岩宿の発見


 少年が10歳のころのことである。
 少年の父は雅楽演奏家で横笛を得意としたが、そのころ歌舞伎の巡業団に加わって九州あたりを転々としていた。そのうち留守宅への仕送りもとだえがちとなり、母は手内職や近くの別荘の草取りなどで小銭をかせぎ、5人の子どもを食べさせながら、その日その日をしのいでいた。
 そんなときに、少年のすぐ下の妹が風邪をこじらせて死んでしまった。母は父に何通も電報を打ったが、旅先のこととて届かなかった。母は近所の人に手伝ってもらって、死んだ妹の野辺の送りを済ませた。その夜、ちゃぶ台に置かれた小さな白い箱の前に、少年はすわっていた。幼いふたりの妹と弟は疲れて眠っていた。母は線香に火をつけながら、死んだ妹の遺骨に向かって、こうつぶやいた。
 「死んだおまえは、幸福だよ」
 この母にとって、日々を生きてゆくことは、すでに耐えがたいほどつらいことだったのだろう。あるいは残った4人の子どもたちの、前途の不幸を思いやった言葉だったのかもしれない。
 10日ほどのちに帰宅した父は、妹の死を聞くと、「なんで知らせなかった」と母をどなりつけた。それから何日か、父と母のあいだで口論と話し合いがつづき、ときに親類の人や近所の人たちも加わった。少年は、おどおどとおとなたちを見ていた。おとなたちの低い会話のなかには、「そんな生木を裂くようなことをしなくても」という言葉が聞き取れたし、泣きはらした顔を隠そうとする母も見えたし、「お母さんがいなくなったら、どうする?」という母の質問の裏も推測できた。何が起こっているかは、子どもごころにも察しがついた。
 ある日、遊んで帰ってくると、いつも弟を背負って夕食の仕度をしている母の姿がない。少年は驚き、不安で胸を痛めていた。夜11時ごろ、ガラス戸越しに、弟を背負った母が帰ってくるのが見えた。少年は泣きじゃくりながら母親にかじりついた。「ばかだねえ。どこへも行きはしないよ」と母は言うのだった。だが、それからは、学校から帰るとすぐ母の姿をさがし、夜中に目がさめると母が寝ていることを確かめた。母がいなくなるという不安におびえる毎日・・・がんぜない子どもに、なんと過酷な日々だろう。
 だが、ついにある朝、目ざめると母の姿はなくなっていた。数日のうちに、父は子どもたちをひとりずつ背負って出かけては、どこかへあずけてまわった。少年も近所のお寺にあずけられた。
 この幸せうすい少年にも、こころを暖める拠りどころがあった。それは土の中から掘り出される石器や土器を集めることだった。少年の家の近所で工事があり、地ならしの作業によって土器片が出ると、少年はそれをもらって帰るのだった。ある時、少年が集めたものを見たいという人があり、少年は箱に並べた土器片を見せた。そしてその人に、それらがいつの時代のもので、何をするものかと尋ねてみた。すると、その人はこんなふうに教えてくれた。
 「これは大昔のもので、お父さんは狩りに出かけ、お母さんが土器をつくり、夜になってお父さんが獲物を持って帰って来ると、いろりの火を囲んで子どもたちと一緒に、その日の出来事を語り合いながら食事をした、そういう住居の跡から出てきたんだよ」。
 その話しは、少年の乾いたこころに水のようにしみじみとしみ込んだ。以来、少年は石器や土器を手にしながら、家族団らんの情景を思い描いて、こころを暖めるのだった。
 こうしてひとりの考古学少年が誕生した。
 少年の名前を「相沢忠洋」という。

 やがて相沢忠洋は、父に連れられて、住みなれた鎌倉を離れて群馬県の桐生に移った。それから浅草の履物屋に小僧として奉公に出た。さらに長じて海軍にはいり、昭和20年の敗戦で除隊となる。戦後は桐生にもどり、農家を訪ねて食料の買出しを始め、のちに日用品・雑貨・小間物や納豆などの行商でほそぼそと暮らしを立てた。

