大和を考える

大和神社
 
(1)ヤマトタケルの「ヤマト」  

 ある大学の先生が、学生に漢字の読み方の問題を出したそうです。最初は「天照大神」。ある学生の答案にいわく「てんてるだいじん」。これはペケで、正解は「あまてらすおおみかみ」。2つ目は「日本武尊」。「にほんぶそん」ではなくて、正解は「やまとたけるのみこと」。3つ目は「倭建命」。「わけんめい」ではなく、これも「やまとたけるのみこと」が正解です。

 天照大神はともかく、ここでは「ヤマトタケル」に注目します。ヤマトタケル古事記日本書紀に登場する伝説上の英雄で、先代市川猿之助スーパー歌舞伎でも有名です。そのヤマトタケルに二つの漢字表記があるのはなぜか、を考えたいのです。

 まずタケルは「武」でも「建」でも「タケル」と読めますから、まあいいとして、「日本」と書いて、なんで「ヤマト」と読めるのか、「倭(わ)」と書いて、なんで「ヤマト」と読めるのか、「ヤマト」は「大和」じゃなかったのか、といったことを考えてみたいのです。

 最初に注釈をつければ、「日本武尊」は『日本書紀』の表記、「倭建命」は『古事記』の表記だということです。では古事記日本書紀に、ヤマトタケルの場合と同じように、「ヤマト」を「日本」と書いたり「倭」と書いたりした例は、他にはないのでしょうか。

 

(2)「倭」から「日本」へ

 戦前の教育を受けられた方々で、歴代天皇の名前を暗誦できる方がおられます。神武、綏靖、安寧、懿徳・・・という調子です。これらは漢字2字による漢風諡号(かんぷうしごう)、つまり「中国風の、死後の贈り名」ですが、もうひとつ和風諡号という贈り名があります。たとえば神武天皇の漢風諡号は「神武」で、和風諡号は「かんヤマトいわれびこのみこと」です。この和風諡号は、古事記では「神倭伊波礼琵古命」と表記され「ヤマト」の部分は「倭」(音読みではワ)です。また日本書紀では「神日本磐余彦尊」で、「ヤマト」の部分は「日本」となっています。これはヤマトタケルの「ヤマト」が古事記では「倭」、日本書紀では「日本」と表記されているのと同じです。

 古事記日本書紀でなぜヤマトの漢字表記が違うのでしょう。それは書物としての性格が違うからです。二つとも同じ神代(かみよ)の物語から始まる歴代天皇の物語には違いないのですが、古事記(712年成立)は口伝えも含めた古い記録に基づいた、いわば民間の日本古代史物語であり、それに対して日本書紀(720年成立)は、国家事業として編纂された官製の「正史」なのです。つまり古くからの「倭」という国名を、古事記では残していますが、正史である日本書紀では「もう『倭』は使わず、『日本』が正式ですよ」と主張しているのです。

 このように国名を「日本」と決めたのは、天武天皇(在位673~686、生年不詳)のころだと言われます。この国名変更は唐に通知され、以後、唐の歴史書は「倭」をやめて「日本」と変わっています。

 ヤマトの漢字表記が「倭」から「日本」に変わったわけですが、ではわが国はいつから「倭(ワ)」という漢字で表記されていたのでしょうか。

 

 (3)倭の登場

 「楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)あり(漢書)」

 この一文が、わが国を世界に紹介した初めての文献です。時は紀元前1世紀ごろのこと。漢帝国の楽浪地方(朝鮮半島の付け根あたり)の海の向こうの島に倭人がいる、という意味です。

 次に倭が登場するのは『後漢書』で、紀元後57年の出来事です。倭の奴国(なこく)から使者が来たので、光武帝印綬(いんじゅ=ひも付きの印鑑=金印)を与えたと書いています。ここではわが日本列島の詳しい地形はわからぬままざっくりと「倭」と呼び、その中に「奴国」があると書いているわけです。

 つぎに倭が登場する文献は『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』で、3世紀のわが国を描いています。ここでは朝鮮半島から対馬壱岐を経て邪馬台国に至る道すじが書かれています。

 倭においては、国々が互いに戦う戦乱の時代があり、その末に「共に一女子(卑弥呼=ひみこ)を立てて王となす」ことで倭の内乱が収まったと書いてあります。このように卑弥呼を「共立した」国々から成る連邦国家(女王国)を、近年の専門家たちは「邪馬台国連合」と呼んでいます。その中心にして最大の国は、むろん「卑弥呼が都する所」である邪馬台国です。つまり卑弥呼は「邪馬台国の女王」ですが、同時に「邪馬台国連合の女王」なのです。

 この邪馬台国連合は、あくまで連合であって、邪馬台国周辺諸国を「征服」したとは限りません。例えば伊都国は「世々、王あるも、皆、女王国に統属す(代々、王がいるが、皆、女王国の連合に参加していた)」とあるように、王を戴く伊都国という独立性を保ちつつ大きな邪馬台国連合という傘の中に入っていたのです。反対に、狗奴国(くぬこく)のように「男子を王となす。女王国に属せず」と、まだ連合に対立している国もありました。

 

(4)邪馬台は「ヤマト」

 『魏志倭人伝』では、対馬国(ツシマコク)とか伊都国(イトコク)とか、いちいち「国(コク)」がついていますが、それは魏(ぎ)の役人が倭(わ)の村落のことを「国」と記録しただけで、まだ文字を持たない倭の使者たちが、実際に魏の役人に話したとき、口頭では、つまり言葉では、「ツシマ」「イト」「マツラ(末盧)」というふうに、「国」を付けなかったと思います。だから邪馬台国にも「国」は付けなかった、「ヤマタイコク」の「コク」は言わなかったと思うのです。

 では倭人は「ヤマタイ」と言ったでしょうか。そうではなくて、「ヤマト」と言った、と私は思います。それを聞いて魏の役人は勝手に「邪馬台」という漢字を当てて記録したのだと思うのです。

 「ヤマト」を中核とした連合(邪馬台国連合)はその後、拡大を続けて、あたかもローマという都市が膨張してローマ帝国となったように、周辺諸国を傘下に吞み込んでその勢力がほぼ倭国を覆ったと見えたとき、魏はヤマトの女王卑弥呼を倭の女王と認め、「親魏倭王(魏と親交のある倭の王)」と認定します。本来の「ヤマト(邪馬台)」に加えて、肥大化した「ヤマト連合」つまり倭国全体をもヤマトと言った。だから漢字の「倭(わ)」は「ヤマト」と読むようになり、「倭」が「日本」と漢字表記が変わっても、読み方は両方とも「ヤマト」だったのです。

 つまり「邪馬台国」も「倭」も「日本」も、漢字でそう書くだけで、話し言葉ではつまり読み方としては最初からずっと「ヤマト」であり、最初からずっとわが国の国名は「ヤマト」だったのです。ヤマト魂、ヤマト絵、ヤマト言葉、ヤマト撫子、それらが奈良県ではなく日本を指しているのはそういう理由です。

 

(5)奈良県はなぜ「大和」か?

 奈良時代の八世紀初めごろ、各地の国の名前は「漢字2字とし、好字(良い字)を用いよ」という命令が出ます。例えば、近淡海(ちかつおうみ)を近江、上毛野(かみつけぬ)を上野(こうづけ)、木を紀伊、粟を阿波などと改めます。

 奈良県(ヤマト)は、「倭」と漢字表記していたのですが、これを「和」という「好字」とし、さらに2字にすべく「大」をつけて「大和」とし、これを「やまと」と読むことにしたのです。

 奈良県に「大和神社」という古い神社があります。普通に読めば「やまとじんじゃ」となりそうですが、ここは「おおやまとじんじゃ」で「和」だけでヤマトと読むのです。

  古くは「倭(わ)」をヤマトと読んでいたのですが、「倭」という漢字は、背の小さい人を意味していて「好字」とは言えないので「和(わ)」に変えたわけで、「和」となってもやはり「ヤマト」に違いないのです。「倭」は「ヤマト」つまり「日本」のことでしたから、「和」と漢字を変えても「日本」を意味するのは同じことで、「和風」「和様」「和式」など、今も使われています。

 倭建命(ヤマトタケルノミコト)は九州の熊襲建(クマソタケル)や、山陰の出雲建(イズモタケル)を征伐した英雄ですが、近江で傷を負い、今の亀山あたりまでたどりついた時、目指すふるさとヤマトの地を思いつつ「倭(やまと)は国のまほろば、たたなづく青垣、山籠(やまごも)れる倭し麗し」と詠い、この地に絶命します。これは古事記の語る伝説にすぎませんが、この歌の倭(やまと)が日本ではなく奈良県を指すことは明らかです。さらにこの伝説は、邪馬台国連合が熊襲や出雲を傘下におさめた記憶を、ひとりの英雄に仮託して語ったものでしょう。邪馬台国連合が黎明期の大和朝廷と重なることは明らかで、今も考古学は営々として「親魏倭王」の証拠物件を探し続けているのです。(了)     

