蘇我氏四代


 

 中大兄皇子は、なぜ蘇我入鹿を殺したのか。
 大きな流れから見ると、それまでは天皇権力と豪族勢力のせめぎあいの時代であった。もっとも豪族勢力といっても蘇我氏が豪族たちの中で抜きん出た存在になると、蘇我氏天皇権力とは直接対峙の様相を呈することとなった。その争いにいったん終止符を打って天皇側の勝利に終わらせたものこそ、入鹿暗殺事件=「乙巳(いっし)の変」だった。
 天皇権力と蘇我氏との闘争の実態を、蘇我氏歴代から観察してみよう。

 蘇我氏発展の基礎を築いたのは、蘇我稲目(そがのいなめ)である。大伴金村失脚のあと蘇我稲目物部尾輿(もののべのおこし)の二大勢力となり、欽明朝の仏教受容問題などで両者の対立は深まる。その間、稲目は、二人の娘、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇に嫁がせる。この布石は大きかった。のちに堅塩媛の子ふたりと小姉君の子ひとりの計3人が天皇になったのだから。

 二大勢力対立の図式は次の世代に持ち越され、蘇我馬子(うまこ)と物部守屋(もりや)となる。欽明天皇(29代)のあとの敏達天皇(30代)崩御後、馬子は用明天皇即位(31代)に成功する。用明天皇は堅塩媛の子で馬子の甥である。ところが用明天皇は即位後わずか1年半で亡くなってしまう。この計算違いから血なまぐさい皇位継承争いが起こる。すなわち物部氏穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推す。この皇子は蘇我稲目欽明天皇に嫁がせた小姉君の子であるが、蘇我氏よりも物部氏と親しかったのである。蘇我馬子穴穂部皇子を殺し、いよいよ物部守屋との一戦となる。物部氏はそもそも軍事貴族だったからさすがに強く、蘇我氏はてこずった。蘇我氏に組する厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子)が四天王に戦勝を祈願したのはこの戦いのときである。馬子は勝利し豪族中の独裁的権力をつかんだ。
 さて次の天皇だが、馬子は、殺害した穴穂部皇子の弟(母は同じ小姉君)を推した。崇峻天皇(32代)である。ところが崇峻天皇は、数年たつと、馬子が政治の実権を握っている実態に次第にいらだってきた。あるとき猪(いのしし)が献上されてきたのを見て、天皇は「いずれの時にか、この猪の頸(くび)を断つがごとく、わが嫌(いとは)しみする人を断たむ」(いつか嫌いな人の首を切ってやる)と言い、多くの武器を準備させる様子はただごとではない。それを聞いた馬子は、殺られる前に殺れとばかりに、天皇暗殺を決意、「すなわち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を殺(し)せまつらしむ」。正史に天皇殺害が明記されている例は他にない。そして馬子はその月のうちに東漢直駒を殺す。馬子の娘をさらったというのがその理由だった。
 このあとの天皇をどうするか。薗田香融先生によれば、天皇候補者の筆頭にあげられるのは、敏達天皇の子、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)であった。ところが馬子は、この皇子とウマが合わない。シャレではなく、蘇我氏の血を引かない皇子だから、天皇にしたくない。そこで緊急避難的に、亡き敏達天皇の皇后(堅塩媛の娘)を推古天皇(33代)として即位させた。史上初の女帝である。だが、推古女帝に万一のことがあった場合を予想すると、本命の押坂彦人大兄皇子が即位したのでは、馬子としては女帝擁立という荒わざが水泡に帰してしまう。そこで蘇我系の厩戸皇子聖徳太子)を皇太子として次期天皇の座を約束し、押坂彦人大兄皇子即位の芽を完全に摘んでしまったのである。ただ押坂彦人大兄皇子の系譜は脈々とつづき、蘇我氏の血を引かない「敏達系」として、蘇我氏への対抗軸を形成してゆく。
 さて推古女帝・厩戸皇子蘇我馬子トロイカ体制で、馬子はひと安心しただろう。ところが世の中は思いどおりにゆかないもので、推古女帝が生きているうちに、厩戸皇子の方が先に亡くなってしまう。622年のことである。その4年後(626年)には蘇我馬子が亡くなって蘇我本宗家は蝦夷(えみし)が継ぐ。そして2年後(628年)、推古女帝の崩御を迎える。推古女帝は「わがために陵(みささぎ)をたてて厚く葬(はぶ)ることなかれ。すなわち竹田皇子の陵に葬るべし」と遺詔した。竹田皇子とは推古女帝の子である。女帝は、甥の厩戸皇子を皇太子として、三十数年、天皇の責務を果たしたけれど、実は心中ふかく、若くして世を去ったわが子を常に思っていたのだろう。

