有間皇子

有間皇子孝徳天皇の子である。
「乙巳(いっし)の変」ののち即位した孝徳天皇の治世は9年だが、その最後はみじめだった。天皇は難波に都していたが、中大兄皇子が飛鳥へ帰ろうと言い出し、天皇の反対を押し切って、百官を引き連れて飛鳥に帰ってしまった。母である元の皇極女帝、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)も中大兄に従ったが、孝徳天皇の皇后である間人(はしひと)皇后まで中大兄に従い、天皇ひとり難波に取り残された。天皇は、翌年、病を得て亡くなった。遺された有間皇子は14歳だった。
孝徳天皇のあとは、先の皇極女帝が重祚(ちょうそ)して斉明(さいめい)天皇となった。その斉明3年(657年)、「書紀」はこう書いている。
有間皇子、性(ひととなり)黠(さと)くして陽狂す」
「黠い」とは「悪がしこい」という意味、また「陽狂す」とは「狂人をよそおう」ことで、「有間皇子は悪がしこい人で、狂気をよそおっていた」というのである。そして治療と称して牟婁温湯(むろのゆ、和歌山県の白浜)に行き、帰ってくると、その地の風光明媚なことを斉明女帝に申し上げた。女帝は自分も行ってみたいと思われ、それから1年後に女帝の和歌山行幸は実現した。その留守の間に事件は起こった。
留守官を命じられていた蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間皇子に、「斉明女帝には三つの失政がある」などと非難してみせた。皇子は赤兄が自分に好意を寄せていることを知り、「やっと挙兵の時が来た」と喜んだ。翌々日、皇子が赤兄の家で話していると皇子の脇息の脚が折れた。これは不吉な前兆だというので、計画を白紙撤回して、互いに口外しないことを誓い合って帰宅した。
その夜中、赤兄は配下のものに皇子の家を囲ませておき、馬を走らせて、天皇有間皇子の謀反を奏上した。皇子は和歌山に護送された。
護送途中の旅の歌2首が『万葉集』に残っている。
  家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を 草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
 (「笥」は食器。日常から解き放たれた旅でのささやかな体験で感じた興趣を素直に詠んでいる。この歌に虜囚の悲しみを読み取るべきだろうか。私には18歳の少年が旅に心ときめかせる、その小さな興奮がほほえましく感じられるだけだ。それだけに悲惨な最期を知らぬ無邪気さが哀れである。
  磐代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまたかえり見む
  (松の枝を結んで旅の無事を祈る。「もしも我が身にまだ幸運が残っていれば、帰り道にもう一度これを見よう」。「まさきくあらば」の七文字に込められた祈りが切ない。
 尋問を行なったのは中大兄皇子だった。
 「何ゆえの謀反か」
 有間皇子の答えはこうだった。
 「天と赤兄と知る。われ、全(もは)ら解(し)らず」。
 「赤兄に聞いてくれ。私はまったく知らない」という意味だが、「天と赤兄が知っている」という劇的な表現に、「赤兄の言動と策謀のすべては天が知っている。わが無実も天が知っている」という祈りにも似た訴えが感じられる。
 皇子は絞首刑に処せられた。

 『日本書紀』の書き方に従えば、有間皇子はかねてから斉明・中大兄母子に対する謀反のこころざしを抱いていたことになる。「陽狂」していたというのは、その心のうちを隠すためであって、それが「悪がしこい」というのだが、「悪」がしこいかどうかはともかく、愚鈍ではなかったに違いない。思うに孝徳天皇崩御の時点では14歳のまだ幼い少年だったが、4年経って18歳になると、いつの日にか即位しておかしくない立派な青年に成長したのだろう。中大兄には脅威である。
 しかし、脅威を感じていたのは有間皇子の方だったかもしれない。自分には皇位をうかがう考えはないけれど、中大兄皇子や世間は、そうは見てくれない。ということは、わが身が危ない。そこで「陽狂」していたのかもしれない。
 赤兄にそそのかされたとき、有間皇子がどんな返事をしたのか、本当のところはわからない。つまりどの程度謀反の意志があったのか、あるいはまったくの濡れ衣、罠にはめられたのかもしれない。
 
 ところで有間皇子の和歌2首だが、実は、皇子の歌ではないかもしれない。誰かの歌が、あの悲劇にぴったりだというので、皇子の歌とされたのかもしれない。あるいは、有間皇子の歌には違いないが、最後の護送の旅のときではなくて、その前年の旅のときの歌かもしれない。(了)