 井上皇后呪詛事件


                                   佐保川


 白壁王が即位し(光仁天皇)、井上内親王が皇后、他戸(おさべ)親王が皇太子と定まって、称徳女帝没後の皇位継承問題は一件落着とみえたが、そうすんなりといかないのが人の世の常、そこがまた歴史を読む醍醐味でもある。
 事件が起こったのは新天皇と新皇后が誕生してから一年半ののち、772年(宝亀3)3月のことであった。
  「皇后井上内親王、巫蠱(ふこ)に坐(つみ)せられて廃せらる」(『続日本紀』)。
 「巫蠱」とは、まじないによって人を呪うことで、ここは、天皇を呪い殺そうとした罪で皇后の位を追われたというのである。
 さらに3か月後の5月27日には、他戸皇太子も廃太子となる。そして半年後の773年、山部(やまべ)親王が皇太子となる。のちの桓武天皇である。
 どうしてこんなことになったのか。
 たとえば『奈良市史』(1990年刊)はこういう見方をしている。
  「これは井上皇后と他戸皇太子の謀反(むほん)ではなく、むしろ山部親王を擁立しようとした藤原百川(ももかわ)らの策謀であったようである。」
 こうした見方は多くの史書が採る見解で、いわば通説と言ってもいい。まずはその通説の述べるところに、いま少し耳を傾けよう。
 通説は、771年2月に廟堂の頂点に君臨していた左大臣藤原永手(ながて)が死去したことに注目して、こう言う。
 称徳女帝のあと、白壁王擁立については重臣たちはおおむね一致したが、他戸親王立太子については意見が分かれたのではないか。すなわち左大臣永手は他戸親王を推したが、百川らは山部親王を擁立して反対したのではないか。しかしこのときは永手が左大臣の強権をもって他戸親王立太子を実現させた。ところがその永手が亡くなったことで情勢は一変、百川らは井上皇后による天皇呪詛(じゅそ)事件を捏造して皇后と皇太子を追い落とし、山部皇太子を実現させたのだろう、と。
 これに藤原氏のお家の事情を加味すると、永手は藤原四家のうち北家であるのに対して、百川らは式家であり、永手の死により両家の優位が逆転したと、これまた通説の補強材料となる。ちなみに「百川ら」と「ら」を付けるのは、主役は策士百川だが、その兄良継(よしつぐ。もと宿奈麻呂)との共同作戦だったからである。
 以上を時系列に並べるとこうなる。
  770年(宝亀元)10月1日 光仁天皇即位
   〃 11月6日 井上内親王立后
  771年1月23日 他戸親王立太子
   〃 2月22日 左大臣藤原永手(北家)死去
   〃 3月13日 藤原良継(式家)、内臣(大納言)となる
   〃 11月23日 藤原百川(式家)、参議となる
  772年3月2日 井上内親王、呪詛事件により廃后
  〃  5月27日 他戸親王連座して廃太子
  773年1月14日 百川の建議により山部親王立太子
 こう見てくると、通説はさすがに説得力がある。
 では、私はここでいかなる異を唱えようというのか。
 まずは呪詛事件を語る『続紀』の記事を、もう少し長めに引用して読んでみたい。
 「三月癸未(2日)皇后井上内親王、巫蠱に坐せられて廃せらる。(このあと天皇のお言葉を皆々よく聞けという常套句が入るが、略す)。いま裳咋足嶋(もくいのたるしま)謀反のこと自首し申せり。勘(かんが)へ問うに(調べ尋ねてみると)、申すことは年をわたり月を経(へ)にけり。法を勘ふるに、足嶋も罪あるべし。しかれども年をわたり月を経ても、臣(やつこ)ながら自首し申せらくを勧め賜い、冠位上げ賜い・・・(以下略)」
 つまり井上皇后の呪詛事件は冒頭の一行のみで、そのあとに書かれているのは、事件を密告して自首してきた裳咋足嶋なる男への処分内容である。すなわち、事件は年月を経てしまったものであるけれども、そして本人も共犯の罪があるけれども、自首したことを評価して冠位を上げるというのであり、事実、彼はそれまでの従七位上から外従五位下に上げられた。
 この文章は自首した男を法的にどう裁くかを述べたもので、呪詛事件の経緯を説明したものではない。では『続紀』のどこかに事件の経緯が書かれているかというと、それはどこにもない。これはいかにも不自然で、私は、もともと『続紀』原稿には事件の経緯が記述されていたのに、編集の最終段階で諸般の事情を考慮してばっさり削ったのだろうと思う。しかし自首した男への処分については判例として記録に残さねばならず、そうなると呪詛事件があったという一言を冒頭に付け加えざるを得なかった、その結果がこの文章だと思う。
 とすれば、ばっさり削らねばならなかった理由は何か。藤原氏による捏造がばれては困るから削除したのか。そうかも知れない。
 だが、私は、皇后が天皇を呪詛したその詳細を露骨に書くにしのびなかったからという理由もあり得ると思っている。
 そもそも皇后が行なった「巫蠱」とは具体的にどんな行為か、それを推測させる事件が、3年ほど前に起こっている。称徳女帝の時代(769年5月)に県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが、「巫蠱に坐して配流」されているのだ。そして、その具体的行為を次のように書いている。
  「天皇(称徳女帝)の大御髪(おおみかみ)を盗み給はりて、きたなき佐保川の髑髏(どくろ)に入れて大宮(内裏)の内に持ち参りきて厭魅(まじもの)すること三度・・・」。
 いかにも、おどろおどろしい話しで、いまは美しく桜咲きほこる佐保川も、当時は汚れて髑髏がころがっていたわけで、何やら「桜の木の下には死体が埋まっている」(梶井基次郎)という言葉さえ連想されてくる。
 この時の犯人は県犬養氏の一族の女性だったが、3年後のこの度はこともあろうに天皇の妻、しかも正妻たる皇后陛下である。そういうお方がこんな禍々しい、不気味な行為をしたと、正史に書くのはいかがなものか、とはばかられた・・・ので削除されたのかも知れない。
 加えて県犬養姉女らの呪詛事件は、2年余りのちの771年8月8日条に誣告(嘘の訴え)だったとある。しかるに井上皇后による呪詛事件については、のちの記事のどこにも誣告だったとは書かれていない。
 話を『続紀』の記事にもどすと、さらに注意を喚起したいのは、「申すことは、年をわたり月を経にけり」という言葉で、「密告した事件はすでに過去の事件だ」という点である。「年月」という以上、この記事の年月日より少なくとも1年以上前に、呪詛の行為はあったということになる。
 もうひとつ看過できないのは、『続紀』の他戸親王廃太子のくだりで、「謀反大逆の人の子」を皇太子の地位にとどめておくことはできないと廃太子の理由を述べているのだが、そこに、「その母井上内親王の魘魅(えんみ)大逆の事、一二遍(ひとたびふたたび)のみにあらず、たびまねく発覚」したとある。呪詛の謀反行為は一度や二度でなくたびたびあった、というのである。
 また、自首した男のほかに粟田広上(あわたのひろかみ)、安都堅石女(あとのかたしひめ)のふたりが流罪となっている。
 こう見てくると、まるで根も葉もない事件を、百川らがでっちあげたとも言えないように思えて・・・きませんか。
 
