鎌足と仏教

  鎌足肖像

 

 入鹿暗殺事件は、登場人物といい舞台といい、これほど豪華でドラマティックな物語はない。『日本書紀』も歴史書としての冷静な筆致を忘れて、詳細に描写している。ただ、繰り返し読むほどに「なぜ」と引っかかる個所がいくつか出てくる。

 最初の「なぜ」は、物語の書き出しである。
 「皇極三年春正月、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ、鎌足の前の名前)を神祇伯に任じたが、再三固辞して就かず、病と称して退いて三島(摂津国三島郡)の家にいた」。
 鎌足は「なぜ」神祇伯を固辞したのだろう。
 そもそも中臣氏は神話時代からの名家で、その職掌は日本固有の神を祭ること、いわば朝廷における神主さんの総元締めである。別の史料では「(鎌足は)宗業を嗣(つ)がしむるに固辞して受けず」とある。家業を継ぐことを拒否して、しかも朝廷に出なくなったというのだ。理由は何も書いてない。
 鎌足の父は中臣御食子(みけこ)といい、大臣蘇我蝦夷(えみし)のもと、おそらく神祇伯といった肩書きを持つ高級官僚のひとりとして活躍した人で、「書紀」にも登場する。当時、最大の事件は推古天皇没後の皇位継承問題である。このとき田村皇子(のちの舒明天皇)を推したのが蘇我蝦夷、山背(やましろ)大兄皇子を推したのが蘇我境部摩理勢(そがのさかいべのまりせ)である。中臣御食子蘇我蝦夷に組して田村皇子を推しているし、反対する境部摩理勢を説得する役もつとめている(628年)。「書紀」の記述全体の調子からは、蝦夷のお先棒をかついで走り回っているようにも見える。
 さかのぼれば、中臣御食子の前の世代に、中臣勝海(かつみ)という人がいた。御食子の父なのか叔父なのか、系図は不詳だが、世代としては一世代前の人である。当時、仏教伝来に対する国論が二分し、崇仏派の巨頭が蘇我馬子(大臣)で、それに対して排仏派が物部守屋(大連)であり、これに組したのが中臣勝海(大夫=まえつきみ)だった。馬子と守屋の争いには権力争いの一面もあるだろうが、勝海の場合、排仏は職掌上当然だったとも言える。しかし勝海は馬子の手の者に斬り殺されてしまった(587年)。といういきさつを見ていた次の世代の中臣御食子が、蘇我蝦夷に対して卑屈なまでに追従したとしても不思議はない。
 そんな御食子を息子の鎌足はどう見ていたのだろうか。父と同じように蘇我氏の驥尾に付して高級官僚の道を進もうと思っていたのか。それともますます圧力を高める蘇我氏独裁に反発の憤りをつのらせていたのか。結果的には後者の心境だっただろうと推察できるが、しかし、入鹿暗殺は奇想天外の大事件であり、大博打である。よほどの覚悟を決めなければならない。「皇極三年春正月」(644年)、30歳にして、入鹿独裁政権から神祇伯を命じられたことは、鎌足にとっては旗幟を鮮明にせよと踏み絵をつきつけられたような精神状態に追い込まれたのではないか。役目を固辞し病と称して引きこもるという行動は、反独裁政権の立場を明らかにし、ひそかに革命計画を立案する、その第一歩だったのであり、だからこそ「書紀」も、乙巳(いっし)の変の物語をここから始めているのである。
 以上、鎌足神祇伯固辞の理由が、先々代の死にざま、先代の生きざまへの苦々しい記憶に根ざした蘇我独裁体制への嫌悪にあったのではないかという推理を述べた。

