草壁系と高市系

 先に掲げた「大津皇子の悲劇」「藤原不比等」「長屋王の悲劇」の中で、折りに触れて書いてきた「草壁系と高市系」について、私の考えのあらすじをまとめておく。詳細は先述の記事を参照していただくという趣旨なので、この文章はメモ風で味気ないものになることをお許しいただきたい。
 ここで述べたいのは、以下のことである。
 天智系と天武系という言葉がよく使われるが、天武系という言葉は正確でない。天武系の中でも草壁皇子の系統が皇統を継ぎ、その他の皇子たちは排除されたのだから、草壁系と言うべきである。
 では草壁系は何の障碍もなくスムーズに皇位継承を続けたかというとそうではなかった。まず草壁皇子自身にライバルがいた。天武天皇の皇子たちの中で最年長の高市皇子である。草壁系と高市系の水面下のにらみ合いは天武天皇没後からつづき、その決着がついたのは、次世代における長屋王の変であった。

〔1〕「吉野の盟約」とは何だったか?
 通説では「吉野の盟約」によって草壁皇子が後継者に決まったと言われる。本当だろうか。吉野盟約は天武天皇の皇后(鸕野讃良皇女=持統天皇)が、天皇を説得して行なわれた。私の見方では、この会合の結果、草壁皇子優位にはなったが、天武天皇は後継者を明確に指名せず玉虫色の決着に終わった、つまり後継者の決定は不調に終わったのだと思う。
 その理由① 草壁皇子立太子は2年後にずれ込んでいる。
 理由② その後683年に大津皇子が「聴政」している。
 理由③ 天武天皇高市皇子の実力を評価していた(壬申の乱の軍事指揮権委任)。また大津皇子を愛した(大津皇子の評価)。それに対して草壁皇子への評価はなく、凡庸だったと思える。


〔2〕天武天皇没後、草壁皇太子はなぜすぐに即位できなかったのか。
皇后は大津皇子を反逆罪で抹殺したが、高市皇子の存在と実力は大きく、これを無視することはできなかった。そこでとりあえず皇后の「称制」という体制で草壁皇子即位の機会を待った。ところが草壁皇子が亡くなってしまった。

〔3〕鸕野皇后即位(持統天皇)と高市皇子太政大臣就任はバーター取引だったのではないか。
 皇后は草壁皇子亡きあと、その遺児である軽皇子(のち文武天皇)即位を願った。だが、軽皇子は当時まだ6歳。そこで、成長を待つ間、皇后自身が即位することを決意した。高市皇子はこれをこころよく思わなかっただろう。そこで皇后はみずからの天皇就任を承諾してもらうために、高市皇子太政大臣とすることで両者の妥協が成立した。これは藤原不比等の建策であろう。
 理由 高市皇子が亡くなると、ただちに軽皇子を皇太子とし、すぐに即位させている。同時に不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせている。

〔4〕高市皇子藤原京遷都と藤原不比等平城京遷都
 唐からの情報で、先進国家たるためには都が必要になった。都づくりは高市皇子が主導した。しかし藤原京には致命的な欠陥が残った。天皇の座す藤原宮を京の北ではなく真ん中に造ってしまったことで、朱雀大路の北に玄武大路ができてしまった(笑)。また、この都は藤原不比等にとっては仇敵である高市皇子がつくったものだけに不愉快な都だった。そこで不比等は平城遷都を断行した。