 私が一番首をかしげるのは、井上皇后の廃后が決まったのが仮りに3月2日として、他戸皇太子の廃太子の5月27日まで、短く見積もっても3か月近いという点である。他戸皇太子は生年不詳ながら、このとき推定11歳とみられ、なんの抵抗もできない少年であり、したがって、直ちに廃太子は可能だったはずである。ましてや最初から廃太子が目的で呪詛事件を捏造したのなら、電光石火、即、断行すべきところでしょう。
 さらに、他戸親王廃太子が772年5月27日で、山部親王立太子が翌年1月14日と、7か月余もかかっていることも、同様にスピード感がなくて腑に落ちない。
 私は、井上皇后天皇呪詛事件は、山部立太子が目的ではなかったと思う。
 呪詛が事実か捏造かはわからないが、何らかの理由で井上内親王を廃后とせざるを得なくなったのだろうと思う。それにともなって幼い他戸親王廃太子とせざるを得なくなり、そうなってから後継者を模索した結果、藤原百川の推す山部親王に決したというのが真相ではないかと思う。そういう、もたもたとした時間の流れ方であって、最初から山部擁立を目的に呪詛事件を仕組んだにしては、スピード感に欠けると思う。
 では、なぜ井上内親王は皇后を追われたか。それを考えるためには、まず井上内親王の出自、氏素性を述べねばならない。
 井上内親王聖武天皇の子で、母は県犬養広刀自である。県犬養氏と言えば、あの県犬養橘三千代の出現によって史上に名を残す氏族である。三千代は藤原不比等との間にできた娘を聖武天皇に嫁がせて光明皇后が実現するが、自分の同族である県犬養唐の娘であった広刀自をも聖武天皇に嫁がせた。光明子には阿倍内親王が生まれ、つぎに基王(もといおう)が生まれる。基王はすぐに皇太子となるが、夭折してしまい、やむなく阿倍内親王が初の女性皇太子となり孝謙女帝(称徳女帝)が実現する。
 一方、広刀自と聖武天皇の間には、安積親王井上内親王不破内親王の一男二女が生まれた。安積親王基王亡きあと皇太子の可能性も芽ばえたが、17歳という若さで疑惑の死を遂げる。また、その妹、井上内親王天智天皇の孫である白壁王に嫁ぐ。
 こういう人間関係の中で、井上内親王は称徳女帝をどう見ていたか。夫の白壁王をどう見ていたか。ここから先は推測にすぎないが、称徳女帝に対しては、同じ聖武天皇の娘でありながら、しかも自分の方が1歳年上なのに、妹は天皇となって権力をほしいままにしている。嫉妬もすれば、腹も立ったに違いない。
 その称徳女帝が崩御して、夫の白壁王が即位した。だが、夫はたかが傍系の天智天皇の孫にすぎず、自分は女ながら天武直系の聖武天皇の子である。血筋は自分の方が上という優越意識は結婚当初からあったし、年老いて53歳になった今は、ますます強まっていただろう。その夫が天皇となって、彼女は素直に喜び、皇后となったことに謙虚な感謝の念を抱いただろうか。夫の出世に対する嫉妬と対抗心の焔が身を焦がしたに違いない。
 しかし自分が天皇になることは不可能である。夫のいる女性は天皇にはなれないからである。ただ夫の天皇は62歳という高齢で、失礼ながらいつ亡くなってもおかしくない。万一、そうなると、他戸皇太子の成人するまでの繋ぎ役として、皇后が天皇となることは、むしろきわめて自然である。
 私は井上皇后という女性が、生来、嫉妬深く高慢な女性だったとは思わない。そうではなくて、このような血筋と環境の中では、ごく普通の人でも、そうならざるを得ないでしょう、と申し上げているのです。
 井上皇后が呪詛の行為を実行したかどうかはわからないが、夫たる天皇の死を願う邪悪な心理が芽生えていたかもしれない。そこまでいかなくても、老いた天皇を軽んじる言動が、一年以上前から「たびまねく」あり、宮中の側近や重臣たちは眉をひそめることしばしばだったのではないか。
 そしてついに、井上内親王を拘束もしくは軟禁して皇后の地位を剥奪した。そうなると罪人の子を皇太子、行く先、天皇にというわけにはいかない。有力者たちに根回ししつつ時間をかけてから、他戸親王廃太子に踏み切った。天皇のご高齢を考慮すればすみやかに皇太子を決めねばならない。藤原百川が兄良継と連携しつつ山部親王擁立に動いたのは、ここからだろうと思う。
 山部親王の母は高野新笠(たかののにいがさ)という渡来系氏族で、身分が低く、普通に考えれば親王にはチャンスはない。そこを藤原百川の辣腕で、思いもかけない立太子が実現した。山部親王桓武天皇)が終生、百川の恩義を公言していたのも当然である。
 ここまで書いてきて、こういう見方は、かの本居宣長がすでに、「井上皇后は称徳女帝のように天皇になろうとしたのだろう」と書いていることを知った。つまり、私の話しなど、古代史の専門家なら、「知ってるよ」の一言で片付ける程度の話しである。ただ私は、私の感動を綴るのみである。
 
 一連の事件は、次の一行によって幕を下ろす。
 「(776年4月27日)井上内親王、他戸王ならびに卒(しゅつ)しぬ」
 母と子が同時に死んだとはどういうことか。自殺か他殺か、いずれにせよ異常死に違いない。私は、大和国宇智郡五條市)に軟禁された井上内親王が、ことあるごとに、みずからの無罪と、山部皇太子の無効と、光仁天皇藤原良継・百川への誹謗を声高にくりかえしてやまなかったため、手に余った百川らによって死に追いやられたのだろうと想像する。
 いかに百川が辣腕の策士であったとしても、最初から、山部親王擁立を目的に、呪詛事件を捏造して皇后と皇太子の殺害を計画するほど残酷な人物だったとは思わない。そんな人物だったとしたら、光仁天皇や山部皇太子の信頼を得られただろうか。第一、光仁天皇は、なぜ悲劇を止めなかったのだろうか。
 事件の経過を通じて、光仁天皇のこころのうちを忖度し得る片言隻句も、史書は残していない。ただ天皇は、正妻とひとりの子どもを失ったその翌年(776年)、勅願によって、お寺を建てさせた。
 秋篠寺である。
 その動機として天皇の心中にあったのは、後悔の念か、怨霊への恐怖か、それとも憐れな母と子への静かな鎮魂の思いか。
 優美な伎芸天のふところに抱かれる一瞬のまどろみを夢み、鮮やかな苔の緑にこころを洗われながら、私は、人間はそれほど悪くもなく、それほど立派でもなく、ただ運命に翻弄される哀しい存在なのだと、感傷に耽る。 (了)

                                     秋篠寺                             

 光仁帝と志貴皇子

 

 称徳女帝は独身だったから子どもはいない。それはやむをえないことだが、後継者たる皇太子を決めないまま、亡くなってしまった。無責任のそしりはまぬがれないが、廟堂の重臣たちにも責任があっただろうに、と思える。どういう事情だったのだろう。
 

