入鹿暗殺


 

 鎌足中大兄皇子に近づこうと機をうかがっていた。
 ある時、中大兄が蹴鞠(けまり)をしていると、鞠を蹴った拍子に靴が脱げて、見ていた鎌足の方にころがってきた。鎌足は靴を両手で捧げて膝まづき、つつしんで中大兄に差し出した。中大兄もまたひざまづいて、うやうやしく受け取った。これを機に二人は親しくなったが、人に怪しまれないように、二人は本を手に南淵先生のもとに通い、その行き帰りに語らいあった。
 鎌足の最初の策は、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の娘を中大兄の妃に迎えて婚姻関係を結び、石川麻呂を味方に引き込むことだった。入鹿は蘇我本宗家(ほんそうけ)を継ぐものだが、石川麻呂は蘇我氏の傍流であった。
 鎌足はさらに佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かずらきのわかいぬかいのあみた)の二人の武人を中大兄に推挙した。
 ここまでが皇極3年(644)3月までのことで、話は1年3カ月のちの皇極4年(645)6月にとぶ。
 中大兄は石川麻呂に決行計画をこう語る。
 「三韓が調(みつき)を進上する日に、その上表文をお前に読んでもらう」。
 三韓とは朝鮮半島高句麗新羅百済のことで、その貢物献上の日に石川麻呂が天皇に対して上表文を読み上げる役目をさせるから、そのとき入鹿を斬ろうというのだ。
 当日、天皇大極殿にお出ましになり、古人大兄皇子がかたわらにひかえた。
 鎌足は入鹿が用心深く昼夜、剣を放さないことを知っていたので、俳優(わざおぎ・滑稽なしぐさで座をなごませる人)を使って剣をはずすように仕向けると、入鹿は笑って剣をはずして座に着いた。
 石川麻呂が玉座の前に進み上表文を読み始めると、中大兄は十二の門の閉鎖を命じ、衛士を1か所に集め、みずからは長槍を手に大極殿のかたわらに身をひそめた。鎌足らは弓矢を持って中大兄を警護した。佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は「不意をついて斬れ」と命じられていた。子麻呂は飯を水で流し込んで食べたが、恐怖のため嘔吐した。
 石川麻呂は上表文が終わりに近づいているのに、子麻呂らが来ないので不安になり、汗みずくになり、声も上ずり、手も震えた。入鹿は不審がり、「どうして震えているのか」と尋ねると、石川麻呂は「天皇のおそば近いので恐れ多くて」と答えた。
 中大兄は子麻呂らがためらっているのを見て、「やあ」と叫ぶと子麻呂らと共に入鹿の頭と肩を斬った。入鹿が驚いて立ち上がると、子麻呂は入鹿の脚を斬った。入鹿はころがりながら玉座近くにひれふし「私には罪はありません。どうか調べてください」と叫んだ。天皇は驚いて、中大兄に「何があったのか」と問われた。中大兄もまた地に伏して「入鹿は天皇家を滅ぼしてみずから皇位に即こうとしたのです」と訴えた。天皇は立ち上がり奥に去られた。子麻呂と網田が入鹿を殺した。
 古人大兄は私邸に走り入り、門を閉ざした。
 中大兄は法興寺に入ってここを砦として戦う準備をした。皇子たち・諸王・諸卿大夫(まえつきみたち)・臣・連・伴造・国造はことごとく中大兄につき従った。
 中大兄は入鹿の死体を父の蝦夷のもとに届けさせた。
 蘇我氏に従っていた漢直(あやのあたい)らは、一族を集め武装して陣を設営しようとした。中大兄は将軍巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)を遣わして説得させた。蘇我氏側の高向臣国押(たかむくのおみくにおし)は「我らは太郎様(入鹿)のせいで殺されるだろう。大臣(蝦夷)も今日、明日のうちに滅ぼされるだろう。我らは誰のためにむなしい戦いをして処刑されるのか」と言うと、剣をはずし弓を投げ捨てた。従う兵たちも逃げ去った。
 翌日、蝦夷も誅殺され、さらにその翌日、天皇は譲位された。 

