【感動日本史】 阿修羅幻想

法隆寺に「橘夫人念持仏(たちばなぶにんねんじぶつ)」という仏像がある。
大きな厨子(ずし)に入った阿弥陀三尊像だが、像自体は高さ30㎝ほどの小さなもので、いかにも女人が身辺に置いた念持仏にふさわしい愛らしさである。とは言え、「伝」の文字がついているとおり、橘夫人のものだったというのは伝承にすぎず、そう言われ始めたのは鎌倉時代以来で、それ以前の由来は不明だという。だが、橘夫人は熱心な仏教徒だったし、法隆寺にもご縁が深いから、この伝承も故無しとしない。
橘夫人とは、あの県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)のことで、元明(げんめい)女帝に仕えた命婦(みょうぶ)にして藤原不比等の妻、光明皇后の生みの母である。
光明皇后はもと安宿媛(あすかべひめ)と呼ばれた。幼いころから、朝夕、母が仏像を拝む姿を見て育ったから、媛もまた敬虔な仏徒となった。
この母が亡くなったのは安宿媛が33歳のときであった。その時、安宿媛はすでに聖武天皇の皇后という権力者だったので、母の菩提をとむらう一周忌にあたって、興福寺にお堂を建てることにした。興福寺には父の不比等が建てた金堂のほかに、その後、夫の聖武天皇が建てた東金堂(とうこんどう)があったので、彼女は西金堂(さいこんどう)を建てた。
翌年の天平6年(734)正月、西金堂は新築なり、皇后は僧たちにつづいてお堂に足を踏み入れた。お堂の中央にはご本尊の釈迦如来像が祀られ、その左右にさまざまな仏たちが安置されている。皇后はその仏たちの前にいちいち立ちどまり、お顔を拝し、合掌、瞑目して南無仏と唱えてゆかれた。
彼女が初めて子どもに恵まれたのは、嫁して2年ののち、18歳のときで、生まれたのは女の子だった。阿倍内親王(あべないしんのう)である。その後、9年を経て、皇后が27歳のとき、ようやく男児に恵まれた。聖武天皇はじめ天皇家の人々も藤原氏一族も、こぞって安堵の胸をなでおろした。これで皇統は平穏につながってゆく、と。男の子は基王(もといおう)と名づけられ、わずか2カ月で皇太子に立てられた。異常としか言いようがないが、ことほどさように期待が大きかったということである。ところが翌年、1歳にも満たないこの赤ん坊は、あっというまに亡くなってしまう。人びとの落胆は推して知るべしだが、誰よりも深く悲しみ、傷ついたのはひとりの母としての皇后だったに違いない。
 つと皇后の視線がひとつの仏像に釘づけになり、歩みを止めて立ち尽くした。それから前後の仏像を見くらべるように視線を動かす。八部衆のうち沙羯羅(さから)、五部浄(ごぶじょう)、そして阿修羅などの顔を見つめている。それらは少年ないし青年の顔だった。見返せば、お釈迦さまの十大弟子たちの中にも羅睺羅(らごら)や須菩提(すぼだい)のお顔は若い。しかも、この子たちはみんな眉を寄せて憂いに満ちた表情で、必死に何かを訴えかけてくる。見るほどに息苦しくなって、思わず「どうしたの?」と、こころの中でそう問いかけると、抱きしめたい思いに駆られて、皇后の目はうるんだ。
 
 というのが、私の幻想である。


 この幻想は、ある疑問から発している。どうしてこんな像がつくられたのかという疑問である。古来さまざまな仏像があるが、聖徳太子や誕生釈迦像など人間を写したものを除いて、想像上の仏たちを少年・青年の顔や姿につくる例はなく、興福寺のこれら諸像は例外である。なぜ、こんな像をつくったのだろう。
 仏像の作者は仏師将軍という肩書きを持つ万福(まんぷく)と、画師(えし)の秦牛養(はたのうしかい)であるという。ふたりは、皇后に感動してもらおうと思ったのだろう。そこで、仰ぎ見て拝する像ではなく、思わず手を触れたくなるような親しみある像をつくったのだろう。
 そこで私が思いついたのは、1歳足らずで亡くなった基王のことである。仏師たちはあどけない少年像を皇后にお見せして、基王を偲んで感動してもらおうとしたのではないか、と。私がそう考えてから1〜2年になるが、どうも我ながらいまひとつ腑に落ちないのである。なぜなら、基王の誕生は727年秋で、西金堂ができた734年正月には、生きていれば6歳であり、それに対して、阿修羅をはじめとする興福寺の諸像は幼く見つもっても10歳からで、上は16、7歳と見えるから、年齢が合わないのである。
 最近、ふと思いついたのは、皇后のもうひとりのお子さんである阿倍内親王である。718年に生まれているから、734年正月には15歳、これなら阿修羅など諸像の年齢にぴったりだろう。いや、あれは少年ではないかと反論されるかも知れない。私もそう思い込んでいたのだから。だが、それは重大な思い違いである。つまり、仏像は男性でもなく、女性でもない。人間の形につくられているけれども、男女という性別を超えた抽象的存在なのである。そんな当たり前のことをつい錯覚していたのである。(むろんこれは阿修羅など八部衆のことで、十大弟子は人間だから男性である。)
 阿倍内親王を念頭につくられたとすると、私の幻想は、こう書きかえた方がいいかもしれない。
 「諸像の前で立ちどまった皇后は、ゆっくりとうしろを振り返った。そして後に従っていた阿倍内親王と目が合うと、ふたりはにっこりとほほえみを交わしあった。」
 長じて阿倍内親王もまた熱心な仏教徒となられた。のちの孝謙天皇重祚して称徳天皇である。
                                     了