                                       称徳天皇

 道鏡神託事件のあと、女帝は、「後継天皇を決めるのはこの私であって、ほかの誰でもない」と、あらためて念押しする談話を発表した。そう言われると重臣たちも沈黙するしかなく、後継者についてへたに口出しすると謀反を疑われてしまいかねない空気になってしまった。
 事実、ふりかえってみれば、孝謙(のち称徳)女帝即位以後、後継者が明確でないために「人、かれこれを疑いて罪され廃せらるもの多し」。つまり皇位後継者にからむ事件があいつぎ、謀反の罪に問われたり地位を追われたりしたものが多かった、というのである。具体的には、道祖王廃太子事件、奈良麻呂の変、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱と塩焼王の死、淳仁天皇廃位事件、和気王の変、県犬養姉女らの呪詛事件などである。
 特に奈良時代最大の戦争だった押勝の乱を鎮圧した称徳女帝の権力は圧倒的で、もの言えば唇さむしの空気が廟堂を支配していたのである。
 770年、女帝は道鏡の本貫地である河内の由義宮(ゆげのみや)に滞在中、病いを得て平城京にかえり、そのまま引きこもってしまう。
  「これより百余日を積むまで、事をみずからしたまふことあらず。群臣かつて謁見することを  得る者なし」(『続紀』)。
 百日以上、誰も女帝に拝謁できなかったというのである。かろうじて吉備由利(きびのゆり)なる女官ひとり、病床に出入りして重要事項を奏上したという。そんな異常な状態のままで女帝は崩御されたのである。これでは確かに、後継天皇の相談どころではなかっただろう。
 さて、女帝の死を受けて、重臣たちは早速、会議を開いた。集まったのは、左大臣藤原永手(ながて)、右大臣吉備真備(きびのまきび)以下、藤原宿奈麻呂(すくなまろ)、藤原縄麻呂、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らである。そして、「策を禁中に定めて、諱(いみな)を立てて(白壁王のこと)皇太子とす」と、あっさり白壁王の擁立が決まったような書きぶりである。本当にそうだったのか。
 後世から見れば、天武天皇のあと、文武天皇聖武天皇とつないできた天武系(草壁系)が、聖武天皇の娘を強引に天皇とした(孝謙・称徳女帝)ものの、そこまでで天武系の血筋は断絶し、ついに白壁王という天智系に変わった、重大な転換点であった。そういう重大事態が、かくもあっさりと決まったのだろうか、と怪訝にも思える。
 こういう話には、「いや実際には、もめたんです」という異説がつきもので、それは、左大臣永手や宿奈麻呂ら藤原氏側が白壁王を推したのに対して、右大臣吉備真備文室浄三(ふんやのきよみ)またはその弟である大市(おおち)を推して対立したのだ、というのである。文室浄三・大市兄弟とは、天武天皇の子、長皇子(ながのみこ)の子で、天武天皇の孫である。天武系にこだわれば、たしかに候補者の資格はある。そういう対立があったのを、藤原百川(ももかわ)の暗躍で、白壁王に決定したのだ、というのが異説である。藤原氏VS吉備真備という、いかにも歴史ファン好みの説だが、この説は、藤原百川の伝記にしか出てこない話しで、今日では否定されている。
 私も、このときは意外にあっさりと白壁王に決まったと思う。なぜなら、藤原氏が白壁王に固執する理由もないし、吉備真備が文室氏兄弟に固執する理由もないからである。お互いに利害関係があって、推薦する候補に固執すればこそ争いにもなろうが、この場合、それがない。
 また、オール藤原氏を向こうにまわして、吉備真備ひとりが異を唱えたと想像するには、真備は歳をとりすぎていて、このとき75歳。翌年には右大臣を辞任しているくらいだから、もう生臭い俗世のもめごとはうんざりという心境だったのではないか。さらに言えば、晩年、女帝の病床に出入りを許されたただ独りの女官、吉備由利は真備の妹であって、もし真備がどうしても文室氏兄弟を即位させたければ、この妹と兄たる右大臣とで、偽勅をつくるなど、細工のしようはいくらでもあったはずではないか。だが真備も妹も、そんな人物ではなかった。だからこそ女帝の信頼を得ていたのである。ここから見ても、真備が異を唱えたとは思えない。
 では逆に、白壁王がなぜすんなりと群臣の推薦を得られたのだろうか。その理由は王の血筋や系図を知れば納得できる。白壁王は、天智天皇の子である志貴皇子(しきのみこ)の子、つまり天智天皇の孫で、時に62歳、「諸王中の最年長」というから押さえが効いたのだろう。しかも白壁王が即位すれば、その奥さんである井上内親王が皇后になる。この人は天武直系の聖武天皇の娘であり、その子、他戸(おさべ)親王が皇太子となれば、やがて天武・天智両系統の血を引く天皇が誕生するわけで、天武系にこだわる向きへの説得材料になり、事は、まあるく収まる。
 ご本人の人柄をうかがわせる話もある。後継天皇をめぐるさまざまな事件を身近に見てきた白壁王は、「深く横禍(こうか=思いがけない災難)の時をかえりみて、あるいは酒をほしいままにして跡をかくす」。酔っ払ってわざと凡人をよそおっていた、というのである。そこまで深慮遠謀の人だったのか、本当に凡庸な酒飲みだったのかはわからないが、少なくとも表面上は、無難で、親しみやすい性格と思われていたのだろう。
 以上が白壁王即位(光仁天皇誕生)のいきさつだが、私は白壁王が選ばれたいくつかの理由に、もうひとつの理由を付け加えたいと思う。
 それは白壁王の父、志貴皇子のことである。
 志貴皇子は『万葉集』に6首の歌をのこしている。
   石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌えいずる春になりにけるかも
 「岩の間をほとばしる滝の流れ」と一気に歌ったあと、そこに「さわらびの萌えいずる」とあざやかな若みどり色を置き、そのフォーカスをゆるめて視線をゆっくりと引くように「春になった」という一言を、「はるになりにけるかも」と、10文字も使って緩慢に述べることで余情をかもしだす。天性としか思えないみずみずしい感性はうらやましいかぎりである。聡明で言語能力に長けた方であったにちがいない。
 この皇子を天武天皇は、大津皇子と同じように愛されたのではないか。
 かつて(679年)天武天皇は、みずからの後継者と目される六人の皇子たちを吉野に集めたことがあった(吉野の盟約)。うち四人は自分の息子たちだが、二人は兄の天智天皇の遺児であり、そのひとりがこの志貴皇子である。天武天皇はこの聡明な甥の行く末に期待していたのだろう。
 文室氏兄弟は確かに天武天皇の子、長皇子の子であり、血筋ではまぎれもない天武直系である。しかし長皇子は天武天皇が後継者候補として選んだ六人には入っていない。当時、まだおさなすぎたのか、凡庸だったのか、いずれかであったのだろう。対する白壁王の父、志貴皇子は入っていた。とすればその子、白壁王の即位に、天にまします天武天皇も反対はされまい、という思いが、選考委員たるあの重臣たちにもあったのではないだろうか。


               奈良豆比古神社

 奈良の東大寺の西を、北に京都に向かう道がある。奈良坂越えである。坂の高みまで登って振り向くと、大仏殿の豪壮な屋根を見下ろす圧倒的な景観に息を呑む。その一筋西の古い道を行くとやがて般若寺門前、さらにしばらく進むと、左手に奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)がある。さしたる建造物もない野末の社だが、ここは志貴皇子が病気療養のために隠棲された離宮、いわば別荘のあった地と伝える。ここで皇子は四八歳前後の生涯を終えられた。
 神社の裏手への道をたどると眼前に、巨大な楠が現れる。外から眺めて、こんな巨木があろうとは思えない場所だが、静寂のなかに鬱然と立ち尽くす巨木の姿は、万葉の六首の歌のほか何ら事績を残さなかった志貴皇子の孤高を見るようで、こころ打たれる。  (了)

               樹齢一千年の楠





                                         

 女帝と道鏡


和気清麻呂朝倉文夫作)


 
 私の母は少年の私に、奈良時代について二つのことを教えてくれた。
 一つは、「奈良、七代、七十四年」。この場合「七」は「ナナ」と読んで語呂合せする。奈良時代天皇が七代で、七十四年間つづいたという暗記法である。
 もう一つは、「七代」の天皇の暗記法で、それはお経のように「ゲンゲンショウコウ、ジュンショウコウ、カーン」というのである。つまり「元明、元正、聖武孝謙淳仁、称徳、光仁桓武」で、最後にカーンと鉦の音で終わるというオチまである。もっとも最後の桓武天皇も入れると「奈良、七代」でなく、実際には八代である。
 以上が、わが母の教え給いし奈良時代暗記法である。

 閑話休題
 「奈良、七代」のうち、四代が女帝である。
 そもそも女帝は、推古天皇以来、現在までに10代、そのうち重祚(ちょうそ)、つまり2度即位した方が2人あるから、人数としては8人。列記すれば、推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)、明正、後桜町の各天皇である。
 さらに、天武天皇没後(686年)の持統天皇称制から称徳(孝謙天皇の亡くなった770年までの84年間に4人の女帝(持統、元明、元正、孝謙[称徳])が5代にわたって君臨、一方、男帝は3代(文武、聖武淳仁)で、在位年数の合計は男女ほぼ半々、この時代が、長い天皇制の中で異様な「女帝の時代」だったことがわかる。ちなみに、その後850年あまり、女帝は無く、明正・後桜町両天皇は江戸時代である。
 ここで持統天皇から称徳天皇までと限ったわけは、この「女帝の時代」現出の発端が、持統天皇がわが子草壁皇子の即位にこだわって他の皇子たちを排除したことから始まり、その「草壁系」の終焉が称徳天皇だからである。

 女帝はもともと男帝へのつなぎ役だった。ただひとりつなぎ役でない例外は孝謙(称徳)天皇で、彼女は初の女性皇太子を経ての即位である。ところが女帝には夫がいてはならない。と言うことは、彼女はわが子でない誰かを後継天皇に指名しなければならなかった。
 こういう背景があって、「道鏡神託事件」という不可解な事件が起こる。
 道鏡河内国、いまの大阪府八尾市あたりの出身で、本姓は弓削氏。ゆえに弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも言う。昭和戦前期の天皇絶対主義の教育では、道鏡皇位を窺った極悪人であり、一方、それを阻止した和気清麻呂天皇家の血筋を守った忠臣として英雄視され、紙幣にも描かれたほどである。
 私も、そこまでは子どものころから知っていたが、長じて史書を読むと、驚いたことに事件のイメージがまるで違う。つまり、道鏡は罰せられ、清麻呂は称賛されたのだろうと思っていたのに、実際には道鏡の地位は安泰で、清麻呂の方が罰せられているのだ。
 『続日本紀』によって事件を略述しよう。

