女帝と道鏡


和気清麻呂朝倉文夫作)


 
 私の母は少年の私に、奈良時代について二つのことを教えてくれた。
 一つは、「奈良、七代、七十四年」。この場合「七」は「ナナ」と読んで語呂合せする。奈良時代天皇が七代で、七十四年間つづいたという暗記法である。
 もう一つは、「七代」の天皇の暗記法で、それはお経のように「ゲンゲンショウコウ、ジュンショウコウ、カーン」というのである。つまり「元明、元正、聖武孝謙淳仁、称徳、光仁桓武」で、最後にカーンと鉦の音で終わるというオチまである。もっとも最後の桓武天皇も入れると「奈良、七代」でなく、実際には八代である。
 以上が、わが母の教え給いし奈良時代暗記法である。

 閑話休題
 「奈良、七代」のうち、四代が女帝である。
 そもそも女帝は、推古天皇以来、現在までに10代、そのうち重祚(ちょうそ)、つまり2度即位した方が2人あるから、人数としては8人。列記すれば、推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)、明正、後桜町の各天皇である。
 さらに、天武天皇没後(686年)の持統天皇称制から称徳(孝謙天皇の亡くなった770年までの84年間に4人の女帝(持統、元明、元正、孝謙[称徳])が5代にわたって君臨、一方、男帝は3代(文武、聖武淳仁)で、在位年数の合計は男女ほぼ半々、この時代が、長い天皇制の中で異様な「女帝の時代」だったことがわかる。ちなみに、その後850年あまり、女帝は無く、明正・後桜町両天皇は江戸時代である。
 ここで持統天皇から称徳天皇までと限ったわけは、この「女帝の時代」現出の発端が、持統天皇がわが子草壁皇子の即位にこだわって他の皇子たちを排除したことから始まり、その「草壁系」の終焉が称徳天皇だからである。

 女帝はもともと男帝へのつなぎ役だった。ただひとりつなぎ役でない例外は孝謙(称徳)天皇で、彼女は初の女性皇太子を経ての即位である。ところが女帝には夫がいてはならない。と言うことは、彼女はわが子でない誰かを後継天皇に指名しなければならなかった。
 こういう背景があって、「道鏡神託事件」という不可解な事件が起こる。
 道鏡河内国、いまの大阪府八尾市あたりの出身で、本姓は弓削氏。ゆえに弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも言う。昭和戦前期の天皇絶対主義の教育では、道鏡皇位を窺った極悪人であり、一方、それを阻止した和気清麻呂天皇家の血筋を守った忠臣として英雄視され、紙幣にも描かれたほどである。
 私も、そこまでは子どものころから知っていたが、長じて史書を読むと、驚いたことに事件のイメージがまるで違う。つまり、道鏡は罰せられ、清麻呂は称賛されたのだろうと思っていたのに、実際には道鏡の地位は安泰で、清麻呂の方が罰せられているのだ。
 『続日本紀』によって事件を略述しよう。

 ある時、大宰府の役人が道鏡に媚びて、「宇佐八幡神のお告げがあり、『道鏡天皇にすれば天下泰平となるだろう』とのことです」と言ってきた。これを聞いて道鏡は「深く喜びて自負す(大喜びしてその気になった)」。
 ついで、称徳女帝は和気清麻呂を召してこう言われた。「昨夜の夢に八幡神の使いが現れて『八幡神が告げたいことがあるので、法均をよこしなさい』と言われた。なんじ清麻呂法均に代わって宇佐におもむき八幡神のお言葉を聞いて来なさい」。法均とは清麻呂の姉で、称徳女帝のそば近くに仕える女官である。女帝はこの姉弟を日ごろ深く信頼しておられた。
 清麻呂宇佐八幡宮に詣でると、八幡神のお告げはこうだった。
 「わが国開闢以来、君臣定まりぬ。臣をもって君と為すは未だあらず。天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人はすみやかに除くべし」。
 つまり「天皇になるのは天皇家の血筋を引いたものでないとダメ。道にそむく人(道鏡)は排除せよ」というのである。
 清麻呂が帰ってこれを復命すると、道鏡はかんかんに怒って、清麻呂因幡員外介(いなばのいんがいのすけ)として因幡国鳥取県)に左遷した。
 さらに「いまだ任所にゆかぬに、つぎて詔(みことのり)ありて、除名して大隅に配(なが)す。その姉法均は還俗(げんぞく)せしめて備後に配す。」清麻呂がまだ因幡へ着任していないのに、今度は称徳女帝からの命令で、大隅に配流、姉も備後に配流となったのである。

