井上皇后呪詛事件


                                   佐保川


 白壁王が即位し(光仁天皇)、井上内親王が皇后、他戸(おさべ)親王が皇太子と定まって、称徳女帝没後の皇位継承問題は一件落着とみえたが、そうすんなりといかないのが人の世の常、そこがまた歴史を読む醍醐味でもある。
 事件が起こったのは新天皇と新皇后が誕生してから一年半ののち、772年(宝亀3)3月のことであった。
  「皇后井上内親王、巫蠱(ふこ)に坐(つみ)せられて廃せらる」(『続日本紀』)。
 「巫蠱」とは、まじないによって人を呪うことで、ここは、天皇を呪い殺そうとした罪で皇后の位を追われたというのである。
 さらに3か月後の5月27日には、他戸皇太子も廃太子となる。そして半年後の773年、山部(やまべ)親王が皇太子となる。のちの桓武天皇である。
 どうしてこんなことになったのか。
 たとえば『奈良市史』(1990年刊)はこういう見方をしている。
  「これは井上皇后と他戸皇太子の謀反(むほん)ではなく、むしろ山部親王を擁立しようとした藤原百川(ももかわ)らの策謀であったようである。」
 こうした見方は多くの史書が採る見解で、いわば通説と言ってもいい。まずはその通説の述べるところに、いま少し耳を傾けよう。
 通説は、771年2月に廟堂の頂点に君臨していた左大臣藤原永手(ながて)が死去したことに注目して、こう言う。
 称徳女帝のあと、白壁王擁立については重臣たちはおおむね一致したが、他戸親王立太子については意見が分かれたのではないか。すなわち左大臣永手は他戸親王を推したが、百川らは山部親王を擁立して反対したのではないか。しかしこのときは永手が左大臣の強権をもって他戸親王立太子を実現させた。ところがその永手が亡くなったことで情勢は一変、百川らは井上皇后による天皇呪詛(じゅそ)事件を捏造して皇后と皇太子を追い落とし、山部皇太子を実現させたのだろう、と。
 これに藤原氏のお家の事情を加味すると、永手は藤原四家のうち北家であるのに対して、百川らは式家であり、永手の死により両家の優位が逆転したと、これまた通説の補強材料となる。ちなみに「百川ら」と「ら」を付けるのは、主役は策士百川だが、その兄良継(よしつぐ。もと宿奈麻呂)との共同作戦だったからである。
 以上を時系列に並べるとこうなる。
  770年(宝亀元)10月1日 光仁天皇即位
   〃 11月6日 井上内親王立后
  771年1月23日 他戸親王立太子
   〃 2月22日 左大臣藤原永手(北家)死去
   〃 3月13日 藤原良継(式家)、内臣(大納言)となる
   〃 11月23日 藤原百川(式家)、参議となる
  772年3月2日 井上内親王、呪詛事件により廃后
  〃  5月27日 他戸親王連座して廃太子
  773年1月14日 百川の建議により山部親王立太子
 こう見てくると、通説はさすがに説得力がある。
 では、私はここでいかなる異を唱えようというのか。
 まずは呪詛事件を語る『続紀』の記事を、もう少し長めに引用して読んでみたい。
 「三月癸未(2日)皇后井上内親王、巫蠱に坐せられて廃せらる。(このあと天皇のお言葉を皆々よく聞けという常套句が入るが、略す)。いま裳咋足嶋(もくいのたるしま)謀反のこと自首し申せり。勘(かんが)へ問うに(調べ尋ねてみると)、申すことは年をわたり月を経(へ)にけり。法を勘ふるに、足嶋も罪あるべし。しかれども年をわたり月を経ても、臣(やつこ)ながら自首し申せらくを勧め賜い、冠位上げ賜い・・・(以下略)」
 つまり井上皇后の呪詛事件は冒頭の一行のみで、そのあとに書かれているのは、事件を密告して自首してきた裳咋足嶋なる男への処分内容である。すなわち、事件は年月を経てしまったものであるけれども、そして本人も共犯の罪があるけれども、自首したことを評価して冠位を上げるというのであり、事実、彼はそれまでの従七位上から外従五位下に上げられた。
 この文章は自首した男を法的にどう裁くかを述べたもので、呪詛事件の経緯を説明したものではない。では『続紀』のどこかに事件の経緯が書かれているかというと、それはどこにもない。これはいかにも不自然で、私は、もともと『続紀』原稿には事件の経緯が記述されていたのに、編集の最終段階で諸般の事情を考慮してばっさり削ったのだろうと思う。しかし自首した男への処分については判例として記録に残さねばならず、そうなると呪詛事件があったという一言を冒頭に付け加えざるを得なかった、その結果がこの文章だと思う。
 とすれば、ばっさり削らねばならなかった理由は何か。藤原氏による捏造がばれては困るから削除したのか。そうかも知れない。
 だが、私は、皇后が天皇を呪詛したその詳細を露骨に書くにしのびなかったからという理由もあり得ると思っている。
 そもそも皇后が行なった「巫蠱」とは具体的にどんな行為か、それを推測させる事件が、3年ほど前に起こっている。称徳女帝の時代(769年5月)に県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが、「巫蠱に坐して配流」されているのだ。そして、その具体的行為を次のように書いている。
  「天皇(称徳女帝)の大御髪(おおみかみ)を盗み給はりて、きたなき佐保川の髑髏(どくろ)に入れて大宮(内裏)の内に持ち参りきて厭魅(まじもの)すること三度・・・」。
 いかにも、おどろおどろしい話しで、いまは美しく桜咲きほこる佐保川も、当時は汚れて髑髏がころがっていたわけで、何やら「桜の木の下には死体が埋まっている」(梶井基次郎)という言葉さえ連想されてくる。
 この時の犯人は県犬養氏の一族の女性だったが、3年後のこの度はこともあろうに天皇の妻、しかも正妻たる皇后陛下である。そういうお方がこんな禍々しい、不気味な行為をしたと、正史に書くのはいかがなものか、とはばかられた・・・ので削除されたのかも知れない。
 加えて県犬養姉女らの呪詛事件は、2年余りのちの771年8月8日条に誣告(嘘の訴え)だったとある。しかるに井上皇后による呪詛事件については、のちの記事のどこにも誣告だったとは書かれていない。
 話を『続紀』の記事にもどすと、さらに注意を喚起したいのは、「申すことは、年をわたり月を経にけり」という言葉で、「密告した事件はすでに過去の事件だ」という点である。「年月」という以上、この記事の年月日より少なくとも1年以上前に、呪詛の行為はあったということになる。
 もうひとつ看過できないのは、『続紀』の他戸親王廃太子のくだりで、「謀反大逆の人の子」を皇太子の地位にとどめておくことはできないと廃太子の理由を述べているのだが、そこに、「その母井上内親王の魘魅(えんみ)大逆の事、一二遍(ひとたびふたたび)のみにあらず、たびまねく発覚」したとある。呪詛の謀反行為は一度や二度でなくたびたびあった、というのである。
 また、自首した男のほかに粟田広上(あわたのひろかみ)、安都堅石女(あとのかたしひめ)のふたりが流罪となっている。
 こう見てくると、まるで根も葉もない事件を、百川らがでっちあげたとも言えないように思えて・・・きませんか。
 
