天智天皇の人間性

 天智天皇中大兄皇子)といえば、「大化の改新」を断行して新しい国づくりを進めた英邁な君主というイメージが定着している。本当にそうだろうか。
 いったい天智天皇とはどんな人柄だったのだろう。

 『日本書紀』では多くの天皇について、寸評が書かれている。
 皇極天皇――「古道に順考して政をなす」(いにしえの道を遵奉して政治を行った)
 孝徳天皇――「仏法を尊び神道を軽んず。人となり柔仁にして儒を好み、貴賎をえらばずしきりに恩勅をくだす」(人となりは素直で思いやりがあった)
 天武天皇――「生まれてより岐嶷(きぎょく)の姿あり。壮に及びて雄抜神武(ゆうばつしんぶ)、天文・遁甲をよくす」(生まれながら人に抜きん出たお姿で、成年ののちは勇猛で人間わざとも思えぬ武徳があり、天文・遁甲にすぐれておられた)。べた褒めである。
 ところが、天智天皇については「書紀」には何の人物評もない。私は天智天皇は人柄として褒めるところがあまりなかったのではないかと思う。かと言ってまさか貶(けな)すわけにもいかない、だから「書紀」は何も書かなかったのではないか、と、まことに畏れ多いけれども、疑っておる次第であります。

 第一、中大兄皇子にまずまず人望があれば、さっさと天皇になっていたはずである。何度もそのチャンスを逃しているということは、よほど人望がなかったのではないか。通説では中大兄は、なろうと思えばいつでも天皇になれたけれども、皇太子という地位にとどまっている方が、かえって思う存分に腕をふるえると考えたのだ、という。しかしそんなバカな理由があるだろうか。皇太子より天皇の方が、大きな権力を自由に振るえるに決まっているではないか。彼は長らく天皇にならなかったのではなく、なれなかったのではないか。
 そういう問題意識を持って、中大兄が即位できたチャンスと、彼の周辺に起こる血なまぐさい事件を追ってみよう。

 まず父の舒明天皇崩御(641年)の大殯(おほもがり)において、中大兄は「東宮開別皇子(とうぐうひらかすわけのみこ)」と呼ばれて、「年十六にして誄(しのびごと)たてまつりたまふ(現代風に言えば、16歳にして弔辞を読まれた)」とある。「東宮」は皇太子で、皇位をつぐべきポジションにいたことになる。このとき、つまり舒明天皇崩御後は母である皇后が継いで皇極女帝となり、中大兄は時期尚早とされたのだろう、即位を見送られた。

 次に「乙巳の変」がくるわけだが、中大兄を入鹿暗殺に駆り立てた動機を形成したのが、山背大兄皇子の死(643年)であった。あの聖徳太子の遺児でさえも、入鹿によって死に追いやられた。そして入鹿の推す古人大兄皇子は、あたかも次期天皇は自分だと誇示するかのごとく、朝廷において皇極女帝の隣に座を占めている。中大兄は次に殺されるのは自分だと思った。殺される前にやろう。こうして入鹿謀殺劇は起こる。
 その現場でのことだが、みんな怖気(おじけ)づいているなか、結局、中大兄が「やあ」と叫んで子麻呂とともに入鹿に斬りかかり、頭と肩を斬ったという。人間は、なかなか人を斬れないと思う。みずからの手で人を殺すには何か異常な力が要る、もしくは何か正常な抑止力が欠けている、そんな気がするのは、私だけだろうか。もし古代の人々も同様に感じたとすれば、殺人者を、人々は恐怖することはあっても敬愛するだろうか。

 入鹿謀殺の直後に、皇極女帝が前例のない「譲位」を中大兄に申し出た。女帝は「入鹿謀殺事件は、中大兄が天皇になるために起こした」と思ったのだ。この時、中大兄は即座にことわったわけではなく、中臣鎌足に相談した。ということは、中大兄は即位したかったのだろうと思う。だが鎌足はまだ若いという理由で反対する。当時、軽皇子は49歳、古人大兄は年齢不詳ながら軽皇子より上と思われるのに対して、中大兄は19歳である。
 即位の話しはまず軽皇子に行った。しかし軽皇子は再三固辞して古人大兄にゆずった。古人大兄もまた座を降り拱手して辞退し、「私は出家して吉野に入ります」と言うと、佩刀(はいとう)を投げ出し、部下全員の刀をはずさせ、法興寺に行き、髪を剃り袈裟をまとった。先日までの振るまいはどこへやら、古人大兄は今や戦々恐々、命を守る工夫に汲々たるのみである。軽皇子はそれ以上辞退できず、即位(孝徳天皇)する(645年)。

 そのわずか3カ月後、吉野の古人大兄が謀反を企てていると訴え出てきた者があった。中大兄はただちに兵を送って古人大兄とその子を討ち、皇子の妃も首をくくったという。訴え出たのは吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)という者で、自分も謀反の仲間だったと自首したのだったが、彼は罪を許されて功田二十町を賜ったという。そんないきさつから見ると、この謀反劇はおそらく中大兄の謀略であろう。
余談ながら、「謀反の疑いを避けるために出家して吉野に入る」という筋書きは、壬申の乱前夜、大海人皇子が踏襲する。

