推古朝の改革

推古朝は画期的な時代だった。律令体制という、当時における中国的先進国への脱皮は「大化の改新」から始まったと思われがちだが、実はそれより半世紀前、この推古朝の改革からスタートしたのである。
603年10月、小墾田宮(おはりたのみや)に遷宮する。小墾田宮は、長方形の宮全体が塀で囲まれ、「南門」を入ると諸大夫が勤務する「庁」と「朝庭」が広がる政治的空間があり、その北の「北門」を経て、女帝の住まう「大殿」が置かれたと言う。つまり、のちの朝堂院や大極殿や内裏の原型である。それまでの宮が単なる天皇の住まいだったのに対して、政治の場としての宮が出現したのである。
そして小墾田宮遷宮の翌11月、「大楯(おおたて)、靫(ゆき)を作り、旗幟(はた)に彩色した」とある。これは遷宮の儀式であろうが、その主語は「皇太子、天皇に請(もう)したまひて」とあって聖徳太子の発案である。
 さらにその翌12月には「冠位十二階」を施行している。ただしこれは聖徳太子の主導とは書いてなく、誰が推進したのかはわからない。「冠位十二階」というのは中国をはじめ高句麗百済の制度にならったもので、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼など十二の位をつくり、それぞれに対応する色の冠を定めたのである。それを形式ないし儀式の整備ととらえて、中国や朝鮮半島諸国の先進国際社会の一員になるために体裁を整えたという理解もあるようだが、そんな簡単なことではない。まず「始めて冠位を行ふ」とあるように、これはその後ながく日本史を通じて行われ続ける位階制度のさきがけなのである。しかももっと大事なことは、功によって進級できることと、一代限りであることである。古い氏姓(しせい)制度においては、例えば大伴氏が連(むらじ)という姓(かばね)を受ければ、大伴連(おおとものむらじ)という名称と職掌(朝廷における仕事)は世襲されるものだった。それと比べれば「冠位十二階」がいかに革命的か理解できよう。そして翌604年1月、実際に諸臣に冠位を与えている。
 ついで同じ604年4月の「十七条憲法」である。明治になって「constitution」の訳語として、この「憲法」の語が当てられたため、その概念が誤解されやすいが、「十七条憲法」は朝廷の役人に対する服務規程ないしは心得といった性格のものであって、近代憲法のように国民全体に公布されたものではない。「なんだ、官吏の服務規程か」と過小評価されそうだが、その前に、当時の「官吏」とは何かを考えてもらいたい。つまり朝廷には、畿内近距離から、あるいは地方からはるばる上京して滞在した豪族たち、あるいは大王(おおきみ)直属の伴造(とものみやつこ)、そして彼らに従属する部民(べのたみ)などが働いていたが、彼らはまだ朝廷の「官吏」ではなく、豪族たちに従属する人々にすぎない。「冠位十二階」で彼らを考課し、一元的に序列化するとともに、「十七条憲法」という服務規程を遵守させる、つまりは「朝廷の官吏」に編成し直そうとしたのである。もっと言えば「官吏」を「創ろうとした」のである。
 この「憲法十七条」については、「皇太子、親(みづか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」と、聖徳太子の作であることと、「はじめて」であることを強調している。つまりそれまで「法」は存在していたが、文章化された成文法は存在しなかったのである。
聖徳太子は、当時の中国をはじめとする先進諸国にならい、法によって統治される法治国家をめざした。のちの律令国家のさきがけである。しかも太子の発想はそれだけにとどまらなかった。法の基礎には、法を支える哲学が必要であることも知っていた。太子はその哲学、道徳律を仏教に求めたのである。こうして憲法十七条がつくられた。「和をもって貴(とうとし)となす」という第一条につづく第二条には「あつく三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」と書いたあと、「三宝に帰せずば何をもってか枉(まが)れるを直さむ」と、悪を正す「法」の根底には仏教があることを明言している。

 ところで、聖徳太子は日本史上もっとも理想的な人物と見られてきた。それはこの推古朝を、摂政として天皇に代わって主導した人物とされてきたためである。それは「万機を総摂して、天皇事(みかどわざ)したまふ」とか、「録摂政」(まつりごとふさねつかさどらしめ)、「万機をもってことごとくに委ぬ」などと『日本書紀』に書かれているからである。ここから推古朝の政治をすべて聖徳太子の事績とみなして崇拝する風があった。その順風がいまや逆風に転じて、聖徳太子という名前の否定から始まって、『三経義疏』も太子の作ではない等々、ついには「聖徳太子はいなかった」と、奇をてらった表現で大衆を驚かせる本まで出現している。(『日本書紀』では聖徳太子ではなく厩戸皇子〔うまやどのみこ〕である)。
 確かに『日本書紀』の編者は、聖徳太子をずいぶん持ち上げて記述している。「書紀」を読んでいると、「そんなに立派な方が、どうして天皇になれなかったの?」と言いたくなってくる。また聖徳太子の個々の事績に対する疑問は昔から学者のあいだで一つ一つ問題提起され論議されてきたことで、今ごろ何を騒いでいるのかとも思う。
 しかし「書紀」に政治面での太子の事績と名指しされているのは、上記のとおり「小墾田宮遷都の儀式」と「十七条憲法」で、そのほかは仏教の保護・振興に関するものである。例えば新羅任那の戦争のときには「天皇任那を救はむと欲す」と、天皇の主導であることを明記してある。もちろん誰の事績とも書いてない施策(たとえば遣隋使など外交交渉)も多く、それらは合議によったと思われる。
 付言すれば、外交政策の転換も改革のひとつである。「倭の五王」の時代以来ざっと100年間も途絶していた中国との交渉を再開したことが、まず最大の方針転換であり、しかも「倭の五王」時代に行なっていた官号請求を放棄した。たとえば以前は「使持節都督」とか「六国諸軍事安東大将軍」といった官号を中国の皇帝からもらって、それはつまり中国皇帝を中心とする冊封体制に服属することを意味したのだが、そこから離脱した。外交関係を断てば離脱したことになっていたのだが、外交を再開するけれども冊封体制には入らない、という新方針、換言すれば、朝貢はするが臣従はしない独立国たらんという新方針を、中国に認めさせようとしたのである。
 話しを聖徳太子にもどすと、もしも聖徳太子を過小評価する説を認めると、この時代の画期的な諸改革を断行したのは、大臣蘇我馬子だったことになる。むろん「書紀」には馬子もよく登場するが、独裁者だったとも読めない。
 聖徳太子が摂政としてすべてを取り仕切ったというのは褒めすぎだと思うが、『日本書紀』を読むときに、そういう抽象的褒め言葉を削除して、具体的施策の発案者・実行者を読みとってゆけば、女帝推古、摂政聖徳太子、大臣蘇我馬子の三人がリードする三頭政治だったと読めるのではないか。(了)