 さらにここで、もうひとつの理由を挙げてみようと思う。
 結論を先に言うと、鎌足は仏教を信仰していたのではないかと思うのだ。
 鎌足南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾に通ったという。請安は唐への留学から帰国したばかり(640年)の人である。鎌足は請安先生から、先進大国である唐の最新知識をむさぼるように吸収する最先端の知識人だったのであり、この時代、そのような知識人の多くは仏教受容派だったと思う。また請安から儒教を学んだというが、請安は本来「学問僧」である。鎌足の師匠が僧であることを忘れてはならないと思う。
 ところで、鎌足の子といえば不比等だが、実はその上に長男の定恵(じょうえ・貞慧)がいた。彼は643年生まれ、11歳で渡唐、12年後に帰国するが、すぐに亡くなってしまう(666年)。この定恵は僧である。家庭に仏教を崇敬する雰囲気があったと仮定すれば、長男が僧になったことは納得しやすいのではないか。
 また藤原氏の氏寺として有名な興福寺のこともある。興福寺の前身は、京都山科の鎌足の私邸に建てた山階寺(やましなでら)だった。この寺は669年、死を目前にした鎌足の病気平癒を祈って夫人鏡女王が建てたものだ。ところが、その寺の本尊の釈迦三尊像は、645年ごろ、つまり乙巳の変のころに鎌足がつくらせた仏像だという。鎌足は早くから私邸で仏像を礼拝していたのである。「神祇の家」で仏像を祀ることは世間をはばかることだったに違いない。それでも仏像を祀りたかったのだ。そして二十数年を経て、死を前にして、ついに寺を建てたのである。
 もうひとつ、648年(大化4)、法隆寺に食封(じきふ)三百戸が施入されていることをとりあげたい。つまり法隆寺に三百戸の税を収入として与えるという意味である。この決定が下されたのは、大化の改新といわれる新政治が進行し始めた状況下である。いったい誰の発案だったのか。私は、これを孝徳天皇の発案だと思う。
 孝徳天皇軽皇子)は「仏法を尊び、神道をあなどりたまふ(軽視する)」方であった。そしてのちに述べるように、鎌足軽皇子の即位前、もっと言えば中大兄皇子と会う以前から、「かつて軽皇子と善(うるは)しくありき(親交があった)」という。そして鎌足軽皇子も仏教受容派だったのである。
 法隆寺援助は孝徳天皇の発案だったと思われるが、鎌足もこの案の推進者のひとりだったのではないかと思う。無論、想像にすぎないが、もし、そうであれば、孝徳天皇鎌足も、厩戸皇子聖徳太子)を尊敬していて、その子、山背大兄皇子が蘇我入鹿によって死に追いやられた事件、世間から尊崇の念をもって仰がれていたあの上宮王家(じょうぐうおうけ)滅亡の事件を、痛切な衝撃をもって聞いたに違いない。ひるがえって入鹿の所業を憎悪し、許せなかったに違いない。こういう状況の中で、鎌足は入鹿政権から神祇伯に推され、これを固辞し、いったん朝廷から身を引き、クーデタ計画へと突き進んだ。そして事成ったあかつきに、いたましい法隆寺に対して、新政権として支持と援助の方針を示したのが「食封三百戸施入」ではなかったか。
 鎌足は「宗業を嗣(つ)がしむるに固辞して受け」なかった。「中臣といえば神祇の家柄」であり、そんな自分の家柄が、いやだったのではないか。その根本にこころの問題として、仏教への帰依があったのではないか。こころで仏教に帰依しながら、日本固有の神々を祀ることを職とする矛盾は耐えがたかろう。加えて子孫の未来を考えるに、神祇という職掌に限定されずに自由に活躍できる方がいい。
 鎌足の死の前日、病床を見舞った天智天皇は、鎌足に「藤原」の姓を与えた。「藤原」は地名にすぎず、格別、由緒ある名前だったとも思えない。むしろこれは鎌足が望んだことで、要するに神祇と結びついた「中臣」の姓がいやだったからではないだろうか。かくして天皇の意向という形で中臣の姓を捨て、神祇から解放されて、晴れて仏教の徒となったのである。
 その後、藤原一族は、職掌に依存するスペシャリストではなく、天皇側近のゼネラリスト政治家として、隆盛を重ねていったわけだが、それも鎌足の深慮遠謀のおかげだったことになる、といえば褒めすぎだろうか。(つづく)