 さて、後継者と目されたのは、厩戸皇子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)と、押坂彦人大兄王の子である田村皇子である。
 蘇我蝦夷はここで山背大兄皇子を押すのが当然であろう。厩戸皇子は父も母も蘇我氏の血を引いており、さらにその厩戸皇子と馬子の娘(刀自古郎女、とじこのいらつめ)との間にできたのが山背大兄皇子なのだから。ところが蝦夷はこれを嫌って田村皇子に肩入れした。父の馬子があれほど忌避した押坂彦人大兄皇子の子で蘇我氏の血は入っていない。なぜ田村皇子を推したかというと、田村皇子は非蘇我だが、その妃が蘇我馬子の娘(法堤郎女、ほてのいらつめ)で、二人の間には古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)がいた。つまり次の次をねらったのである。
 すべては独裁者である蝦夷の思いどおりになったかというと、そうはいかない。蝦夷の叔父にあたる蘇我境部摩理勢(そがのさかいべのまりせ)という実力者がいるのだが、これが山背大兄皇子の後ろ盾となっていた。蝦夷は山背大兄皇子の力を削ぐため、また蘇我一族内で目の上のこぶ的存在だった叔父摩理勢を殺す。かくして田村皇子が即位(629年)、舒明天皇(34代)である。
 たしかに舒明天皇には馬子の娘が「妃」に入っていて古人大兄皇子が生まれていた。しかし舒明天皇の「皇后」となった宝皇女(たからのひめみこ)は、敏達天皇――押坂彦人大兄皇子――茅渟(ちぬ)王(舒明天皇の弟)――宝皇女となり、つまり姪が叔父に嫁いだわけで、天皇にも皇后にも蘇我の血がまったく入っていない、いわゆる敏達系なのである。しかも天皇と皇后のあいだには男子が生まれていた。それが中大兄皇子である。
 舒明天皇は治世十三年ののち亡くなるが、中大兄皇子舒明天皇の殯(もがり=本葬の前の仮りの祭り)において、16歳にして誄(しのびごと=弔辞)を述べており、このとき「東宮」(皇太子)と書かれている。
 舒明天皇没後、皇位継承候補者は、蘇我系の古人大兄皇子、厩戸皇子の子の山背大兄皇子、それに中大兄皇子天智天皇)である。ただ中大兄皇子の16歳は、当時としては若すぎて天皇にはなれない。蘇我蝦夷・入鹿父子と皇后宝皇女の間で協議が行われた結果、推古女帝の先例にならって「皇后の即位」で妥協がはかられたのだろう。これが皇極女帝である。ただ推古女帝と皇極女帝には決定的な違いがある。推古女帝が蘇我系であったのに対して、皇極女帝は敏達系であることだ。

 蝦夷は馬子と比べればおとなしい方だが、息子の入鹿は鼻息の荒い男だったようで、皇極2年、古人大兄皇子の即位をあせり、ついに実力行使に出た。山背大兄皇子を攻撃、自殺に追い込んだのである(643年)。それを聞いた父の蝦夷は「入鹿はなはだ愚痴にして、もっぱら暴悪をおこなえり」と嘆いたという。しかし中大兄皇子には、入鹿の身を焼かれるような焦りが、手にとるようにわかった。中大兄皇子は入鹿殺害を決意する。「入鹿の次の標的は自分だ。とすれば座して死を待つわけにはいかない」。かくて「乙巳の変」に至るのである。

 蘇我氏四代を総括してみると、馬子が傑出したやり手だったことがわかる。穴穂部皇子を殺し、物部氏を滅ぼし、前代未聞の天皇暗殺までやりながら、お咎めなしで済ませ、前例のない女性天皇を実現させた豪腕の持ち主である。次の蝦夷蘇我境部摩理勢を殺したが、山背大兄皇子本人には手をつけなかった。これを自殺に追い込んだのは入鹿だった。

 この間、天皇権力側も手をこまねいて蘇我氏の所業をながめていたわけではない。まず厩戸皇子憲法十七条を読むと、その第一条「和をもって貴(とうと)しとし、忤(さからう)ることなきをむねとせよ」にせよ、第三条「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」(天皇の言葉に逆らうな)にせよ、天皇の権威高揚を意図したものに違いない。
冠位十二階も天皇が任命するもので、豪族に対して天皇の権威を高めるものである。ただし、大臣は十二階の最高位(大徳)より上で、したがって大臣蘇我馬子は序列化の対象にはならない。厩戸皇子と馬子のかけひきの末の妥協のようにも見える。厩戸皇子蘇我氏の血を引いているけれども天皇の権威を保持し高揚させるために、よくがんばったのではないだろうか。
 推古女帝もよくがんばったようで、馬子が天皇領である葛城県(かづらきのあがた)を賜りたいと申し出たとき、こう言った。
「われは蘇何(そが)よりいでたり。大臣(おおおみ=馬子)はまたわが舅(おじ)たり。故(かれ)、大臣の言(こと)は、夜に言(まお)さば夜も明さず、日(あした)に言さば日も晩(くら)さず、何(いずれ)の辞(こと)をか用いざらむ。」
(私は蘇我の出で、大臣は叔父でもある。だから大臣の言うことは夜であれば夜の明けぬうちに、朝であれば日の暮れぬうちにどんなことも聞き入れてきた。)
「しかるを、今しわが世にして、にわかにこの県(葛城県)を失いてば、後の君ののたまわまく『愚痴の婦人(めのこ)、天下に臨みて、にわかにその県を亡ぼせり』とのたまわむ。あにひとりわれの不賢のみならむや。大臣も不忠になりなむ。これ後葉(のちのよ)の悪名(あしきな)ならむ」
(それなのに私の治世にこの県を失ったら、のちの天皇は「おろかな女が天下を治めたためにその県を滅ぼしてしまった」と言われるでしょう。しかも私ひとりの愚行では終わらず、大臣もまた不忠と言われますよ)
そう言って、馬子の野望をくじいてしまった。蘇我氏天皇家との板ばさみに苦悩する推古女帝の姿はいたましい。

 蘇我氏天皇家と血縁関係を深め同一化する中で権力を強化しようとし、非蘇我の敏達系は蘇我氏の血を拒否し純粋天皇家を守ろうとした。その闘争史のひとつの決着が「乙巳の変」だったのである。(了)