【感動日本史】 長屋王の悲劇


 

 長屋王藤原四兄弟
 長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は、壬申の乱のときに父の天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者であった。天武天皇亡きあと、持統女帝の即位直後、高市皇子太政大臣となり、藤原京造営など、政界のトップとして時代をリードしてゆく。
 これに対して、持統女帝の夢である軽皇子の即位のために腐心したのが藤原不比等で、高市皇子の死というタイミングをとらえて一気に即位を実現(文武天皇)する。逆に言えば、高市皇子が亡くならなければ持統女帝の夢は実現できなかったのであり、つまりそれほど高市皇子の存在は大きかったのである。
 高市皇子(696年没)亡きあと、藤原不比等は文武・元明・元正三代の天皇を支えて、皇室の信任を一身に集め、時の最高位であった右大臣に昇りつめた。その不比等が亡くなる(720年)と、翌年、不比等に代わって右大臣の座に着いたのは、高市皇子の子、長屋王(45歳)であった。
一方、不比等の四人の男子は、各々、一家を構えて藤原四家(南家、北家、式家、京家)として政界に重きを成した。つまり、高市皇子不比等のにらみあいは、世代交代して「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれたのである。

 長屋王と仏教
 長屋王は仏教の信仰あつく、大般若経全巻の書写(「長屋王願経」)という大事業を二度も行なっている。
 また唐の仏教界に千枚の袈裟(けさ)を贈ったが、そこには次の文字が縫いとりされていた。
  「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」(山川、域を異にすれども、風月、天を同じゅうす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん)。
 中国と日本、国は違うけれども、風や月は同じ空のもとにある。この袈裟を寄進して仏のご縁を結ぼう、というのである。
 このことは唐の仏教界では有名だったようで、あの鑑真和上の物語にも出てくる。すなわち日本からの使いの僧が、鑑真の弟子の誰かを日本に派遣してもらいたいと懇願したとき、鑑真は弟子たちを集めて、この長屋王のことを語り、「日本は仏教に有縁の地である」と、有志を募ったという。結果的には誰も手を挙げず、和上みずから渡日を決意したが、その決意の動機は長屋王の寄進にあったわけである。

 長屋王の変
 その長屋王が「密告」によって逮捕されるという事件が起こった。「長屋王の変」(729年)である。
 「密告」の内容は「長屋王、ひそかに左道(さどう)を学びて国家を傾けんと欲す」(以下、引用は『続日本紀』)というもので、「左道」とは「邪まな道」、つまり呪術のたぐいであり、端的に言えば「天皇を呪い殺す」ことである。
 対応は迅速かつ的確で、「その夜、使いをつかわして三関(さんげん)を守る」。三関とは鈴鹿関(伊勢)、不破関(美濃)、愛発関(越前)で、関所を閉じて反乱者が東国へ逃亡できなくする、つまり畿内に閉じ込めるのである。
 それから式部卿藤原宇合(うまかい)が六衛府の兵を率いて長屋王邸を囲み、翌日には邸内で取り調べが行なわれた。その糺問使は舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王ほか4名、その中には中納言藤原武智麻呂(むちまろ)もいる。即断即決、翌日には「王をして自尽せしむ」。その妃である吉備内親王(きびのひめみこ)と、膳夫王(かしわでおう)をはじめとする子どもたちも「自経(みずから、くびくくる)」。さらに長屋王家で働く全員が逮捕されて、長屋王一族は壊滅した。
ところが、すぐに次のような聖武天皇の勅が出る。
 「吉備内親王は無罪・・・その家令・帳内(職員・従者)らは放免」、さらに「長屋王は犯によりて誅に伏す。罪人に準ずるといえども、その葬(はぶり)を醜(いや)しくすることなかれ」。長屋王は犯罪者だが、葬礼までみじめなものにするな、というのである。また、関係者7人が流刑に処されたものの、ほかの90人は許されたし、長屋王の兄弟姉妹、子孫ら縁坐すべき人々は「男女を問わず、皆ゆるせ」とある。寛大な処分である。
 事件から9年も経ったころ、長屋王の犯罪を密告した中臣宮処東人(なかとみのみやこのむらじあづまひと)が口論の末に斬殺されるという事件が起こった。『続日本紀』には「東人は長屋王のことを誣告(ぶこく)せし人なり」とある。誣告とは無実の人を陥れる訴えをすることであり、国の正史が長屋王は無実だったと記しているに等しい。以上が「長屋王の変」の経緯である。