〔5〕長屋王の変
 藤原氏の立場から見ると、聖武天皇安宿媛(のち光明皇后)の間にできた基王が亡くなったため天皇後継者を失った。そこで、次なる策としては、安宿媛を皇后としておいて、万一、天皇崩御があっても皇后が即位できるようにしておきたかった。ゆえにこれに反対する長屋王を排除せねばならなかった。しかし政界首座の権力者を謀反の罪で陥れるには、天皇家の支持が必要である。天皇家の人々は、どう対応したのか。
 ①長屋王謀反の報告を聞いて、愛児の死の悲しみのまだ癒えていない聖武天皇は激怒した。
 ②長屋王家への糾問使の中に天武天皇の子である知太政官舎人親王新田部親王が入っている。
 ③ここで最も大切なことは、元正太上天皇がいかなる立場をとったかである。この時代の最高権力者である彼女の承諾なしにはこんな重大事は起こせなかったはずである。史書には何も書かれていないが、彼女が長屋王糾弾を黙認したことが決定的だったと思う。
 このときキーパーソンは長屋王の正妻である吉備内親王である。
 元明女帝の子供たちは、最初が氷高皇女(元正女帝)、2番目が軽皇子文武天皇)、そして3番目がこの吉備内親王で、彼女は長屋王に嫁いだ。さて、姉の氷高皇女は、妹(吉備内親王)をどう見ていたのだろうか。
 715年正月の儀式で首皇太子(のち聖武天皇)が初めて礼服を着て元明女帝に拝礼したことを祝って、元明女帝は大赦を行なったり官位を上げたりしたが、この時、長女の氷高皇女を二品から一品に上げた(同年9月、氷高皇女は即位して元正女帝となる)。ところが翌月、「三品吉備内親王の男女を皆皇孫の例に入れ給う」た。「吉備内親王の男女」とは、つまり長屋王の子供たちのことだから、天武天皇から数えると、その子である高市皇子親王、その子である長屋王は皇孫にあたり、そのまた子供は三世王という。元明女帝はこの三世王たちを、1ジェネレーション繰り上げて皇孫として待遇せしめたのである。これはおそらく吉備内親王とその夫である長屋王への配慮であろう。だが、このことを姉の氷高皇女はどう思ったか。
 この特例は必ずしも元明女帝の無理押しとは言えない。なぜなら、女系から見れば、元明女帝の娘である吉備媛は内親王だから、その子は皇孫であって少しもおかしくないからである。
 ただこの結果、夫の長屋王にとって、おかしな理屈がまかり通ることになる。子どもが皇孫ならその親は親王ではないかという理屈である。ここから「長屋親王」という呼称が正当性を持ってくる。
 もうひとつ、長屋王サイドから理屈をこじつけることができる。さかのぼって、文武天皇が亡くなったあと、どういう理屈で元明女帝が即位できたのか、という疑問である。元来、女帝が即位できるのは、天皇崩御後、後継者までの中継ぎを「皇后」がつとめるためだった。元明女帝は文武天皇の母であって誰かの皇后ではない。彼女に皇后の資格があると言いつのろうとするならば、亡き夫の草壁皇太子は天皇に等しい存在だったと言わねばならない。そこで草壁皇子に日本古来の「尊(みこと)」という敬称を付して「日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」と呼んで擬似天皇化したり、さらにのちには「岡宮天皇」と追号している。そうなれば自分は皇太子夫人ではなくて限りなく皇后に近づく。こうした草壁系のやり方に対して、高市系の長屋王はこう言いつのることが可能であろう。草壁皇子に「尊(みこと)」の尊称をつけるのなら、高市皇子にも「後皇子尊(のちのみこのみこと)」と尊称を付して擬似天皇化したっていいだろう、と。さらに、その子が親王でもいいだろうと。
 不比等亡きあと、実力者長屋王は政界に君臨し、吉備内親王もまた、兄の文武天皇の供養として写経をさせたり、夫とともに天武・持統両天皇の愛の寺と言われる薬師寺につぎつぎに建築物を寄進したりしている。そして広大な邸宅で豪奢な暮らしを営んだ。
 そうした妹夫婦の暮らしを、姉の元正太上天皇は、どんな思いで見ていたか。
彼女なら長屋王邸に対する実力行使を阻止できたし、それが無理だとしても吉備内親王は救えたはずである。なぜなら、現に事件ののちに、吉備内親王と子供たちは無罪だったと、聖武天皇がはっきり言っているのだから。また長屋王妃のひとり藤原長娥子(不比等の娘)は、ちゃんと救われているのだから。さらに、もしも元明女帝が生きていたら、きっと長屋王夫妻をかばったにちがいない。長屋王元明女帝という大きな後ろ盾を失っていたのである。
 私は長屋王の変にゴーサインを出したのは、最終的には元正太上天皇だったと思う。長屋王夫妻は無実の罪に陥れられたけれども、夫妻の言動や暮らしぶりは、世間から嫉妬の眼で見られ、皇室からも孤立し、ついに姉からも見捨てられたのではないか。

 長屋王の死によって、草壁系と高市系のにらみ合いは終わったが、結局、草壁系の皇位継承も終焉を迎え、それは同時に天武系の終焉を意味し、天智系の光仁天皇に変わるのである。
 思えば、すべての元凶は、持統天皇のわが子を皇位につけたいという執着である。それを「愛」と呼ぶのだろうが、「愛」などという概念は、所詮、大したものではない。 (了)