体に対する支配を拡大してゆくと、「ヤマト」は「倭」と同じことになり、倭(わ)と書いて「ヤマト」と読むようになった。そしてのちに「倭」の文字を嫌って「和」に変更し、ヤマトは「大和」になっていった。この過程はつまりヤマト朝廷の発展過程をなぞっただけである。
 つまり卑弥呼を「倭王」とも言い、邪馬台国を女王国とも言うのは、もともと別の概念だった「倭」と「邪馬台国」が、「邪馬台国=倭=ヤマト」と変わっていったせいであって、中国文献の誤解でも混同でもない。
 要するに、私は、邪馬台国とその時代の文明度をもっと高度なものと考えれば、それはヤマト朝廷の始まりになる、と言うのである。
だいたいあの邪馬台国の行程記事を見れば、あれが狭い九州の中におさまるはずがないではないか。それに邪馬台国が奈良でないとすると、そんな強大な国が、その後、いったいどこに消えたというのだろう。(了)