 ある時、大宰府の役人が道鏡に媚びて、「宇佐八幡神のお告げがあり、『道鏡天皇にすれば天下泰平となるだろう』とのことです」と言ってきた。これを聞いて道鏡は「深く喜びて自負す(大喜びしてその気になった)」。
 ついで、称徳女帝は和気清麻呂を召してこう言われた。「昨夜の夢に八幡神の使いが現れて『八幡神が告げたいことがあるので、法均をよこしなさい』と言われた。なんじ清麻呂法均に代わって宇佐におもむき八幡神のお言葉を聞いて来なさい」。法均とは清麻呂の姉で、称徳女帝のそば近くに仕える女官である。女帝はこの姉弟を日ごろ深く信頼しておられた。
 清麻呂宇佐八幡宮に詣でると、八幡神のお告げはこうだった。
 「わが国開闢以来、君臣定まりぬ。臣をもって君と為すは未だあらず。天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人はすみやかに除くべし」。
 つまり「天皇になるのは天皇家の血筋を引いたものでないとダメ。道にそむく人(道鏡)は排除せよ」というのである。
 清麻呂が帰ってこれを復命すると、道鏡はかんかんに怒って、清麻呂因幡員外介(いなばのいんがいのすけ)として因幡国鳥取県)に左遷した。
 さらに「いまだ任所にゆかぬに、つぎて詔(みことのり)ありて、除名して大隅に配(なが)す。その姉法均は還俗(げんぞく)せしめて備後に配す。」清麻呂がまだ因幡へ着任していないのに、今度は称徳女帝からの命令で、大隅に配流、姉も備後に配流となったのである。

 いかがでしょうか。なんかスッキリしないというか、よくわからない話だと思いませんか?
 道鏡は、八幡神のお告げの話しを聞いて大喜びしたのに、清麻呂に全否定されて怒り心頭、これは納得できる。
 わからないのは称徳女帝の心理である。清麻呂は出張の使命を果たしたのに、怒って追放してしまう、片や、皇位を望んだ道鏡にお咎めなしとはどういうことか。
 そもそも道鏡は看病禅師(かんびょうぜんじ)といって病気を治療する僧侶だったが、ある時、称徳女帝の病気を治したことから、女帝の絶大な信頼を得る。男女のあいだで、しかも病気の治療をしたとなると、とかくの噂になるのは当然で、古来、日本史に材を得た猥談の代表になってしまったほどだが、私は、それは下司の勘繰りというものだろうと思う。第一におふたりの年齢だが、道鏡61歳、女帝43歳で、当時としてはすでに老境である。また、道鏡は怪僧みたいに言われるが、実はサンスクリット語と禅を学んだハイレベルの知識人で、深く仏教を信仰した称徳女帝は、道鏡を心から尊敬していたのだろうと思う。
 で、尊敬のあまり、道鏡天皇になってもらって、仏教国家を発展させたいと、称徳女帝は考えたのではないか。現に道鏡には藤原仲麻呂の失脚のあと、太政大臣禅師から法王という前代未聞の処遇を与えていて、もうその上は天皇しかない。そこで道鏡とともに宇佐八幡神の託宣の話しを作りあげたのだが、和気清麻呂という空気の読めない朴念仁が、話しをぶち壊してしまったので、道鏡は怒る、女帝はもっと怒るという結末になったのではないか、という説もあり、私も一時期そう考えていました。
 だが、そうだとすると、なんでまた和気清麻呂なんて融通のきかない男を出張させたのかということになる。女帝の希望通りの託宣を持って帰る使者を立てればいいではないか。
 そもそも女帝が道鏡天皇にしたかったのなら、「最初の八幡神の託宣」の話を疑う必要はないではないか。
 ゆえに、女帝は道鏡天皇にする気はなかったことになる。片や道鏡はその気になっている。そうすると和気清麻呂を出張させたのは、「最初の八幡神の託宣」を否定する託宣を持ち帰らせるためだった。
 女帝のおもわくどおり、清麻呂は、「天皇家の血筋でないものを天皇にしてはいけない」という託宣をもらって帰ってきた。ではなぜ、清麻呂は女帝によって追放されたのか。
 その謎解きを、あるとき瀧浪貞子先生(京都女子大)が講演で、次のように話された。
 清麻呂の聞いた八幡神の託宣を、よく読んでください、と。
 「わが国開闢以来、君臣定まりぬ。臣をもって君と為すは未だあらず。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人はすみやかに除くべし」。
 前半は女帝のおもわくどおりだったのです。ところが最後の一言が余計だった。
 「無道の人はすみやかに除くべし」。つまり「道鏡を排除せよ」の一言である。
 女帝は道鏡天皇にする気はなかったが、かと言って、道鏡を退けるつもりもなかったのです、と。
 私も、いまはこの説がいいと思っている。
 
 さて、それでもまだ不可解な気分が残るのは、そもそもこの話しが、大宰府からの八幡神託宣の報告から始まり、女帝の夢のお告げがあり、清麻呂八幡神の託宣を聞いて決着するという、およそ非科学的な、現代人には信じられない事象の上に成り立つ物語だからである。だが、古代の人々にとってはそれらは真実だった。
 八幡神の託宣の場面を、史書は次のように描写する。
 「(清麻呂が祈ると)神、すなわち忽然として形を現す。その長さ三丈(9m)ばかり、色は満月のごとし。清麻呂、魂を消し度を失い、仰ぎ見るあたわず。ここにおいて、神、託宣す」(「清麻呂薧伝」)。
 出現した神は、人間のような姿かたちだったのだろうか。そうは書いていない。巨大な発光体だったかのようにも読める。実にリアリティーのある描写で、信じてもいいのではないか、あるいは少なくとも清麻呂が見たというのは事実だろうと思えてくる。

 私たちは到達不能なことは承知のうえで、それでも少しでも古代人のこころに近づこうと努力しなければならない。その時代の通念や価値観を理解したうえで、論評しなければならない。
 例えば称徳女帝は、東大寺に対抗するかのように西大寺を造営し、付設する尼寺として西隆寺をつくった。世界最古の印刷物と言われる陀羅尼を納めた小塔100万個をつくった。莫大な財政支出である。現代人には、悪辣な新興宗教に全財産をつぎ込んだ愚かな主婦のように見える。
 だが、奈良時代とはそういう時代だったのだ。彼女にとってはそれが政治だったのである。
ちなみに、その後、称徳女帝が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡はたちまち下野(しもつけ)に左遷され、清麻呂と姉は復権を果たして帰京、清麻呂は有能な官僚として大活躍している。これは素直に納得できる結末である。     (了)

 光明子と藤三娘

 「光明池(こうみょういけ)」という名前は、地元以外の多くの関西人には、駅名として知られはじめたと思う。人口十数万の泉北ニュータウンを走る鉄道の駅名で、駅が開業したのが1977年というから最近のことである。もちろん付近に「光明池」という池がある。
 光明池は昭和戦前期につくられた人工池で、池の水を槇尾川(まきおがわ)から引いているが、その取水堰が和泉市国分町にあり、ここはかつて国分寺の所在地で、その地で光明皇后が誕生したという伝説がある。というつながりで、人工池に名前をつけるにあたって、「光明」の名を拝借したという。

 国分町光明皇后とは、伝説でつながるだけかと言えば、歴史上、つながらないこともない。それは全国の国分寺は、聖武天皇の詔(みことのり)(741年または738年)で設置されたのだけれども、
東大寺と天下の国分寺とを創建するは、もと太后光明皇后)の勧めしところなり」(『続日本紀』)
とあり、聖武天皇国分寺の建立を勧めたのは光明皇后なのである。
ここで「東大寺と天下の国分寺」とあるのは、東大寺が天下の国分寺の総元締めと位置づけられていたからで、つまり大和国国分寺と日本の総国分寺を兼ねた寺が東大寺だった。「東大寺」とは、「平城京の東の大寺(おおてら)」という一般名詞に近い名称である。
国分寺」とは「国ごとの寺」という意味で、これを仏教的に説明すると、国ごとに「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」を根本経典とする寺を設置させたという言い方になり、だからそれらの寺を「金光明寺」という。以上をまとめて言うと「全国に諸国分金光明寺を置いた」となり、たとえば讃岐国国分寺を丁寧に言うと「讃岐国国分金光明寺」となり、東大寺は「大倭国国分金光明寺」となる。
こうした施策の源には、仏教による鎮護国家という思想があり、それが奈良仏教の特徴であった。平安期も後半になると、自分自身の極楽往生のための仏教、いわばパーソナルな仏教になってゆくが、それと対比すれば、奈良仏教が国家仏教と言われる意味がよくわかる。で、「金光明最勝王経」には四天王が東西南北を守ってくれることが書かれてあり、ゆえに「金光明寺」をもっと丁寧に言うと「金光明四天王護国之寺」ということになる。
国分寺には尼寺を併設させた。対比した言い方をすれば、国分僧寺国分尼寺となる。尼寺の方は「法華経」を根本経典とし、寺名は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」、その総元締めは奈良の法華寺である。法華寺はもともと光明皇后の住まいだったところだから、この事業が彼女の発案であることを納得させてくれる。
こうした構想は彼女の独創ではなく、唐の模倣である。すなわちそれより50年ほど前の690年に、則天武后(そくてんぶこう)が唐の各州に「大雲経」を頒って「大雲光明寺」を置かせたのをまねたのである。またこの時代、唐では巨大な磨崖仏(まがいぶつ)がつくられており、その影響もあって奈良の大仏がつくられた。
ここまでを振り返ると、「金光明最勝王経」の「光明」や唐の「大雲光明寺」の「光明」を踏まえて、藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)は、みずから「光明子(こうみょうし)」と名のるようになったようで、だから「光明皇后」なのである。そして、それは740年ごろ、彼女が40歳ごろのことと思われる。
私はここに、もうひとつの「光明」を付け加えてもいいのではないかと思う。
ちょうどその740年2月に、天皇・皇后は河内の知識寺を訪れて毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を拝し、衝撃に近い強い感銘を受けた。その理由は、寺院も仏像も大きく立派だったことは当然だが、いまひとつ、それらすべてが寺名のとおり「知識」によって造られたことである。「知識」とは身分の上下を問わず、仏につながろうとする人々が、あるいは浄財を持ち寄り、あるいは労力を差し出す、その行為のことであり、同時にそのような人々のことでもある。もちろんこれが3年後の大仏造立の詔につながるのだが、大仏造立の手法を「知識」に求めたのも、この知識寺に発想を得てのことであった。
で、夫妻が強い感銘を受けたその毘盧遮那仏だが、この仏名はサンスクリット語の漢訳で、その原義は「光明遍照」である。「光明、あまねく照らす」、つまり宇宙万物すべてに光明をふりそそぐという最高位の仏さまで、密教では「大日如来(だいにちにょらい)」と訳していると言えば、なるほどと思っていただけよう。私が言いたいのは、「藤原光明子」の「光明」には、この「光明遍照」の「光明」の意も入っているのではないかということである。
だが、それは、光明子自身が「私はすべての人々に光明をふりそそぐ仏さまのような存在だ」と自認したという意味ではない。そうではなくて、「仏さまの光明によって照らされ導かれている私」という受動的な、謙虚な動機だろうと思う。

