光仁帝と志貴皇子

 

 称徳女帝は独身だったから子どもはいない。それはやむをえないことだが、後継者たる皇太子を決めないまま、亡くなってしまった。無責任のそしりはまぬがれないが、廟堂の重臣たちにも責任があっただろうに、と思える。どういう事情だったのだろう。
 

                                       称徳天皇

 道鏡神託事件のあと、女帝は、「後継天皇を決めるのはこの私であって、ほかの誰でもない」と、あらためて念押しする談話を発表した。そう言われると重臣たちも沈黙するしかなく、後継者についてへたに口出しすると謀反を疑われてしまいかねない空気になってしまった。
 事実、ふりかえってみれば、孝謙(のち称徳)女帝即位以後、後継者が明確でないために「人、かれこれを疑いて罪され廃せらるもの多し」。つまり皇位後継者にからむ事件があいつぎ、謀反の罪に問われたり地位を追われたりしたものが多かった、というのである。具体的には、道祖王廃太子事件、奈良麻呂の変、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱と塩焼王の死、淳仁天皇廃位事件、和気王の変、県犬養姉女らの呪詛事件などである。
 特に奈良時代最大の戦争だった押勝の乱を鎮圧した称徳女帝の権力は圧倒的で、もの言えば唇さむしの空気が廟堂を支配していたのである。
 770年、女帝は道鏡の本貫地である河内の由義宮(ゆげのみや)に滞在中、病いを得て平城京にかえり、そのまま引きこもってしまう。
  「これより百余日を積むまで、事をみずからしたまふことあらず。群臣かつて謁見することを  得る者なし」(『続紀』)。
 百日以上、誰も女帝に拝謁できなかったというのである。かろうじて吉備由利(きびのゆり)なる女官ひとり、病床に出入りして重要事項を奏上したという。そんな異常な状態のままで女帝は崩御されたのである。これでは確かに、後継天皇の相談どころではなかっただろう。
 さて、女帝の死を受けて、重臣たちは早速、会議を開いた。集まったのは、左大臣藤原永手(ながて)、右大臣吉備真備(きびのまきび)以下、藤原宿奈麻呂(すくなまろ)、藤原縄麻呂、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らである。そして、「策を禁中に定めて、諱(いみな)を立てて(白壁王のこと)皇太子とす」と、あっさり白壁王の擁立が決まったような書きぶりである。本当にそうだったのか。
 後世から見れば、天武天皇のあと、文武天皇聖武天皇とつないできた天武系(草壁系)が、聖武天皇の娘を強引に天皇とした(孝謙・称徳女帝)ものの、そこまでで天武系の血筋は断絶し、ついに白壁王という天智系に変わった、重大な転換点であった。そういう重大事態が、かくもあっさりと決まったのだろうか、と怪訝にも思える。
 こういう話には、「いや実際には、もめたんです」という異説がつきもので、それは、左大臣永手や宿奈麻呂ら藤原氏側が白壁王を推したのに対して、右大臣吉備真備文室浄三(ふんやのきよみ)またはその弟である大市(おおち)を推して対立したのだ、というのである。文室浄三・大市兄弟とは、天武天皇の子、長皇子(ながのみこ)の子で、天武天皇の孫である。天武系にこだわれば、たしかに候補者の資格はある。そういう対立があったのを、藤原百川(ももかわ)の暗躍で、白壁王に決定したのだ、というのが異説である。藤原氏VS吉備真備という、いかにも歴史ファン好みの説だが、この説は、藤原百川の伝記にしか出てこない話しで、今日では否定されている。
 私も、このときは意外にあっさりと白壁王に決まったと思う。なぜなら、藤原氏が白壁王に固執する理由もないし、吉備真備が文室氏兄弟に固執する理由もないからである。お互いに利害関係があって、推薦する候補に固執すればこそ争いにもなろうが、この場合、それがない。
