藤原不比等


 草壁皇太子と高市皇子
 天武天皇崩御(686年)のあと、後継者は容易に定まらなかった。
 大津皇子の死によって、もはや皇太子である草壁皇子の即位を阻むものはなくなったはずである。にもかかわらず、皇后(のちの持統女帝)による称制となる。称制とは即位しないまま政治を執ることである。なぜ草壁皇子は即位できなかったのか。その謎解きはここでは保留しておいて、まずはその後の経過を見てゆくことにしよう。
 2年半のちの689年4月、こともあろうに肝腎の草壁皇太子が27歳の若さで病死してしまう。母たる皇后の衝撃と落胆は察するにあまりある。しかしここで彼女は悲しみを振り捨ててひとつの覚悟を決めたようだ。こうなれば草壁皇子の忘れ形見である孫の軽皇子(かるのみこ、7歳)の即位を見るまでは、みずから天皇となってがんばろうと。翌年、皇后は即位、そのあと7年間がんばり、697年、孫に譲位(文武天皇)する。さらに文武天皇に男の子(のちの聖武天皇)が誕生したことまで見届けて、安堵のうちに702年に亡くなった。めでたしめでたしと言いたいところだが、皇室の不運はまだ終わらなかった。4年半ののち(707年)、文武天皇もまた25歳の若さで亡くなってしまったのである。さてどうする・・・と、苦難の道はつづくのだが、ここで一休みして、冒頭の謎にもどる。
 なぜ草壁皇太子は即位できなかったのか。
 謎を解く鍵は、文武天皇即位の経緯にある、と、ここからは筆者の独断と推論になります。
 草壁皇太子は天武天皇が亡くなったとき24歳だった。その子の文武天皇が即位したのは15歳である。そうすると草壁皇太子は若すぎるという理由で即位できなかったのではなく、別の理由があったことになる。それは何か。
 私が注目するのは、文武天皇即位の前年、重要人物が亡くなっていることである。高市皇子(たけちのみこ)である。時系列を追うと、696年7月に高市皇子が43歳で亡くなり、翌年2月に軽皇子立太子、8月に即位(文武天皇)となる。ということは、高市皇子が亡くなったので一気に文武天皇を実現させたのではないか。この即位がかなり強引であったと言えるのは、持統女帝が生きているのに譲位したこと、しかも新天皇が15歳という若さであったこと、などの理由からである。
 となると、さかのぼって、草壁皇太子が即位できなかったのも、高市皇子が反対したのではないか。
 その推理を踏まえて、今度は草壁皇子没後の皇后の即位(持統女帝)前後を見ると、即位の半年後に高市皇子太政大臣に就任している。これをどう見るかだが、高市皇子が持統女帝体制成立に尽力した論行功賞人事とも見えるが、逆に、持統女帝を認めるかわりに太政大臣に就任した、つまりバーター取引きで両者、もしくは両勢力の妥協が成立したという見方も可能であろう。
 もう一度上記の経緯を、高市皇子を対立軸に置いて並べると、こうなる。①草壁皇子の即位に高市皇子は反対した。やむなく皇后は称制とした。②草壁皇子亡きあと、持統女帝が実現したが、これは高市皇子太政大臣就任との交換条件だった。③高市皇子が亡くなるや、ただちに持統女帝は譲位して軽皇子即位(文武天皇)を実現した。

 藤原不比等
 ところで、高市皇子を向こうにまわして、見事なタイミングで的確な布石を打ち、文武天皇を実現させた持統女帝なる人物は、おそろしく「すご腕」の政治家だったことになる。だがしかし、いかに母は強しと言えども、女ひとりでそこまでやれるものだろうか。ここはどうしても参謀ないし実力者が陰にいたと思いたくなる。それが藤原不比等(ふひと)ではないかというわけだ。
 そこで不比等の履歴と皇位継承の過程を組み合わせて見ると、次のようになる。
 不比等が『日本書紀』にはじめて登場するのは持統3年(689年)で、判事に任命されており、このとき31歳である。この年は草壁皇太子が亡くなった年で、翌年、皇后が即位(持統女帝)している。この皇位継承不比等が関与したかどうかは不明である。
 ところが697年8月1日の軽皇子即位(文武天皇)となると、その直後、8月20日不比等は娘の宮子を入内(じゅだい)させた、つまりわずか15歳の天皇に娘を嫁がせたという事実がある。この速戦即決ぶりから察すると、前年7月の高市皇子の死を見るや、この年2月、軽皇子立太子、8月の持統女帝譲位と軽皇子即位まで、ざっと1年で新天皇を誕生させたのは不比等の辣腕のなせるわざだろうと推理できる。
 不比等はその後、701年「大宝律令」撰定の記事に、撰者のひとりとして現れ、たぶんその論行功賞でしょう、大納言になっている。そして707年には文武天皇崩御、その母の即位(元明女帝)という大事件があり、翌年、不比等は右大臣となっている。これまた論行功賞のにおいが強く、つまり、この皇位継承不比等が一役買った可能性は強い。
 このあと元明天皇から元正天皇への譲位(715年)の記事には、とりたてて不比等の名は出てこず、その後720年、不比等は62歳で亡くなっている。
 こうしてみると、昇進記事を除くと、不比等の業績としては大宝律令撰定のみであり(とは言え、これは国の骨格を定める大事業に違いない)、天皇家にからむ動きとして事実と言えるのは、文武天皇に娘を入れたという、それだけで、このとき皇位継承に関わった可能性は確かに強い。次に、元明天皇へのリレーも不比等の演出と推理はできる、が、その直接的な証拠は見当たらない。
 ところが、ここにひとりの女性が加わることで、不比等の影は一段と輪郭を濃くする。その女性とは、彼の後妻、犬養三千代(いぬかいのみちよ)である。