光明皇后の人物像を考えるとき、一番、むつかしいのが、ここのところである。
品のない表現をすれば、彼女は仏教かぶれであり、唐文明かぶれであり、そしてどうやら則天武后かぶれのようでもある。もっとも、彼女の名誉のために弁護しておくが、唐文明と仏教はこの時代の最新文明であり、ひとり彼女だけがかぶれたわけではなく、当時の知識人たちすべてを襲った怒涛のごとき新思潮であって、例えて言えば文明開化期の西洋かぶれ、アジア・太平洋戦争後のアメリカかぶれのようなものだ。
ここで問題なのは則天武后かぶれである。つまり光明皇后則天武后になろうとしたのではないかという設問である。則天武后は唐の高宗の皇后だったが、夫の死後、傀儡の皇帝を立て、やがてこれを廃してみずから帝位についた中国史上唯一の女帝である。はたして光明皇后には、天皇となって天下に指図する権力志向があったかどうか、そういう人柄であったかどうか、そこの判断がむつかしいと言っているのである。
まず、光明皇后の時代、則天武后をまねた例を挙げてみよう。
①諸国に国分寺を置き、大仏をつくった(741年)。
②日本の元号は「大宝」「和銅」のように2字だったのに、則天武后にならって「天平勝宝」「天平宝字」など4字とした(749年)。また「年」を「歳」とし、例えば「天平勝宝7年」を「天平勝宝7歳」とした(755年)
皇后宮職(こうごうぐうしき)を「紫微中台(しびちゅうだい)」と改めた。これは唐で「中書省」を「紫微省」と言い、また則天武后の時代に「尚書省」を「中台」と改めたのを借用したものである(749年)。そのほか官名を唐風に改めた。
 まず①だが、先述のとおり、国分寺光明皇后の発案ではあるが、あくまで聖武天皇に進言したにすぎないし、大仏造立は聖武天皇の発案・実行と見るべきであろう。ゆえにこれをもって光明皇后則天武后のごとき権力者だったとは言えない。
それどころか、聖武天皇の時代(724〜749)には、天皇以上の実力者が隠然として君臨していた。それは元正太上天皇である。太上天皇上皇)とは譲位した先の天皇のことだが、天皇を引退したというより、上皇という位についたと言う方がよく、天皇と同じ命令権を持っていた。しかも元正上皇聖武天皇の叔母であるが、実態は養母と言っても過言ではない。元正女帝の譲位を受けて天皇にしてもらった24歳の聖武天皇が、44歳の養母に頭があがらないのは当然であり、その関係は上皇の死(748年)まで約24年間つづいたと思う。この間、光明皇后の格は上皇天皇に次ぐ第3位にすぎず、娘の阿倍皇太子が4位となる。そしてあたかも元正上皇の死を待っていたかのように、翌749年、聖武天皇は譲位して、皇太子(31歳)が即位(孝謙天皇)する。繰り返すと、この年、上皇が亡くなり、天皇も退いたのである。
そこで元号を改め、上述②のとおり、天平感宝天平勝宝と4字年号が使われたのである。
また、上述③の役所名の変更もこの年で、すなわち、光明立后のときに置かれた皇后宮職(こうごうぐうしき)を、光明皇后が皇太后になったこの時に、紫微中台と変更し、その長官である紫微令藤原仲麻呂が就く。仲麻呂はこの時、参議から中納言をとばしていきなり大納言に昇進した。光明皇太后孝謙天皇の支持あってのことである。その後、仲麻呂左大臣橘諸兄と権力闘争をくりひろげて彼を退け、その子橘奈良麻呂の反乱を未然に鎮圧、また孝謙天皇譲位、淳仁天皇擁立に成功し(758年)、権勢をほしいままにした。そして官名を唐風に改め、右大臣を太保と改めてみずからその地位に就き、760年には太師(太政大臣の唐風名)にのぼりつめる。
ここまででおわかりのように、この藤原仲麻呂こそ唐かぶれの最たるもので、光明子をはるかに上回る。つまり②③の唐かぶれ、則天武后かぶれは仲麻呂の政策であって、それを光明皇太后は許容していたのだろうと思う。もっと言えば、仲麻呂はあたかも光明皇太后則天武后に擬するかのごとく、おもねり、おだてたのであろう。
逆に、もし光明子天皇たらんとする野心があったとするならば、748年に元正上皇が亡くなり、聖武天皇が仏門に入って権力の座を降りたときに、光明皇后の称制もしくは即位があり得たのではないか。あるいは756年、聖武太上天皇が亡くなったあとの皇太子の交代や淳仁天皇即位のときも同様の機会はあり得たのではないか。だが、いずれの時にも光明子にはそんな野心は伺えない。私は、彼女には則天武后たらんとする志向はなかったと思う。
光明子が政治に口をはさんだのは、全国国分寺の造立と、悲田院・施薬院の設置で、それは仏教による鎮護国家社会福祉を真剣に希求したゆえにすぎないと思う。
続日本紀』はこう書いている。
太后光明子)、仁慈にして、志、物を救ふにあり」(人柄は慈愛深く、人を救うことを志しておられた)。
「悲田・施薬の両院を設けて、天下の飢え病めるともがらを療(い)やし養う」(悲田院は生活困窮者の救護施設であり、施薬院は病院である)。
40歳のころ「光明子」を名のった意図が、傲慢に拠るのではなく謙虚な思いに拠るものだろうと、私は先に書いた。
光明子と名のった彼女は、43歳のときに、自分の発願した一切経の写経の奥書に「仏弟子、藤三女(とうさんじょ)」と自称している。また44歳のときに書写した『楽毅論』の奥書には「藤三娘(とうさんじょう)」としている。「藤原の三番目の娘」という意味である。藤原不比等の長女は文武天皇夫人で聖武天皇の実母宮子であり、次女は長屋王室の長娥子(ながこ)、そして光明子は三女である。「藤三娘」という言い方は唐風なおしゃれな名のりで、例えば漢詩人の淡海三船(おうみのみふね)は、藤原刷雄のことを「藤六郎」と呼んでいて、それは彼が藤原仲麻呂の第六子だからである。

藤三娘」と署名したとき、彼女は皇后となって15年、押しも押されもせぬ皇室の一員である。その彼女が、天皇家や皇后の地位を振りかざすのではなく、「私は藤原の3番目の娘です」と名のっていることに、私は感動する。彼女は傲慢ではなく謙虚な人柄だったと思う。
752年、遣唐使の大使に任じられた藤原清河に光明皇太后は次の歌を贈った。
「大船に、真楫(まかじ)繁貫(しじぬ)き、この吾子(あこ)を、から国へ遣(や)る、斎(いわ)へ神たち(万葉4240)」
 「真楫繁貫き」とは櫓をずらりと並べた偉容を表現したもの。それにしても歌い出しの「おおふねに」と言い、「遣る」という表現と言い、「斎へ神たち」という命令形と言い、じつに堂々たる歌いぶりで、まさに「国母(こくぼ)」と呼ぶにふさわしい。だが、この歌はあまりに立派すぎて、素人の域を超えていて、柿本人麻呂クラスのプロの歌かと私は思うのですが、いかがでしょう。しかし、そんな中でも心を打つのが「この吾子を」の1句で、皇太后たるもの国民すべてをわが子と思わねばならないという意識は、確かに彼女には強くあったと思う。そして事実そう思い込めるほどに彼女は情の深い、人間への愛着の強い、まさに「母」だったと思う。