 では、これを仕掛けた黒幕は誰か。
 「変」の翌月、藤原武智麻呂が大納言に進んでいる。これは政界トップの地位で、それまで左大臣としてトップにいた長屋王にとって代わるものである。しかしそれ以上に重要なのは、さらに半年後の藤原光明子立后である。つまり「長屋王の変」とは、光明子立后を目的とした藤原氏によるクーデタだったのである。
 以上を高校教科書風にまとめると、次のようになる。
 「そのころ政権の座にあった長屋王不比等の子の四兄弟による策謀で自殺に追い込まれると、この直後に彼らの妹の光明子が皇后に立てられた。」
 では、光明子立后藤原四兄弟にとって、なぜそこまで重要だったのか。長屋王という、最高の血筋を引く信仰厚き貴人にして政界トップの実力者を、武力クーデタで滅ぼさねばならないほど重要だったのか。
 そこに至った両者の確執を、さかのぼってたどってみよう。

 基王の死
 実はこの時点で藤原氏側は追いつめられていた。
 事の発端は、ひとりの幼子(おさなご)の誕生(727年)と死である。その名を基王(もといおう)という。聖武天皇藤原光明子との間にできた待望の男児だった。この子はまことに異例ながら、生まれてひと月にして皇太子の地位につく。
 思えば20年前(720年)、文武天皇が若くして崩御されて以来、母の元命天皇・姉の元正天皇という二人の女帝が、母から娘へと皇統をつないだのは、首皇子(おびとのみこ)即位という念願を果たすためだった。首皇子文武天皇不比等の娘宮子の間にできた子どもで、不比等首皇子に娘の光明子を嫁がせて次の次を見据え、男子誕生を待った。首皇子の即位が実現(聖武天皇)したのは不比等が亡くなって4年後(724年)、さらに3年後に男子が誕生したわけである。つまり基王こそは天皇家・藤原家の両家が待ちに待った希望の星だった。
 それなのに、この子は生後わずか1年で亡くなってしまう。
 そして基王の死から5カ月のちに「長屋王の変」が起こる。
 いったい藤原四兄弟は、いかなる状況分析の結果、クーデタを決意したのか?
 基王の死によって、藤原氏は次の天皇候補を失くした。しかもその年、聖武天皇のもうひとりの夫人である県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)に男子が誕生した。安積親王(あさかしんのう)である。光明子にまた男子が生まれるかどうかは天のみぞ知るで、何の保証もない。そこで考えられたのが光明子を皇后の位につけることだった。その案に立ちはだかるだろうと予想されたのが当時の最高実力者である長屋王だった。のみならず、長屋王一族自体が皇位継承の有力候補者となっていたのである。藤原氏側が追いつめられていたというのは、これらのことである。

