倭人の記録

 

 私たちは学校で、日本の国の始まりを、中国の文献で説明された。邪馬台国卑弥呼の話しである。ところが邪馬台国の位置をたずねて、記述どおりに地図をたどってゆくと、九州南方の海に落っこちてしまうという。
 一方、わが『古事記』『日本書紀』は信用できないとして無視される。邪馬台国が海に落っこちる中国文献を信用して、日本文献を信用しないとは、どういうこっちゃと、私は長らく思うておりましたが、ちょっと勉強してみますと、なるほど学者先生方のおっしゃるとおり、中国文献の方が格段に信頼性が高いと、残念ながら認めざるを得ません。
 
 大雑把に言えば、古代の中国と日本では、歴史と文明の発展度が違う。
 中国最初の「夏」という国は前2000年ごろというが、実在したかどうかは不確実である。次が「殷」でこれは実在まちがいなく、前1600〜1046年という。このころ日本は縄文時代である。
 孔子が活躍する前500年ごろ、日本で水田稲作による弥生時代が始まるのである。
かくのごとく、彼我の文明度は圧倒的に違う。
 歴史書を比べても、中国最初の国史である司馬遷史記』が前91年に成立したのに対して、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)は奈良時代で、800年違う。
 歴史と文明にこれだけの差がある。妙な肩肘を張らず、素直に中国文献に敬意を表するしかないのである。
 
 そこで、中国文献に従って、もう少し具体的に、日本の始まりを、私なりに考えてみます。
 日本が最初に登場する中国文献は『漢書地理志』である。
  「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」
 楽浪は朝鮮半島のつけ根、漢帝国の東の果てで、その楽浪の海の向こうに倭人がいて、百余の国があるという。「分かれて」とは、バラバラでまとまりがないということで、したがって「国」と言えないから、「倭国」と言わず「倭人」と言っているのである。
 以上の表現は、紀元零年前後、弥生時代のわが国の状況を的確に描写していると言える。九州北部(板付遺跡・菜畑遺跡)に伝播した水田稲作が列島を北上して、すでに本州北端(垂柳遺跡)に到達しており、人が群れ集まって暮らす集落(クニ)が各地に点在していた、という考古学的知見と一致するからである。
 この「倭人」は未開の野蛮人ではない。「歳時をもって来たり献見す」、つまり百余のうちのいくつかのクニは、定期的に漢帝国にあいさつに来ていたという。漢帝国の強大さを熟知していて、その逆鱗に触れぬよう外交につとめていたわけで、とうてい未開野蛮ではありえない。
 次に日本が中国文献に登場するのは『後漢書東夷伝』で、紀元後57年の出来事を記す。
  「倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。(略)光武、賜うに印綬をもってす」
 かつては百あまりの国があったが、数十年たって、吸収・合併によりいくらかは減っていたでしょう。そのなかの奴国という国が朝貢してきたので、光武帝は紐のついた印鑑をあげた、というのである。 
 江戸時代に博多湾志賀島から農民が金印を掘り出した。そこには「漢委奴国王」の5文字がきざまれていた。光武帝が奴国の使いに賜わった印そのものずばりが出たわけで、これは現在ただ今までの日本考古学史上、最大最高の発見である。奇跡としか言いようがない。この金印は、単に『後漢書東夷伝』の正しさを証明しただけでなく、中国文献に記された日本関係の記事全体の信頼性の高さに、文字通り太鼓判を押したことになるからだ。
 この記事のあと、日本関連記事は、有名な『魏志倭人伝』となり、2世紀後半から3世紀の邪馬台国卑弥呼の話しになる。問題は邪馬台国の位置がまちがっていることで、これは位置だけの問題ではなく、たとえば、倭人は刺青(鯨面文身)をして海にもぐって漁をしているなどという記事も、邪馬台国が南にあると誤解したがゆえに、南方の風俗をいいかげんに採り入れた可能性が出てくる。だから『魏志倭人伝』を完全に鵜呑みにはせず、批判しつつ参考にするしかない。
 
 では、わが『古事記』『日本書紀』はどうかと見ると、天照大神が天岩戸にお隠れになるとあたりが夜のように暗くなったとか、神武天皇は137歳で亡くなったとか、げんなりすることばかり書いてある。じゃあ、終わりまで全部嘘かというと、そんなことはない。
 「欠史八代」という。第一代神武天皇については、信用はできないがとにかく記事はある。ところが二代から九代までの八代の天皇については、前の天皇の子であること、母の出自、皇太子になった時期、亡くなった時期、葬られた陵の名、宮の所在地など、基本事項のみで、どんな政治的功績を残されたかという「事績」が書かれていない、というので「欠史八代」である。
 そのあと第十代崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」、つまり初めて国を治めた天皇と呼ばれたというので、本当はこれが第一代天皇で、ここらあたりから、「記紀」の記事も何らかの史実を反映しているのではないか、と言われている。だが、致命的なのは、これらの記述が西暦で何年のことなのか、さっぱりわからないことである。理由は、天皇家と日本の歴史をできるだけ由緒あるもの、つまり古く見せようとして、架空の天皇をつくったり、天皇の年齢を引き伸ばしたりしたからである。
 というわけで、3世紀の卑弥呼の時代に相応する日本文献は、信用できるものがありませんということになる。
 
 しかし不思議なのは、「記紀」に邪馬台国卑弥呼も出てこないことである。
 ただし卑弥呼については『日本書紀神功皇后六十六年条に注記がある。
  「晋の起居注に云はく、『武帝の泰初二年十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せし        む』といふ。」
 書紀編者は、この「倭の女王」を卑弥呼とし、卑弥呼神功皇后と考えた。神功皇后は第十四代仲哀天皇の皇后だから、書紀編者としては卑弥呼以前十三代もあるんだぞ、と言いたげである。
 さてこのあと、中国史書から日本関係の記事が消えてしまい、4世紀は空白となる。いわゆる「謎の4世紀」である。
 5世紀になると「倭の五王」が『宋書』に登場する。五人の王は応神・仁徳以下の天皇に比定されているが、「記紀」は『宋書』の「倭の五王」については一切触れていない。『宋書』を読んでいなかったのか、読んでいても無視したのか。
 思うに、中国の冊封体制から脱して対等外交を志す「記紀」編纂時代(飛鳥・奈良時代)の誇り高き日本の為政者にとって、倭人が中国に朝貢した歴史など、知っていても書きたくなかったに違いない。(了)