遣唐使

 聖武天皇は体の弱い人だったようだが、天皇を退いて7年生き延び、756年に亡くなった。その翌月、光明皇太后は亡夫遺愛の品々を東大寺に奉納した。亡くなった翌月とは、何と潔いことよ、と思うが、その心情は「東大寺献物帳」にこう書かれている。
「右、件(献物の品々)は、みなこれ先帝(聖武天皇)翫弄(がんろう)の珍、内司供擬(ぐぎ)の物なり。疇昔(ちゅうせき)を追感して目に触るれば崩摧(ほうさい)す」。
「先帝遺愛の品々に目がとまると、昔が思い出されて、体が崩れ落ちてしまう」というのである。
亡き夫をしのぶ歌が万葉集にある。
「吾が背子(せこ)とふたり見ませば幾ばくか この降る雪のうれしからまし」(1658)
これはまた素直な歌である。率直で何の飾りけもない。雪を見て心に浮かんだ独り言をそのままつぶやいたような歌である。ごくありふれた夫婦と少しも変わらぬ思い、夫を亡くした老女が誰でもふと思う亡き人への懐旧、平凡でありふれているだけに、深くうなづけるいい歌である。
聖武太上天皇が亡くなった翌年、橘奈良麻呂の変が起こるが、彼女は首謀者たちにこう諭している。
「汝らはわが近き人なれば、ひとつも我を怨ぶべきことはおもほえず・・・」
「おまえたちは私に近い家筋で、私を恨むようなことは何も思い当たらないのに・・・」と、家長をつとめる57歳の老女が親戚の不始末を諭すような口調は、嘆きにも似た繰り言のようで、痛々しくさえ思われてくる。

藤原光明子とはそういう女性だった。則天武后に憧れるような権力志向の人ではなかった。私はそう思う。
 彼女が亡くなったのは、夫の死から4年後だった。享年60。
 その1周忌のために、法華寺境内の南西隅にお堂がつくられた。阿弥陀浄土院である。
思えば彼女の母三千代が朝夕礼拝していた阿弥陀如来こそ、彼女にとってもっとも親しい仏さまだったのだろう。
 夫の遺愛品すべてを東大寺毘盧遮那仏に捧げて無一物となった彼女の帰るところは、小さな安宿媛が情愛深い母とならんで阿弥陀仏に手を合わせた、あの幼い日々だったのではないだろうか。 (了)

阿弥陀浄土院跡碑

 草壁系と高市系

 先に掲げた「大津皇子の悲劇」「藤原不比等」「長屋王の悲劇」の中で、折りに触れて書いてきた「草壁系と高市系」について、私の考えのあらすじをまとめておく。詳細は先述の記事を参照していただくという趣旨なので、この文章はメモ風で味気ないものになることをお許しいただきたい。
 ここで述べたいのは、以下のことである。
 天智系と天武系という言葉がよく使われるが、天武系という言葉は正確でない。天武系の中でも草壁皇子の系統が皇統を継ぎ、その他の皇子たちは排除されたのだから、草壁系と言うべきである。
 では草壁系は何の障碍もなくスムーズに皇位継承を続けたかというとそうではなかった。まず草壁皇子自身にライバルがいた。天武天皇の皇子たちの中で最年長の高市皇子である。草壁系と高市系の水面下のにらみ合いは天武天皇没後からつづき、その決着がついたのは、次世代における長屋王の変であった。

〔1〕「吉野の盟約」とは何だったか?
 通説では「吉野の盟約」によって草壁皇子が後継者に決まったと言われる。本当だろうか。吉野盟約は天武天皇の皇后(鸕野讃良皇女=持統天皇)が、天皇を説得して行なわれた。私の見方では、この会合の結果、草壁皇子優位にはなったが、天武天皇は後継者を明確に指名せず玉虫色の決着に終わった、つまり後継者の決定は不調に終わったのだと思う。
 その理由① 草壁皇子立太子は2年後にずれ込んでいる。
 理由② その後683年に大津皇子が「聴政」している。
 理由③ 天武天皇高市皇子の実力を評価していた(壬申の乱の軍事指揮権委任)。また大津皇子を愛した(大津皇子の評価)。それに対して草壁皇子への評価はなく、凡庸だったと思える。


〔2〕天武天皇没後、草壁皇太子はなぜすぐに即位できなかったのか。
皇后は大津皇子を反逆罪で抹殺したが、高市皇子の存在と実力は大きく、これを無視することはできなかった。そこでとりあえず皇后の「称制」という体制で草壁皇子即位の機会を待った。ところが草壁皇子が亡くなってしまった。

〔3〕鸕野皇后即位(持統天皇)と高市皇子太政大臣就任はバーター取引だったのではないか。
 皇后は草壁皇子亡きあと、その遺児である軽皇子(のち文武天皇)即位を願った。だが、軽皇子は当時まだ6歳。そこで、成長を待つ間、皇后自身が即位することを決意した。高市皇子はこれをこころよく思わなかっただろう。そこで皇后はみずからの天皇就任を承諾してもらうために、高市皇子太政大臣とすることで両者の妥協が成立した。これは藤原不比等の建策であろう。
 理由 高市皇子が亡くなると、ただちに軽皇子を皇太子とし、すぐに即位させている。同時に不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせている。

〔4〕高市皇子藤原京遷都と藤原不比等平城京遷都
 唐からの情報で、先進国家たるためには都が必要になった。都づくりは高市皇子が主導した。しかし藤原京には致命的な欠陥が残った。天皇の座す藤原宮を京の北ではなく真ん中に造ってしまったことで、朱雀大路の北に玄武大路ができてしまった(笑)。また、この都は藤原不比等にとっては仇敵である高市皇子がつくったものだけに不愉快な都だった。そこで不比等は平城遷都を断行した。