 ある日の行商の帰途、赤城山麓の山と山が迫った切り通しの崖で、赤土の断面から長さ3㎝、幅1cmほどの黒光りする石剥片を拾う。これまで集めた石器と比較するが、似たものはない。八幡一郎(考古学者)の本で見た細石器と似ていた。細石器とは幅1cm、長さ2〜5cm、木や骨などの柄にいくつか並べて埋め込んで刃物としたもので、旧石器時代後期から新石器時代初期の代表的な石器である。「日本ではまだ見つかっていないが、今後見つかる可能性はある」と書いてあった。また後藤守一(考古学者)の論文から、縄文時代のごく初期の遺物が関東ローム層の上層から発見されることも知った。関東地方の地表面は黒土で覆われているが、その下には赤土の層があり、これを関東ローム層という。更新世末期に堆積した火山灰の厚い層である。それまで関東地方で発掘を行なう場合、掘るのは黒土層までで、赤土が出てくると地盤が出たとか地山だとか言ってそこで発掘をやめていた。関東ローム層が堆積する時代は火山が活発で、人間はおろか動物も住めなかったと考えられていたのだ。
 昭和22年のキャサリン台風は、赤城山麓一帯に土石流や河川氾濫などの甚大な被害をもたらした。相沢は台風直後、例の切り通しに出かけ、崩れ落ちた赤土のかたまりの割れ目に石剥片を見つけ、崖の赤土の断面にも突き刺さったようなもう一片を見つける。
 それまで相沢の収集した土器片は、撚糸文、沈線文、押捺文など、いずれも縄文早期のものであり、また石器のうち石鏃、石斧、石皿などはほとんどの場合、同じ層から土器が見つかっている。要するに土器の編年で言えば縄文時代の黎明期、石器の区分で言えば新石器時代のものだった。ただ、切り通しの赤土から出たような石剥片は、かれこれ三十片ほど収集していたが、どう観察しても同じ層から土器片が出てこないのだった。いったいこれらの石剥片は何なのか。
 昭和24年の夏、相沢は切り通しの崖の赤土層から黒曜石の槍先形の尖頭石器を見つける(写真)。これまでの剥片とは違い、明らかに人工的な石器だった。これで相沢は確信する。ここでは土器を知らない人々が石器だけの生活を送っていたに違いない。それにしてもそんな遺跡が他にもあるのだろうか。
 相沢が自分のそれまでの知見と採集した石器を見せたのは、明治大学芹沢長介だった。ほどなく調査団が岩宿を訪れ、崖の赤土層から青い卵型の石器を検出する。それまで日本最古の文化は縄文と考えられていたが、岩宿の発見によって、縄文に先立つ石器のみの文化=「旧石器時代」が日本にも存在することが明らかとなり、つぎつぎと旧石器時代の遺跡が発見されるようになったのである。

 ちなみに昭和26年発行の『ぼくのわたしの日本歴史』(西荻書店刊)を見ると、「氷河時代」「旧石器時代」「新石器時代」までは西洋の考古学の知識が書かれ、日本の考古学の話しは「大森貝塚」から始まる。そしてこう記述する。
  「もしこの時代(注=縄文時代)にわたくしたち(日本人)の祖先が海を渡ってきたとすれば、今から4、5千年前のことではないかと思われます」
 岩宿の発見以前の常識は、このようなものだったのである。
 今日では日本最古の土器、つまり縄文時代の始まりを今から1万2〜3000年前とし、それ以前を旧石器時代とする。そして日本の旧石器時代がどこまでさかのぼるかが問題となっているわけだが、いまのところ3、4万年前というところが多数意見のようだ。(了)

  注=本稿は、相沢忠洋著『岩宿の発見』(講談社文庫)から要約し、若干の補足を加えたものである。写真は同書より。