 以上が『日本書紀』の物語るクーデタの経緯である。断っておくが、この物語をすべて事実と思ってはいけない。645年から「書紀」編纂の720年までの七十余年の間に、虚実織り込まれて語り伝えられ、伝説となった物語なのである。
 さて、ここまでをふり返って、いくつか注釈を加えたり疑問を述べたりしてみたい。
鎌足はこのとき三十一歳、中大兄皇子は十九歳で、ひとまわり違い。おとなと子どもである。『書紀』も鎌足を主語として語り始めており、いよいよ暗殺劇が始まるといつのまにか中大兄が主役となっている。実際、このクーデタは鎌足の企画・演出、中大兄が主役というおもむきである。
 鎌足の策は用意周到で、石川麻呂を味方に引き込むという蘇我一族の分断策を、中大兄皇子との婚姻関係から始めるというあたり、打つ手に凄みさえ感じる。
 鎌足は、おそらく軍備にも力を注いだことだろう。入鹿を殺したあとの第2幕を予測すれば、まず蘇我一族が総力を挙げて戦いを挑んでくると予測したはずである。その対策として佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田をあらかじめ味方に引き入れていた。佐伯氏は軍事貴族であって、腕力の強い単なる殺し屋ではない。鎌足が戦争準備に意を用いたであろうことは、逆に蘇我氏サイドの動向からも推察できる。
 すなわち、入鹿暗殺事件の前年11月、蘇我蝦夷・入鹿父子は甘樫岡(あまかしのおか)に家を並べて建てたが、その外に砦の垣をつくり、門のかたわらに武器庫をつくり、武器を持った屈強の人々に家を守らせた。さらに畝傍山(うねびやま)の東にも家を建て、池を掘って砦とし、武器庫を建てて矢を貯えた。蝦夷は身辺警護のため常時50人の兵を引き連れていた。入鹿暗殺事件の半年前にはこうした緊迫した状況があった。
 当然、鎌足・中大兄サイドにもこれに対応する戦争準備があったと推察される。ただそれは蘇我側にはもちろん、世間にもいぶかしく思われないような静かな準備、たとえば軍事貴族を味方に引き入れるという戦争準備である。
 さて、ここで注目したいのは古人大兄皇子である。彼は暗殺劇の中では特に役割はなく、したがって名前を出す必要のない人物である。それなのに、冒頭、天皇ご出座の場面で、こう書かれている。
 「天皇大極殿におはします。古人大兄侍(はべ)り」。
 天皇に寄り添うがごとく、ナンバー2を誇示するがごとくである。蘇我氏の血を引き、蘇我氏の担ぐ御輿に乗って、明日にも天皇たらんとする古人大兄の日ごろの言動とポジションが想像できる。彼は事件後、私邸に逃げ帰り、部屋に閉じこもった。失脚を覚悟したことがわかる。
 蘇我側の抵抗は大したものではなかった。中大兄が法興寺に入って陣を構えると、皇族たち、重臣たちは続々と傘下に集ってきた。これは事前の根回しが行き届いていたことを思わせるし、蘇我本宗家への嫌悪や嫉妬が広い層に浸透していたのだろうと思わせる。
 さて、私にとって最大の疑問は、最後の結末、すなわち皇極女帝の譲位である。そもそも皇極女帝の即位は、その夫である舒明天皇崩御後の苦肉の策だった。皇極女帝とすれば「わが子中大兄はまだ十六歳で若すぎる、ここは自分がつなぐしかない」と覚悟したのだろう。蘇我氏からみれば、皇極即位は、中大兄即位をとりあえず阻止したという意味で一安心であり、この女帝の在位中に、蘇我氏の血を引く古人大兄の即位を画策する時間を獲得できたと評価したはずだ。
 その皇極女帝が譲位したという。実は当時、「譲位」などはできなかった。どんな天皇でも、武烈天皇のごとく悪評嘖々(さくさく)でも、亡くなるまで天皇だった。皇極天皇の譲位が史上初の譲位なのである。『日本書紀』には「天皇、位を中大兄に伝へんとおもほして」とあって、譲位は女帝の意志だとしている。そしてそれを聞いた「中大兄、まかりいでて中臣鎌子連(鎌足)に語りたまふ」となっている。
 皇極女帝にすれば、中大兄即位に反対していた巨魁を倒したのだから、当然、この劇の第二幕はわが子の即位であり、それも間髪を入れず、いま断行すべしと考えたのかもしれない。この政治的判断は迫力があり、失礼ながら女とは思えない胆力を感じさせる。
 しかし鎌足の判断は違った。「年長の古人大兄をさしおいて、腹違いとは言え弟が先に即位すれば、世間は謙遜ということを知らない、と非難するでしょう」と反対した。この物の言い方はみごとで、鎌足のホンネはこうだろう。「あなたは若すぎるから天皇になれないのに、入鹿を殺したら急に歳をとったとでも言うのですか」。蘇我家崩壊によって古人大兄の即位は遠のいたものの、だからと言って中大兄が若すぎるという障碍はいささかも軽減されたわけではない。ここは皇極女帝の弟で、中大兄の叔父にあたる軽皇子(49歳)を立てれば、古人大兄も文句は言えないし世間も納得するだろう。結局、この案が通って、軽皇子が即位(孝徳天皇)した。
 ところで、このときの女帝の譲位だが、これは鎌足の計算外だったのではないか。鎌足にとって、策というものは、極端を避け、できるだけ自然に見えるものでなければならなかったはずである。女帝の譲位という前代未聞の手段で、世間の驚愕を誘うような策は、鎌足の発想と思えない。また、譲位は、女帝と中大兄のふたりだけの話し合いの結果であって、鎌足はあとから相談を受けており、しかも、彼はふたりの意志に反対している。鎌足のシナリオは、古人大兄の失脚、中大兄の立太子までで、あとは皇極女帝の崩御後に中大兄即位だったのではないか。(了)