 さて中大兄皇子の次なる標的は蘇我石川麻呂だった。蘇我石川麻呂といえば、あの乙巳の変の冒頭に、娘を中大兄に嫁がせて婚姻関係を結んだ蘇我氏の傍流であり、入鹿謀殺劇では三韓の上表文を読みあげる役を果たした。大化新政権では右大臣としてナンバー2の地位を占めた。ナンバー1である左大臣阿倍内麻呂が649年3月に亡くなると、その1週間後に蘇我石川麻呂を讒言するものがあり、中大兄は兵を差し向けた。石川麻呂は飛鳥へ逃げ、息子の営む山田寺に入って自殺する。この事件については、中大兄はすぐに冤罪と知って後悔したことになっている。朝廷人事としては、ここで一気に左右大臣が交代しており、しかも中臣鎌足は内臣(うちつおみ)のままなので、この事件は鎌足も共犯だという説もあるが、私は根拠薄弱だと思う。「書紀」の言うとおり、中大兄が軽率に讒言を信じた結果の惨劇だったのか、陰謀だったのか、いずれにせよひどい話である。

 孝徳天皇の晩年、難波の都に天皇を置き去りにする事件が起こっている(653年)。このとき百官・皇族たち、みな中大兄皇子に従って飛鳥に帰ったというが、みんな中大兄が怖かったのではないかと思う。

 翌654年に孝徳天皇は亡くなり、さて次はまさに本命、中大兄皇子の即位と思うのだが、そうはならなかった。中大兄は28歳の男盛り、もう若いとは言わせまい。それなのに何故か。中大兄は、皇太子・摂政として存分に腕をふるいたかったからだというのが常識のようだが、冒頭にも言ったように、そんなばかな、天皇の方がよほど自由に腕をふるえるはず、というのが私の主張で、ここはやはり天皇になれなかったのだと思う。鎌足が反対したのだと思う。なぜか。第一に、人望がなかったからである。第二にライバルがいたからである。ライバルとの後継者争いを避けたいときにはどうするか。誰にも異存のない女帝を立てて暫定天皇とするのである。それが重祚した斉明女帝(655年)である。

 ではそのライバルとは誰だったのか。のちに起こる有間皇子事件から逆のぼって推理すれば、孝徳天皇の遺児有間皇子がライバルだったのだろうか。私は、それはないと思う。なぜなら有間はこのとき15歳で若すぎるし、孝徳天皇難波置き去り事件に見るように、有間を押す勢力があったとは思えないからである。別にもうひとり、真の意味でのライバルがいたと思う。それが誰かはさておき、中大兄はその3年後、18歳に成長した有間皇子を謀反の罪で死刑とする(658年)。このままゆくとライバルに成長すると猜疑したのだろう。有間皇子は狂気をよそおってまで、自分が天皇母子にとって無害な存在だと訴えていたのに。
 ライバルとも思えないほど弱い相手でさえ抹殺した中大兄なら、もうひとりのライバルも抹殺すればいいではないかと思われるだろう。だが、さすがにそれはできなかった。なぜならそのもう一人の真のライバルとは、母を同じくする実の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)だったから。
 大海人皇子がこの時点ですでに実力者であったという証拠はないが、ただ一つあげれば、孝徳天皇難波置き去り事件の記述である。難波に天皇を置いて、中大兄が「皇祖母尊(皇極上皇)・間人皇后を奉り、あわせて皇弟(大海人皇子)等をひきいて」飛鳥へ帰ると、公卿大夫や百官の人々もこれに従った、と書いてある。皇太子と天皇が対立したとき、前天皇・皇后がどちらと行動を共にしたかは重要であるが、しかし皇太子の弟がどうしたかはさほど重要ではあるまい。なのに「皇弟」も同行したと書いているのは、「皇弟」の去就がかなり影響力を持っていたからではないか。
 さらに、翌年、天皇が難波で病気になられたときも、「皇祖母尊・間人皇后を奉り、あわせて皇弟・公卿等をひきいて」お見舞いに行ったと書いていて、やはり「皇弟」を加えている。これも同じく、大海人皇子の行動が注目されていたからだと思う。
 さて、ついに斉明天皇崩御(661年)を迎える。やはり中大兄は即位できなかった。第一に人望がない。第二にライバル大海人皇子の人望はますます高くなっていたから。ちなみにこのとき中大兄は35歳、弟の大海人は(生年不詳ながら631年説を採れば)30歳、いずれも男盛りである。
 結果は中大兄の「称制」という非常事態体制で落ち着く。皇太子が天皇代行となるのである。この体制で6年余が過ぎる。この間、おそらく中臣鎌足が二人の後見役として、争いの起こらぬよう目配りしていたのではないか。そして鎌足はみずからの健康に不安の生じた668年、決断する。大海人皇子と彼を推す勢力に対して、「ここは兄である中大兄皇子の即位を認めてやれ。その代わり、大海人皇子東宮に立てることで次期天皇の座を約束する」と説得したのであろう。かくして天智天皇、大海人皇太弟が実現する。それが鎌足の最後の大仕事だった。翌669年、鎌足は亡くなる。
 だが、鎌足という重しがとれるや、天智天皇の迷走が始まる。671年、わが子、大友皇子太政大臣とし、露骨に皇位を継がせたいという意志をあらわにする。
 古代史上、最大の内戦、壬申の乱へと歴史の歯車は回転してゆくのである。(了)

 注=私は関西大学の有坂隆道先生から、中大兄皇子は大人物ではないという説をよくお聞きしていた。御説の具体的な内容について明確な記憶はないが、ここに書いたことはほとんど有坂説の受け売りになっているだろうと思う。ただここに専門家の方がみておかしなことが書いてあったら、それは私のミスである。