 また、オール藤原氏を向こうにまわして、吉備真備ひとりが異を唱えたと想像するには、真備は歳をとりすぎていて、このとき75歳。翌年には右大臣を辞任しているくらいだから、もう生臭い俗世のもめごとはうんざりという心境だったのではないか。さらに言えば、晩年、女帝の病床に出入りを許されたただ独りの女官、吉備由利は真備の妹であって、もし真備がどうしても文室氏兄弟を即位させたければ、この妹と兄たる右大臣とで、偽勅をつくるなど、細工のしようはいくらでもあったはずではないか。だが真備も妹も、そんな人物ではなかった。だからこそ女帝の信頼を得ていたのである。ここから見ても、真備が異を唱えたとは思えない。
 では逆に、白壁王がなぜすんなりと群臣の推薦を得られたのだろうか。その理由は王の血筋や系図を知れば納得できる。白壁王は、天智天皇の子である志貴皇子(しきのみこ)の子、つまり天智天皇の孫で、時に62歳、「諸王中の最年長」というから押さえが効いたのだろう。しかも白壁王が即位すれば、その奥さんである井上内親王が皇后になる。この人は天武直系の聖武天皇の娘であり、その子、他戸(おさべ)親王が皇太子となれば、やがて天武・天智両系統の血を引く天皇が誕生するわけで、天武系にこだわる向きへの説得材料になり、事は、まあるく収まる。
 ご本人の人柄をうかがわせる話もある。後継天皇をめぐるさまざまな事件を身近に見てきた白壁王は、「深く横禍(こうか=思いがけない災難)の時をかえりみて、あるいは酒をほしいままにして跡をかくす」。酔っ払ってわざと凡人をよそおっていた、というのである。そこまで深慮遠謀の人だったのか、本当に凡庸な酒飲みだったのかはわからないが、少なくとも表面上は、無難で、親しみやすい性格と思われていたのだろう。
 以上が白壁王即位(光仁天皇誕生)のいきさつだが、私は白壁王が選ばれたいくつかの理由に、もうひとつの理由を付け加えたいと思う。
 それは白壁王の父、志貴皇子のことである。
 志貴皇子は『万葉集』に6首の歌をのこしている。
   石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌えいずる春になりにけるかも
 「岩の間をほとばしる滝の流れ」と一気に歌ったあと、そこに「さわらびの萌えいずる」とあざやかな若みどり色を置き、そのフォーカスをゆるめて視線をゆっくりと引くように「春になった」という一言を、「はるになりにけるかも」と、10文字も使って緩慢に述べることで余情をかもしだす。天性としか思えないみずみずしい感性はうらやましいかぎりである。聡明で言語能力に長けた方であったにちがいない。
 この皇子を天武天皇は、大津皇子と同じように愛されたのではないか。
 かつて(679年)天武天皇は、みずからの後継者と目される六人の皇子たちを吉野に集めたことがあった(吉野の盟約)。うち四人は自分の息子たちだが、二人は兄の天智天皇の遺児であり、そのひとりがこの志貴皇子である。天武天皇はこの聡明な甥の行く末に期待していたのだろう。
 文室氏兄弟は確かに天武天皇の子、長皇子の子であり、血筋ではまぎれもない天武直系である。しかし長皇子は天武天皇が後継者候補として選んだ六人には入っていない。当時、まだおさなすぎたのか、凡庸だったのか、いずれかであったのだろう。対する白壁王の父、志貴皇子は入っていた。とすればその子、白壁王の即位に、天にまします天武天皇も反対はされまい、という思いが、選考委員たるあの重臣たちにもあったのではないだろうか。


               奈良豆比古神社

 奈良の東大寺の西を、北に京都に向かう道がある。奈良坂越えである。坂の高みまで登って振り向くと、大仏殿の豪壮な屋根を見下ろす圧倒的な景観に息を呑む。その一筋西の古い道を行くとやがて般若寺門前、さらにしばらく進むと、左手に奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)がある。さしたる建造物もない野末の社だが、ここは志貴皇子が病気療養のために隠棲された離宮、いわば別荘のあった地と伝える。ここで皇子は四八歳前後の生涯を終えられた。
 神社の裏手への道をたどると眼前に、巨大な楠が現れる。外から眺めて、こんな巨木があろうとは思えない場所だが、静寂のなかに鬱然と立ち尽くす巨木の姿は、万葉の六首の歌のほか何ら事績を残さなかった志貴皇子の孤高を見るようで、こころ打たれる。  (了)

               樹齢一千年の楠