 私が一番首をかしげるのは、井上皇后の廃后が決まったのが仮りに3月2日として、他戸皇太子の廃太子の5月27日まで、短く見積もっても3か月近いという点である。他戸皇太子は生年不詳ながら、このとき推定11歳とみられ、なんの抵抗もできない少年であり、したがって、直ちに廃太子は可能だったはずである。ましてや最初から廃太子が目的で呪詛事件を捏造したのなら、電光石火、即、断行すべきところでしょう。
 さらに、他戸親王廃太子が772年5月27日で、山部親王立太子が翌年1月14日と、7か月余もかかっていることも、同様にスピード感がなくて腑に落ちない。
 私は、井上皇后天皇呪詛事件は、山部立太子が目的ではなかったと思う。
 呪詛が事実か捏造かはわからないが、何らかの理由で井上内親王を廃后とせざるを得なくなったのだろうと思う。それにともなって幼い他戸親王廃太子とせざるを得なくなり、そうなってから後継者を模索した結果、藤原百川の推す山部親王に決したというのが真相ではないかと思う。そういう、もたもたとした時間の流れ方であって、最初から山部擁立を目的に呪詛事件を仕組んだにしては、スピード感に欠けると思う。
 では、なぜ井上内親王は皇后を追われたか。それを考えるためには、まず井上内親王の出自、氏素性を述べねばならない。
 井上内親王聖武天皇の子で、母は県犬養広刀自である。県犬養氏と言えば、あの県犬養橘三千代の出現によって史上に名を残す氏族である。三千代は藤原不比等との間にできた娘を聖武天皇に嫁がせて光明皇后が実現するが、自分の同族である県犬養唐の娘であった広刀自をも聖武天皇に嫁がせた。光明子には阿倍内親王が生まれ、つぎに基王(もといおう)が生まれる。基王はすぐに皇太子となるが、夭折してしまい、やむなく阿倍内親王が初の女性皇太子となり孝謙女帝(称徳女帝)が実現する。
 一方、広刀自と聖武天皇の間には、安積親王井上内親王不破内親王の一男二女が生まれた。安積親王基王亡きあと皇太子の可能性も芽ばえたが、17歳という若さで疑惑の死を遂げる。また、その妹、井上内親王天智天皇の孫である白壁王に嫁ぐ。
 こういう人間関係の中で、井上内親王は称徳女帝をどう見ていたか。夫の白壁王をどう見ていたか。ここから先は推測にすぎないが、称徳女帝に対しては、同じ聖武天皇の娘でありながら、しかも自分の方が1歳年上なのに、妹は天皇となって権力をほしいままにしている。嫉妬もすれば、腹も立ったに違いない。
 その称徳女帝が崩御して、夫の白壁王が即位した。だが、夫はたかが傍系の天智天皇の孫にすぎず、自分は女ながら天武直系の聖武天皇の子である。血筋は自分の方が上という優越意識は結婚当初からあったし、年老いて53歳になった今は、ますます強まっていただろう。その夫が天皇となって、彼女は素直に喜び、皇后となったことに謙虚な感謝の念を抱いただろうか。夫の出世に対する嫉妬と対抗心の焔が身を焦がしたに違いない。
 しかし自分が天皇になることは不可能である。夫のいる女性は天皇にはなれないからである。ただ夫の天皇は62歳という高齢で、失礼ながらいつ亡くなってもおかしくない。万一、そうなると、他戸皇太子の成人するまでの繋ぎ役として、皇后が天皇となることは、むしろきわめて自然である。
 私は井上皇后という女性が、生来、嫉妬深く高慢な女性だったとは思わない。そうではなくて、このような血筋と環境の中では、ごく普通の人でも、そうならざるを得ないでしょう、と申し上げているのです。
 井上皇后が呪詛の行為を実行したかどうかはわからないが、夫たる天皇の死を願う邪悪な心理が芽生えていたかもしれない。そこまでいかなくても、老いた天皇を軽んじる言動が、一年以上前から「たびまねく」あり、宮中の側近や重臣たちは眉をひそめることしばしばだったのではないか。
 そしてついに、井上内親王を拘束もしくは軟禁して皇后の地位を剥奪した。そうなると罪人の子を皇太子、行く先、天皇にというわけにはいかない。有力者たちに根回ししつつ時間をかけてから、他戸親王廃太子に踏み切った。天皇のご高齢を考慮すればすみやかに皇太子を決めねばならない。藤原百川が兄良継と連携しつつ山部親王擁立に動いたのは、ここからだろうと思う。
 山部親王の母は高野新笠(たかののにいがさ)という渡来系氏族で、身分が低く、普通に考えれば親王にはチャンスはない。そこを藤原百川の辣腕で、思いもかけない立太子が実現した。山部親王桓武天皇)が終生、百川の恩義を公言していたのも当然である。
 ここまで書いてきて、こういう見方は、かの本居宣長がすでに、「井上皇后は称徳女帝のように天皇になろうとしたのだろう」と書いていることを知った。つまり、私の話しなど、古代史の専門家なら、「知ってるよ」の一言で片付ける程度の話しである。ただ私は、私の感動を綴るのみである。
 