 吉備内親王膳夫王
 長屋王自身が天武天皇直系の孫であるが、もっと血筋が上なのは、長屋王の妃である吉備内親王で、この人は草壁皇太子と元明天皇の子である。吉備内親王から見れば、父は草壁皇太子、母は元明天皇、兄は文武天皇、姉は元正天皇、そして今上(きんじょう)天皇である聖武帝は兄の子つまり甥である。運命の歯車がひとコマずれていれば、自分が天皇になっていてもおかしくない、というほど高貴な血筋である。
 715年正月の儀式で、首皇太子は初めて礼服を着て天皇に拝礼したが、元明女帝はそれを祝って大赦を行ない官位を上げたりした。その際、姉娘の氷高皇女(ひだかのひめみこ)を二品から一品に格上げしている(同年9月、元明女帝は彼女に譲位して元正天皇誕生)。注目すべきは、姉を一品にしたその翌月、「三品吉備内親王の男女を皆皇孫の例に入れ給う」たことである。皇孫とは天皇の孫であるから、長屋王こそ皇孫であって、その子どもたちは三世王(さんせいおう)なのだが、それを皇孫待遇としたのである。
 それは母からふたりの娘をみて、姉を一品に格上げしたとなれば、妹の気持ちは穏やかではあるまいとおもんばかっての処置か、あるいは妹(またはその夫)の方から母にクレームがついた結果の処置か、母と娘、三人の心のうちを忖度するのは、これまた、歴史の楽しみのひとつではあるが。
 そんなことより長屋王・吉備内親王夫妻の子どもたちが皇孫になったということは、一世代繰り上がったわけで、ポスト聖武の候補者の資格を得たことになる、これが重要なポイントだ。なかんづく長男の膳夫王である。歴史学者のなかには、「長屋王の変は、この膳夫王殺害を目的とした事件だ」と説く人もある。私はこれには不賛成で、次に述べる通説のように、光明子立后が目的だったと思う。

 光明子立后の必要性
 長屋王一家に対抗する策として藤原四兄弟が考えたのが、聖武天皇のあと藤原光明子天皇に擁立することだった。この時代は、持統・元明・元正の3人が女帝、これに対して男は文武・聖武2人、女性が天皇になることに何の違和感もなかった。ただし女帝になるには越えねばならない高いハードルがあった。天皇の妻たちには身分があり、最高位がもちろん皇后で、以下、妃(ひ)、夫人(ぶにん)などがあるが、天皇になるのは皇后だけなのである。光明子は夫人にすぎなかったが、それが皇后になるということは、単なる昇進ではなく、天皇になる資格を取得することだったのである。
 ところがそもそも光明子には、その皇后になる資格がなかった。皇后になれるのは皇族に限られていたからである。そこを藤原氏はゴリ押しした。反対の急先鋒に立ったのが長屋王だっただろう。道理は長屋王にある。
 かくして長屋王の悲劇は起こった。