 いかがでしょうか。なんかスッキリしないというか、よくわからない話だと思いませんか?
 道鏡は、八幡神のお告げの話しを聞いて大喜びしたのに、清麻呂に全否定されて怒り心頭、これは納得できる。
 わからないのは称徳女帝の心理である。清麻呂は出張の使命を果たしたのに、怒って追放してしまう、片や、皇位を望んだ道鏡にお咎めなしとはどういうことか。
 そもそも道鏡は看病禅師(かんびょうぜんじ)といって病気を治療する僧侶だったが、ある時、称徳女帝の病気を治したことから、女帝の絶大な信頼を得る。男女のあいだで、しかも病気の治療をしたとなると、とかくの噂になるのは当然で、古来、日本史に材を得た猥談の代表になってしまったほどだが、私は、それは下司の勘繰りというものだろうと思う。第一におふたりの年齢だが、道鏡61歳、女帝43歳で、当時としてはすでに老境である。また、道鏡は怪僧みたいに言われるが、実はサンスクリット語と禅を学んだハイレベルの知識人で、深く仏教を信仰した称徳女帝は、道鏡を心から尊敬していたのだろうと思う。
 で、尊敬のあまり、道鏡天皇になってもらって、仏教国家を発展させたいと、称徳女帝は考えたのではないか。現に道鏡には藤原仲麻呂の失脚のあと、太政大臣禅師から法王という前代未聞の処遇を与えていて、もうその上は天皇しかない。そこで道鏡とともに宇佐八幡神の託宣の話しを作りあげたのだが、和気清麻呂という空気の読めない朴念仁が、話しをぶち壊してしまったので、道鏡は怒る、女帝はもっと怒るという結末になったのではないか、という説もあり、私も一時期そう考えていました。
 だが、そうだとすると、なんでまた和気清麻呂なんて融通のきかない男を出張させたのかということになる。女帝の希望通りの託宣を持って帰る使者を立てればいいではないか。
 そもそも女帝が道鏡天皇にしたかったのなら、「最初の八幡神の託宣」の話を疑う必要はないではないか。
 ゆえに、女帝は道鏡天皇にする気はなかったことになる。片や道鏡はその気になっている。そうすると和気清麻呂を出張させたのは、「最初の八幡神の託宣」を否定する託宣を持ち帰らせるためだった。
 女帝のおもわくどおり、清麻呂は、「天皇家の血筋でないものを天皇にしてはいけない」という託宣をもらって帰ってきた。ではなぜ、清麻呂は女帝によって追放されたのか。
 その謎解きを、あるとき瀧浪貞子先生(京都女子大)が講演で、次のように話された。
 清麻呂の聞いた八幡神の託宣を、よく読んでください、と。
 「わが国開闢以来、君臣定まりぬ。臣をもって君と為すは未だあらず。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人はすみやかに除くべし」。
 前半は女帝のおもわくどおりだったのです。ところが最後の一言が余計だった。
 「無道の人はすみやかに除くべし」。つまり「道鏡を排除せよ」の一言である。
 女帝は道鏡天皇にする気はなかったが、かと言って、道鏡を退けるつもりもなかったのです、と。
 私も、いまはこの説がいいと思っている。
 
 さて、それでもまだ不可解な気分が残るのは、そもそもこの話しが、大宰府からの八幡神託宣の報告から始まり、女帝の夢のお告げがあり、清麻呂八幡神の託宣を聞いて決着するという、およそ非科学的な、現代人には信じられない事象の上に成り立つ物語だからである。だが、古代の人々にとってはそれらは真実だった。
 八幡神の託宣の場面を、史書は次のように描写する。
 「(清麻呂が祈ると)神、すなわち忽然として形を現す。その長さ三丈(9m)ばかり、色は満月のごとし。清麻呂、魂を消し度を失い、仰ぎ見るあたわず。ここにおいて、神、託宣す」(「清麻呂薧伝」)。
 出現した神は、人間のような姿かたちだったのだろうか。そうは書いていない。巨大な発光体だったかのようにも読める。実にリアリティーのある描写で、信じてもいいのではないか、あるいは少なくとも清麻呂が見たというのは事実だろうと思えてくる。

 私たちは到達不能なことは承知のうえで、それでも少しでも古代人のこころに近づこうと努力しなければならない。その時代の通念や価値観を理解したうえで、論評しなければならない。
 例えば称徳女帝は、東大寺に対抗するかのように西大寺を造営し、付設する尼寺として西隆寺をつくった。世界最古の印刷物と言われる陀羅尼を納めた小塔100万個をつくった。莫大な財政支出である。現代人には、悪辣な新興宗教に全財産をつぎ込んだ愚かな主婦のように見える。
 だが、奈良時代とはそういう時代だったのだ。彼女にとってはそれが政治だったのである。
ちなみに、その後、称徳女帝が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡はたちまち下野(しもつけ)に左遷され、清麻呂と姉は復権を果たして帰京、清麻呂は有能な官僚として大活躍している。これは素直に納得できる結末である。     (了)