藤原宮の富本銭


大海人皇子壬申の乱に勝利すると、近江京を捨てて飛鳥古京に帰り、天武天皇になる。その後、飛鳥の北方に新都を計画するが、完成を見ないうちに亡くなってしまう。持統女帝は亡き夫の遺志を継いで都を完成させ、694年に遷都する。これが藤原京である。しかしこの都はどういうわけか、わずか16年で捨てられて、平城京遷都(710年)となる。
 藤原宮跡の石碑

 そういう経緯のせいもあって、藤原京は、従来、大した都ではないと思われてきたが、近年の発掘調査で、なかなか立派な都だったことが明らかになってきた。小さな都だと思われた理由は大和三山のせいである。つまり海に浮かぶ島のように、空から見ると三つの山が三角形を成していて、北中央に耳成山、その南東に香具山、南西に畝傍山となる。ここに都を想定すると、どうしてもこの三山の描く三角形の内側におさめてしまい、したがって東西1㎞、南北3㎞くらいの都を想定してきた。
 ところが1990年代になって東の端っこの大路と西の端っこの大路が見つかってみると、その間ざっと5㎞、香具山も畝傍山も都の中に入ってしまう。南北の大路も見つかって、これも5㎞。東西南北ともに一条から十条まで大路が走り、耳成山も都の中の小山にすぎない。従来の想定に対して、これを「大藤原京」と呼び、その面積は平城京平安京よりも大きく、古代都市中、最大であることがわかった。
 余談をもう少し。藤原京の中央を南北に走る中軸線は朱雀大路と名づけられた。ただ、他の都と少し違うのは「宮」の位置である。平城京平安京も「宮」は「京」のセンターライン上の一番北に位置しており、だからこそ「天子、南面する」のである。ところが「藤原京」においては「藤原宮」は南北間についても中央に位置している。つまり都の文字通り真ん中に「宮」がある。そうすると中央を走る朱雀大路は「宮」の北側にも延びている。「宮」の北側にあるのに、「朱雀」とは、これ如何に。
 洒落を解説するのは野暮とは承知しているが・・・。中国の五行思想では、森羅万象の根源を木火土金水とする哲理から始まって、例をあげれば、方位では東を青竜、南を朱雀、西を白虎、北を玄武と見、時間についても春を青、夏を朱、秋を白、冬を玄、すなわち青春、朱夏、白秋、玄冬とする等々。
 だから、「宮」の南に延びる道が朱雀大路ならば、北に延びるのは「玄武大路」ではないのか、と発掘にあたった考古学者たちは仲間うちで言い出した。夕方、発掘現場から帰って来た若き学徒たちがその日の成果を話し合い、そのうち酒もはいって談論風発という光景が目に見えるようで、ほほ笑ましい話ではありませんか。「玄武大路」が定着すると、では宮の横っ腹から東西に伸びる道は青竜大路と白虎大路だということになった。勝手にそんな名前をつけて、とお思いかも知れませんが、ナーニいいのです。そもそも「藤原京」という名前も近代の学者が名づけたものにすぎないのですから(「藤原宮」の名は当時からあったが)。
 ところで、宮の位置が京の北にあって天子南面するのが中国の常識なのに、藤原京ではそうなっていないということは、当時、致命的な欠陥だったのではないか、と思うのです。早々に藤原京を捨てて平城京に遷都した大きな理由だったのではないかと。
 閑話休題
 藤原京の中心は藤原宮で、その藤原宮の中でも大極殿院は諸行事の行われる重要な建て物である。大極殿院の周囲には回廊がめぐっているが、その回廊の南門の西側の地中から、平瓶(ひらか)が出土した。平瓶とは、例えて言えば湯たんぽのような格好をしていて注ぎ口が中心より端っこの方についている、そんな器で、高さ13.8cm、最大径20.2㎝である。
 平瓶の注ぎ口には、ちょうど栓をするように貨幣が何枚か詰めてあった。貨幣は錆び固まっていて取りのけると壊れそうなので、そのまま持ち上げてX線CTスキャンで中身を透視して見ると、なかには水があって、底に半透明の六角柱の形をした鉱物が9個。大きさは2cm〜4cm、太さ1cmほどで、それは水晶だった。また貨幣は、これも透視によって「富本」の文字が確認され「富本銭(ふほんせん)」と判断されたが、これも9枚あった。
 さて、これは何でしょう、というわけだが、それを考える上で見のがせないのは、平瓶を真ん中にしてそのあたりの地面の四隅に穴があったことである。それは小さな柱穴で、4本の柱というか、杭を立てた跡で、そうするとその杭を注連縄(しめなわ)でつないで、白い紙垂(しで)でもぶら下げて、結界を仕切ったようなイメージが浮かぶ。これはひとつの祭祀だろう、ということになった。地鎮祭である。
 それで私が思い出したのは、韓国考古学史上の大発見(1971年)、武寧王陵である。何しろ、「墓誌」という絶対確実な証拠が出たことで、朝鮮の『三国史記』『三国遺事』、それにわが『日本書紀』の雄略天皇の記事をも裏付けたことになった。
 思い出したというのはその墓誌である。墓誌は石板で2枚あった。その一枚には「寧東大将軍百済斯麻王(しまおう=武寧王)」という一節があるが、これは買地券(ばいちけん)であった。
  銭一萬文右一件
  乙巳年八月十二日寧東大将軍
  百済斯麻王以前件銭訟土王
  土伯土父母上下衆官二千石
  買申地為墓故立券為明
  不従律令
 「申地を買ひて墓と為す。故に券を立て明と為す」というように、買地券とは、この墓の土地はお金を払って買ったものですよ、という契約書で、土地の神さまに対して、どうか祟らないでくださいと、お墓に入れておくのである。
 そして2枚並べた墓誌の上に、ちゃんと貨幣が置いてあった。
 藤原宮の平瓶の話にもどると、富本銭は「お賽銭」と考えられているようだ。神さまに差し上げるお金を総称して「お賽銭」と言えばその通りだが、もっと目的をしぼって言えば「土地代」ではないかと、私は思ったのである。
 ところで、富本銭は以前から知られていたが、祭祀用につくったもので貨幣として流通したものではないと考えられ、だから日本最初の貨幣は「和同開珎」だと言われてきた、とのことである。おかしな話だと思いませんか。祭祀用とはつまり神さまへのお賽銭である。流通しない貨幣とは無価値なお金、言い換えればニセ金である。お賽銭にニセ金をあげたら、神さんは怒りますよ、祟りますよ、絶対に。
 ゆえに、富本銭は流通していた貨幣であり、日本最古の貨幣であると、私は思う。(了)