 長屋親王
 1985年から数年にわたる平城宮東南の地(元そごう百貨店、現イトーヨーカドー)での発掘調査で、3万数千点の木簡が出土し、その中に「長屋親王」と書かれた木簡があった。
 「親王」とは天皇の子どものことである。長屋王天皇の「孫」であって「子」ではないのに、「親王」と名のっていたのである。
 元明女帝から「長屋王の子どもたちを皇孫とみなせ」と言われたのだから、子どもが皇孫ならその親は親王だろう、ということになったのか。
 ちょっと横道に入るが、長屋王の父の高市皇子は後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称されたけれども、これは先に草壁皇子のことを日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と呼んだからで、つまり尊(みこと)という古くからの尊称を付して呼ばれるあの時代の二大元祖なのだ。よく天智系、天武系というが、厳密に言うと天武系ではなく天武天皇の皇子たちの中の草壁系というべきで、草壁以外は持統女帝が排除したのであり、藤原氏がこれに加担した。排除された皇子たちのほとんどはおとなしくしていたが、ただひとり草壁系に対抗したのが高市皇子で、その高市系の血脈の継承者であることが長屋王の自負なのだ。長屋王に言わせれば、そもそも元祖草壁皇子は皇太子であって天皇でもないのに、あたかも新しい血脈の元祖のごとく「尊」呼ばわりして擬似天皇化するなら、こっちだって高市皇子を「尊」と呼んで天皇扱いしてもいいだろうし、それなら俺は「親王」でいいじゃないか、となる。ましてや妃の吉備内親王は草壁直系の文武天皇の娘で、長屋王夫妻はまさに両系統の結節点にあるわけで、その子膳夫王が即位すれば、南北朝の統一ではないが、かほど目出たきことはなし、文句はあるまい、となる。それに比べて、たかが藤原の娘がナンボのもんじゃ、いや失礼、そんな、はしたないことは言わないでしょうがね。
 私は、「長屋親王」という木簡の出現によって、もっと言えば、「親」の一字の出現によって、長屋王に対するイメージが変わってしまった。長屋王は高貴な人で、「策謀」を労する藤原四兄弟という悪もの一家に殺された悲劇の人なのか。藤原氏側が策謀を用いたことは否定しないが、長屋王に落ち度はなかったのか。
 発掘が物語るのは、広大な邸宅、そこで一族とさまざまな職種の人々数百人が暮らす、まるで宮中のような組織、各地から送られる食糧や山海の珍味。当時の貴族はそんな暮らしだったのね、で済むだろうか。邸内で鶴を飼ったり、専用の氷室から氷を運ばせたり、専属の舞の名人を置いたり、普通の貴族がそんな生活をしていたのだろうか。
 関晃氏(東北大名誉教授)は、出土した木簡を見終わったあと「これが長屋王の木簡でなかったらもっと良かった」と言われたそうである。木簡から浮かび上がった暮らしぶりが当時の貴族の平均的な例にならない、特殊例かも知れないことを示唆されたのである。その危惧はすでに本やテレビに見られるとおりで、当時の貴族は山海の珍味を食べていたとか、夏でも氷を入手していたなどと言う。そうかもしれないが、これは長屋王という皇室をさえ凌駕しかねない権力者の贅沢三昧の特殊例かもしれないのである。否、私はそうだろうと思う。『続日本紀』に書かれた災害や飢饉の記事を見れば、平城京の平均的な貴族がそんなに贅沢であったはずがない。