 一連の事件は、次の一行によって幕を下ろす。
 「(776年4月27日)井上内親王、他戸王ならびに卒(しゅつ)しぬ」
 母と子が同時に死んだとはどういうことか。自殺か他殺か、いずれにせよ異常死に違いない。私は、大和国宇智郡五條市)に軟禁された井上内親王が、ことあるごとに、みずからの無罪と、山部皇太子の無効と、光仁天皇藤原良継・百川への誹謗を声高にくりかえしてやまなかったため、手に余った百川らによって死に追いやられたのだろうと想像する。
 いかに百川が辣腕の策士であったとしても、最初から、山部親王擁立を目的に、呪詛事件を捏造して皇后と皇太子の殺害を計画するほど残酷な人物だったとは思わない。そんな人物だったとしたら、光仁天皇や山部皇太子の信頼を得られただろうか。第一、光仁天皇は、なぜ悲劇を止めなかったのだろうか。
 事件の経過を通じて、光仁天皇のこころのうちを忖度し得る片言隻句も、史書は残していない。ただ天皇は、正妻とひとりの子どもを失ったその翌年(776年)、勅願によって、お寺を建てさせた。
 秋篠寺である。
 その動機として天皇の心中にあったのは、後悔の念か、怨霊への恐怖か、それとも憐れな母と子への静かな鎮魂の思いか。
 優美な伎芸天のふところに抱かれる一瞬のまどろみを夢み、鮮やかな苔の緑にこころを洗われながら、私は、人間はそれほど悪くもなく、それほど立派でもなく、ただ運命に翻弄される哀しい存在なのだと、感傷に耽る。 (了)

                                     秋篠寺