大化の改新


むかしは「大化の改新、むし5ひき(645年)」などと暗記して、645年の入鹿謀殺によって改新の幕が切って落とされ、翌年、「改新の詔(みことのり)」が発表されて新政策が打ち出された、と教わってきたものですが、最近はそう単純にはいかず、話しがややこしくなっておるようです。
 最大の問題は「改新の詔」で、これは後世の作文だろうということになり、「大化の改新はなかった」と極論する学説まで出た。
「改新の詔」の最初は「公地公民制」で、王族や豪族たちに私有地・私有民を持つことを禁止したもの。第2に、京師(けいし)、畿内、国・郡・里という地方行政単位を定めた。第3に、戸籍・計帳(里、郡、国ごとに税を集計した帳簿)をつくり、班田収受法を実施した。第4に、それまでの税制を廃止して、新税制にあらためた。
 まだまだ続くのだが、これらは一つだけでもきわめて革命的な施策で、これらすべてを一挙に計画し発表したなどとはとても思えない。ましてやその実行となると、たとえば戸籍が実際にできたのは「庚午年籍(こうごねんじゃく)」で、670年、「改新の詔」からざっと24年経っている。

 
 「改新の詔」の真偽論争の中で、もっともドラマティックだったのは「郡評(ぐんぴょう)論争」である。それは「改新の詔」の第2番目の「国・郡・里」に関することで、東大の井上光貞先生が提起された(1951年)。要点はこうである。
 「郡」は「こおり」と読むが、この時期(646年)の金石文など「書紀」以外の史料では「こおり」を「評」と書いている。だから「改新の詔」に「郡」と書いてあるのは、「書紀」編纂時(720年完成)の「こおり=郡」を当てはめたものではないか、と。もしそうならば「改新の詔」は後世の偽作だという話しにも広がりかねないと考えられた。
 これに反論したのが、同じ東大の坂本太郎教授、すなわち井上光貞先生の恩師である。天下の東大で師と弟子が論争を始めたのだから、学界は手を叩いて喜んだ。ただこれは私情を抜きにした純学問上の論争であるから、すがすがしい話である。むろん論争は二人の間で交わされただけでなく、多くの学者が参加した。
 えてして論争というものには明確な結論が出ない場合が多いのだが、このケースでは明快なジャッジが下された。藤原宮遺跡から出土した木簡を整理した結果、「大宝律令」(701年)以前の木簡には「評」と書かれていた。たとえば「己亥年(699)十月」の木簡に書かれた「上挟国阿波評松里」の「評」、あるいは「庚子年(700)四月」の木簡に書かれた「若佐国小丹評木ツ里」の「評」のごとしである。これに対して「大宝律令」の翌年にあたる「大宝二年」と書かれた木簡の裏に「尾治国知多郡」と「郡」と書かれている。だから「大宝律令」によって「評」が「郡」に変更されたと考えられ、ゆえに井上光貞先生の勝ちとなった。木簡のすごみはここにある。多くの考古資料では絶対年代がわからないのに対して、木簡は年代が明記してあるのだから、文句のつけようがない。
 この論争全体を関西大学薗田香融先生が簡単に総括されているが、それを私流に俗っぽく表現すると、「評」と書こうと「郡」と書こうと、「こおり」の実態は存在していたのだから、「書紀」編纂時点で「評」という文字を機械的に過去にさかのぼって「郡」と書き直したということがわかっただけのことで、それがどうした、というのである。つまり、一字の違いが、「改新の詔」の真偽に関わるというので、大論争になったけれど、それとは関係ないでしょう、ということである。泰山鳴動ネズミ一匹である。しかしいまだに「郡評論争」が「改新の詔」の真偽を決定づけたように誤解されているようだ。


 ところで「改新の詔」はまったく架空の作文かというと、そんなことはない。少なくとも「改新の詔」のもとになった「原詔」はあっただろうし、たとえば税制改革など、いくつかの改革は確かに実行されている。
 いまでは、645年に入鹿が殺された政変を「乙巳(いっし)の変」と呼び、「大化の改新」という言葉はそのあとの政治改革を指す。その改革の内容は縷々のべてきたように、さまざまな注釈つきとなり、話がややこしくなっているのである。
 付記すると、「推古朝の改革」は大和朝廷の改革であり、地域で言えば畿内を中心とした改革であったのに対して、「大化の改新」は全国規模の改革であった。また「推古朝の改革」が官人など上層階級の改革だったのに対して、「大化の改新」は庶民層まで広がる改革だった。(了)