 天皇上皇の同意
 私は先に「長屋王の変」を「クーデタ」と表現したが、これは語弊のある表現で、クーデタは権力の交代を結果するものだが、この時代、実質的にも最高権力者は天皇だから、この事件はいわばナンバー・ツーが排除されたにすぎない。つまり長屋王に対する糾弾は聖武天皇の承認の元に実行されたのである。基王の死から数カ月、まだ悲しみの癒えぬ若き父親は、長屋王謀反の報せに衝撃を受け、たちまち怒りに震えただろう。日ごろから高市系の長屋王に対して好感を抱いていなかっただろうから。
 もうひとつ感心するのは、事件の時に長屋王邸に派遣された糺問使の人選である。糺問使は罪の有無を尋問する検事ないし裁判官役で、それに舎人親王新田部親王を据えている。彼らは天武天皇の息子、高市皇子草壁皇子の弟たちであり、長屋王にとっては叔父、皇室における長老である。要するに長屋王断罪が皇室全体の総意であることが、この人選で示されている。
 しかし、もっとも注視しなければならないのは元正太上天皇である。彼女は甥の首皇子の母親代わりだった。というのも皇子の実母は不比等の娘宮子だったが、この母はどうも心の病いだったようで、息子の首皇子にもほとんど会っていなかった。母を知らず、父を失ったおさなごを、慈しみ育んだのが祖母(元明女帝)と伯母の氷高皇女(元正女帝)だった。
 元正女帝は母(元明天皇)から受けついだ天皇という襷(たすき)を、無事、首皇子に渡すと、「太上天皇(以下、上皇と略す)」となった。上皇天皇が引退したあとの称号に違いないが、政治から引退して発言力を失ったわけではない。上皇天皇と同等の発言権を持つ。だから「長屋王糾弾」は元正上皇の承認なしに実行できるはずがない。なぜなら、長屋王はともかくも、その妃、吉備内親王上皇の妹なのだから。むろん、史書には事件に対する上皇の言動は一切見えず、積極的に同意したのか、暗黙の了解だったのかは不明である。
 聖武天皇は母も藤原氏だから光明子立后に否やは無く、いわば藤原氏サイドに立つのは当然だろうが、元正上皇は必ずしも藤原氏を全面的に支持しなければならない立場にない。血縁はないし、自分の即位も藤原不比等の献策であることは知っていただろうが、つまるところ母に説得されただけで、母親ほど不比等に恩を感じることもなかっただろう。
母の元明女帝は不比等を絶対的に信頼していた。彼女は光明子首皇子に娶わせたとき、首皇子に対して不比等の忠臣ぶりを語ったあと、その娘なのだから、光明子のことを
「あやまちなく、罪なくあらば、捨てますな、忘れますな」
と諭している。いかにも女性らしい情にあふれた表現は、続紀中の異彩である。光明子に対する母のこのような思い入れを、娘の元正上皇はよく知っていた以上、光明子立后に反対はしなかっただろう。
 一方、長屋王に対しては、元正上皇は彼を敵視していた可能性は強い、と思う。彼女は草壁系の継承のために人生を捧げているのであり、高市系の長屋王とは対立せざるをえない星のもとに生まれていたからである。
 それにしても、妹の死を阻止できなかったのか、と考えてくると、案外、妹に対してさほどの愛情がなかったのかも知れないと思えてくる。
 先述した「長屋王願経」の願文では、筆写事業の主体が「北宮」となっていて、これは吉備内親王の邸宅を指す。内親王が兄である文武天皇の追善のために起こした事業なのである。亡き兄を偲ぶ吉備内親王のこころを汲んで、夫の長屋王が書写させたと理解され、「長屋王願経」と言うのである。書写事業は莫大な経費を要する大事業である。実質的に長屋王が指揮・監督したのだろうが、本当に吉備内親王の発案だったかも知れないし、彼女が事業に積極的に関与したかも知れない。もしそうだったとしたら、母の元明女帝はどう感じたか、姉の氷高皇女はどう感じたか。手放しで褒め、喜び、感謝しただろうか。
 吉備内親王は夫とともに薬師寺を信仰拠点としたようで、薬師寺東院、東禅院、細殿僧坊などの建物は、長屋王もしくは吉備内親王の寄進である。薬師寺天武天皇の発願で持統女帝が完成させた夫妻の愛の寺と言われる。その寺に吉備内親王が夫とともに、次々と建造物を寄進することについて、母や姉はどう感じたか。
 人間の本音の感情として、いささか苦々しい思いがあったのではないか。
 長屋王糾弾に同意した元正上皇の心中を忖度すると、いつの時代にもある家族内の人間関係の心理の機微まで連想されてくる。

 『日本霊異記』の長屋王
 「長屋親王」という表現は、木簡から初めて見つかったわけではなく、すでに『日本霊異記』(822年成立)に出ている。
 「元興寺で法会を行なった際、ひとりの僧が不作法に炊事場に入ってきてお椀にご飯をもらった。長屋親王は僧たちに食事を配り与える役だったが、その様子を見て、象牙の笏(しゃく)で僧の頭を打った。僧の頭から血が出て、僧は恨めしそうに泣きながら姿を消した。人々は「不吉だ。善いことはあるまい」とささやきあった。その二日後、事変が起こり、長屋親王は自害した。」
 そして、長屋王のことをこう記している。
 「みずからの高徳をたのみ、かの沙彌(しゃみ)を刑(う)つ。護法くちひそみ、善神にくみ嫌う(原漢文)」(自分が高位であることを誇って僧を打ったため、仏法の守護神は顔をしかめ、善神も憎み嫌われた)。

 『日本霊異記』の作者、景戒(きょうかい)は、薬師寺の僧である。長屋王薬師寺のためにせっせと建造物を寄進したのに、100年後に、その薬師寺の僧からこんなふうに描かれているのである。
長屋王は、たしかに無実だった。だが、長屋王には驕り高ぶりがあって、日ごろ周囲から顰蹙を買っていたのではないか。(了)