〔5〕長屋王の変
 藤原氏の立場から見ると、聖武天皇安宿媛(のち光明皇后)の間にできた基王が亡くなったため天皇後継者を失った。そこで、次なる策としては、安宿媛を皇后としておいて、万一、天皇崩御があっても皇后が即位できるようにしておきたかった。ゆえにこれに反対する長屋王を排除せねばならなかった。しかし政界首座の権力者を謀反の罪で陥れるには、天皇家の支持が必要である。天皇家の人々は、どう対応したのか。
 ①長屋王謀反の報告を聞いて、愛児の死の悲しみのまだ癒えていない聖武天皇は激怒した。
 ②長屋王家への糾問使の中に天武天皇の子である知太政官舎人親王新田部親王が入っている。
 ③ここで最も大切なことは、元正太上天皇がいかなる立場をとったかである。この時代の最高権力者である彼女の承諾なしにはこんな重大事は起こせなかったはずである。史書には何も書かれていないが、彼女が長屋王糾弾を黙認したことが決定的だったと思う。
 このときキーパーソンは長屋王の正妻である吉備内親王である。
 元明女帝の子供たちは、最初が氷高皇女(元正女帝)、2番目が軽皇子文武天皇)、そして3番目がこの吉備内親王で、彼女は長屋王に嫁いだ。さて、姉の氷高皇女は、妹(吉備内親王)をどう見ていたのだろうか。
 715年正月の儀式で首皇太子(のち聖武天皇)が初めて礼服を着て元明女帝に拝礼したことを祝って、元明女帝は大赦を行なったり官位を上げたりしたが、この時、長女の氷高皇女を二品から一品に上げた(同年9月、氷高皇女は即位して元正女帝となる)。ところが翌月、「三品吉備内親王の男女を皆皇孫の例に入れ給う」た。「吉備内親王の男女」とは、つまり長屋王の子供たちのことだから、天武天皇から数えると、その子である高市皇子親王、その子である長屋王は皇孫にあたり、そのまた子供は三世王という。元明女帝はこの三世王たちを、1ジェネレーション繰り上げて皇孫として待遇せしめたのである。これはおそらく吉備内親王とその夫である長屋王への配慮であろう。だが、このことを姉の氷高皇女はどう思ったか。
 この特例は必ずしも元明女帝の無理押しとは言えない。なぜなら、女系から見れば、元明女帝の娘である吉備媛は内親王だから、その子は皇孫であって少しもおかしくないからである。
 ただこの結果、夫の長屋王にとって、おかしな理屈がまかり通ることになる。子どもが皇孫ならその親は親王ではないかという理屈である。ここから「長屋親王」という呼称が正当性を持ってくる。
 もうひとつ、長屋王サイドから理屈をこじつけることができる。さかのぼって、文武天皇が亡くなったあと、どういう理屈で元明女帝が即位できたのか、という疑問である。元来、女帝が即位できるのは、天皇崩御後、後継者までの中継ぎを「皇后」がつとめるためだった。元明女帝は文武天皇の母であって誰かの皇后ではない。彼女に皇后の資格があると言いつのろうとするならば、亡き夫の草壁皇太子は天皇に等しい存在だったと言わねばならない。そこで草壁皇子に日本古来の「尊(みこと)」という敬称を付して「日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」と呼んで擬似天皇化したり、さらにのちには「岡宮天皇」と追号している。そうなれば自分は皇太子夫人ではなくて限りなく皇后に近づく。こうした草壁系のやり方に対して、高市系の長屋王はこう言いつのることが可能であろう。草壁皇子に「尊(みこと)」の尊称をつけるのなら、高市皇子にも「後皇子尊(のちのみこのみこと)」と尊称を付して擬似天皇化したっていいだろう、と。さらに、その子が親王でもいいだろうと。
 不比等亡きあと、実力者長屋王は政界に君臨し、吉備内親王もまた、兄の文武天皇の供養として写経をさせたり、夫とともに天武・持統両天皇の愛の寺と言われる薬師寺につぎつぎに建築物を寄進したりしている。そして広大な邸宅で豪奢な暮らしを営んだ。
 そうした妹夫婦の暮らしを、姉の元正太上天皇は、どんな思いで見ていたか。
彼女なら長屋王邸に対する実力行使を阻止できたし、それが無理だとしても吉備内親王は救えたはずである。なぜなら、現に事件ののちに、吉備内親王と子供たちは無罪だったと、聖武天皇がはっきり言っているのだから。また長屋王妃のひとり藤原長娥子(不比等の娘)は、ちゃんと救われているのだから。さらに、もしも元明女帝が生きていたら、きっと長屋王夫妻をかばったにちがいない。長屋王元明女帝という大きな後ろ盾を失っていたのである。
 私は長屋王の変にゴーサインを出したのは、最終的には元正太上天皇だったと思う。長屋王夫妻は無実の罪に陥れられたけれども、夫妻の言動や暮らしぶりは、世間から嫉妬の眼で見られ、皇室からも孤立し、ついに姉からも見捨てられたのではないか。

 長屋王の死によって、草壁系と高市系のにらみ合いは終わったが、結局、草壁系の皇位継承も終焉を迎え、それは同時に天武系の終焉を意味し、天智系の光仁天皇に変わるのである。
 思えば、すべての元凶は、持統天皇のわが子を皇位につけたいという執着である。それを「愛」と呼ぶのだろうが、「愛」などという概念は、所詮、大したものではない。 (了)

【感動日本史】 阿修羅幻想

法隆寺に「橘夫人念持仏(たちばなぶにんねんじぶつ)」という仏像がある。
大きな厨子(ずし)に入った阿弥陀三尊像だが、像自体は高さ30㎝ほどの小さなもので、いかにも女人が身辺に置いた念持仏にふさわしい愛らしさである。とは言え、「伝」の文字がついているとおり、橘夫人のものだったというのは伝承にすぎず、そう言われ始めたのは鎌倉時代以来で、それ以前の由来は不明だという。だが、橘夫人は熱心な仏教徒だったし、法隆寺にもご縁が深いから、この伝承も故無しとしない。
橘夫人とは、あの県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)のことで、元明(げんめい)女帝に仕えた命婦(みょうぶ)にして藤原不比等の妻、光明皇后の生みの母である。
光明皇后はもと安宿媛(あすかべひめ)と呼ばれた。幼いころから、朝夕、母が仏像を拝む姿を見て育ったから、媛もまた敬虔な仏徒となった。
この母が亡くなったのは安宿媛が33歳のときであった。その時、安宿媛はすでに聖武天皇の皇后という権力者だったので、母の菩提をとむらう一周忌にあたって、興福寺にお堂を建てることにした。興福寺には父の不比等が建てた金堂のほかに、その後、夫の聖武天皇が建てた東金堂(とうこんどう)があったので、彼女は西金堂(さいこんどう)を建てた。
翌年の天平6年(734)正月、西金堂は新築なり、皇后は僧たちにつづいてお堂に足を踏み入れた。お堂の中央にはご本尊の釈迦如来像が祀られ、その左右にさまざまな仏たちが安置されている。皇后はその仏たちの前にいちいち立ちどまり、お顔を拝し、合掌、瞑目して南無仏と唱えてゆかれた。
彼女が初めて子どもに恵まれたのは、嫁して2年ののち、18歳のときで、生まれたのは女の子だった。阿倍内親王(あべないしんのう)である。その後、9年を経て、皇后が27歳のとき、ようやく男児に恵まれた。聖武天皇はじめ天皇家の人々も藤原氏一族も、こぞって安堵の胸をなでおろした。これで皇統は平穏につながってゆく、と。男の子は基王(もといおう)と名づけられ、わずか2カ月で皇太子に立てられた。異常としか言いようがないが、ことほどさように期待が大きかったということである。ところが翌年、1歳にも満たないこの赤ん坊は、あっというまに亡くなってしまう。人びとの落胆は推して知るべしだが、誰よりも深く悲しみ、傷ついたのはひとりの母としての皇后だったに違いない。
 つと皇后の視線がひとつの仏像に釘づけになり、歩みを止めて立ち尽くした。それから前後の仏像を見くらべるように視線を動かす。八部衆のうち沙羯羅(さから)、五部浄(ごぶじょう)、そして阿修羅などの顔を見つめている。それらは少年ないし青年の顔だった。見返せば、お釈迦さまの十大弟子たちの中にも羅睺羅(らごら)や須菩提(すぼだい)のお顔は若い。しかも、この子たちはみんな眉を寄せて憂いに満ちた表情で、必死に何かを訴えかけてくる。見るほどに息苦しくなって、思わず「どうしたの?」と、こころの中でそう問いかけると、抱きしめたい思いに駆られて、皇后の目はうるんだ。
 
 というのが、私の幻想である。


 この幻想は、ある疑問から発している。どうしてこんな像がつくられたのかという疑問である。古来さまざまな仏像があるが、聖徳太子や誕生釈迦像など人間を写したものを除いて、想像上の仏たちを少年・青年の顔や姿につくる例はなく、興福寺のこれら諸像は例外である。なぜ、こんな像をつくったのだろう。
 仏像の作者は仏師将軍という肩書きを持つ万福(まんぷく)と、画師(えし)の秦牛養(はたのうしかい)であるという。ふたりは、皇后に感動してもらおうと思ったのだろう。そこで、仰ぎ見て拝する像ではなく、思わず手を触れたくなるような親しみある像をつくったのだろう。
 そこで私が思いついたのは、1歳足らずで亡くなった基王のことである。仏師たちはあどけない少年像を皇后にお見せして、基王を偲んで感動してもらおうとしたのではないか、と。私がそう考えてから1〜2年になるが、どうも我ながらいまひとつ腑に落ちないのである。なぜなら、基王の誕生は727年秋で、西金堂ができた734年正月には、生きていれば6歳であり、それに対して、阿修羅をはじめとする興福寺の諸像は幼く見つもっても10歳からで、上は16、7歳と見えるから、年齢が合わないのである。
 最近、ふと思いついたのは、皇后のもうひとりのお子さんである阿倍内親王である。718年に生まれているから、734年正月には15歳、これなら阿修羅など諸像の年齢にぴったりだろう。いや、あれは少年ではないかと反論されるかも知れない。私もそう思い込んでいたのだから。だが、それは重大な思い違いである。つまり、仏像は男性でもなく、女性でもない。人間の形につくられているけれども、男女という性別を超えた抽象的存在なのである。そんな当たり前のことをつい錯覚していたのである。(むろんこれは阿修羅など八部衆のことで、十大弟子は人間だから男性である。)
 阿倍内親王を念頭につくられたとすると、私の幻想は、こう書きかえた方がいいかもしれない。
 「諸像の前で立ちどまった皇后は、ゆっくりとうしろを振り返った。そして後に従っていた阿倍内親王と目が合うと、ふたりはにっこりとほほえみを交わしあった。」
 長じて阿倍内親王もまた熱心な仏教徒となられた。のちの孝謙天皇重祚して称徳天皇である。
                                     了