 県犬養三千代
 彼女の名前をちゃんと言うと、県犬養宿禰三千代「あがたのいぬかいのたちばなのすくねみちよ」となる。このうち「橘」の姓はのちに元明天皇から賜ったものである。
 この人はそもそも美努王(みぬおう)という王族に嫁いだが、王が大宰帥に任じられて九州に赴任すると、離別して不比等に嫁した。前夫との間に生まれた葛城王はのちの橘諸兄(たちばなのもろえ)、不比等との間に生まれた安宿媛(あすかべひめ)はのちの光明皇后、これだけでも三千代なる女性がただものでないことがわかる。
 彼女は内命婦(うちのみょうぶ)といって、後宮に仕える女官だったが、阿閇皇女(あへのひめみこ、草壁皇子妃、のちの元明女帝)の信頼を受け、ふたりは力を合わせて軽皇子を育てた(乳母だったという説もある)。皇子の祖母である持統女帝もふたりを手厚く庇護したことだろう。三千代は終生、元明女帝に忠節を尽くし、元明女帝もまたこれに報いたから、三千代は後世の春日局(かすがのつぼね)にも比すべき後宮の実力者となっていった。
政界の実力者不比等は、彼女を妻に迎えたことで、軽皇子と阿閇皇女の母子に大きな影響力を行使できた。文武天皇亡きあと、元明女帝・元正女帝の母娘リリーフによって首皇子(おびとのみこ)の即位(聖武天皇)までつなぐ策も、おそらく不比等の建言であったろう。こうして皇位継承に尽力しつつも、娘の宮子を入内させて首皇子(のちの聖武天皇)を産ませ、さらに首皇子に娘の光明子を嫁がせるという念の入れようで、不比等はいわば天皇家を十重二十重にからめとっていった。
 
 黒作懸佩刀(くろつくりのかけはきのかたな)
 しかしそれでもなお、不比等皇位継承に果たした具体的な役割はいまひとつ霧の中で、すべては推論・憶測の域を出なかった。そうした学界の状況の中に一条のスポットライトのように鮮明な光を投げかけたのが、関西大学薗田香融教授の「護り刀考(まもりがたなこう)」という論文であった。その要旨を述べると・・・。
 ご承知のように、正倉院の宝物には、光明皇后が亡き夫、聖武天皇の遺品を東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)に奉献したものが入っていて、その目録を『東大寺献物帳』という。
その中に「黒作懸佩刀」と呼ばれる刀があり、そこには次のような説明が書いてある。
 「右(この刀)、日並皇子の常に佩持するところ、太政大臣に賜う。大行天皇即位の時、すなわち献じ、大行天皇崩ずる時、また大臣に賜い、大臣薨ずる日、さらに後太上天皇に献ず。」(右 日並皇子常所佩持賜太政大臣 大行天皇即位之時便献 大行天皇崩時亦賜太臣太臣薨日更献 後太上天皇
 誰のことかわかりにくいが、次の人物を指す。
  日並皇子――草壁皇子
  太政大臣――藤原不比等
  大行天皇――文武天皇
  後太上天皇――聖武天皇
 そこで人物名を置き換えて読むと、
 「この刀は草壁皇子が常に身につけておられたもので、藤原不比等に与えられた。文武天皇の即位の時に不比等はこの刀を天皇に献上し、文武天皇が亡くなられた時にまた不比等に与えられた。そして不比等が亡くなる時に聖武天皇に献上した」。
これを図式で示すと、
  草壁皇子―→不比等―→文武天皇―→不比等―→聖武天皇
 もちろんこれを鵜呑みにはできないが、仮に真実だったとすると、不比等はあたかもこの時代の天皇たちの後見人とも言える立場を占めていたことになり、文武天皇の即位のみでなく、聖武天皇に至るまでの皇位継承に大きな役割を果たしたという明確なイメージが浮かび上がってくる。
 『東大寺献物帳』は1000年以上前の有名な文書である。そこに書かれた文章を、誰もがぼんやり眺めてきたのに、薗田先生はこれに具体的人物名を当てはめて、刀の伝世の意味に思いを及ばされた。すると不比等の予想外の巨像が立ち現れてきた。慧眼というほかない。

 ところで、この「護り刀」の伝世には女帝が入っていない。すなわち、
  草壁皇太子→(持統女帝)→文武天皇→(元明女帝)→(元正女帝)→聖武天皇
のカッコに入れた三人の女帝である。護り刀だけに男子に限るのだろうか。
 参考までに付け加えると、正倉院にはこの刀とよく似た伝世品がある。それは天武天皇の使った漆塗りの厨子(ずし、もの入れ)で、『東大寺献物帳』には持統女帝、文武天皇、元正女帝、聖武天皇孝謙女帝に伝えられたと書かれている。こちらの方は男女の区別なく受け継がれているようだが、よく見ると元明女帝が抜けている。どういうわけだろう・・・などと考えていると楽しくてしようがない。(了)