継体天皇の謎


 
 継体天皇も謎の多い天皇である。
 暴虐で悪名高い武烈天皇(第25代)が跡継ぎのないまま若死にしてしまうと、大伴金村(おおとものかなむら)の主導で、はるばる越前の国から迎えられたのが継体天皇(第26代)である。応神天皇五世の孫という。まずこれが疑わしい。本当に天皇家の血筋をひいているのか、と。
 越前からやってきて、なぜか樟葉宮(くずはのみや・大阪府枚方市)で即位したという。樟葉は淀川左岸、大阪府京都府の境目に位置する。それから筒城宮(つつきのみや・京都府京田辺市)、弟国宮(おとくにのみや・京都府長岡京市)と遷って、かれこれ20年ほど経ってから大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや・奈良県桜井市橿原市)に入った。なぜすぐに大和に入らなかったのかというのが、ふたつ目の謎で、大和に反対勢力があったためだろうと言われている。過激な説では、継体天皇はそれまでの大和朝廷を武力征服した新王朝の始祖であろうという。
 継体天皇の死についても謎が多い。まず亡くなった年だが、『日本書紀』は531年に亡くなったと記し、次のような注釈を入れている。
  「或る本には、天皇は534年に亡くなったと書いてあるが、ここで531 年としたのは     『百済本記』に拠ったからである。」
 そこまではよいが、『書紀』は、そのあとの(第27代)安閑天皇「元年」の条に、この年(元年)は「甲寅」(=534年)である、と書いている。ということは、継体天皇は531年に亡くなり、つぎの安閑天皇は534年に即位したことになって、まる2年間は天皇がいなかったことになる。
 では『古事記』は、といえば、これら二説よりももっと早く、継体天皇は527年に亡くなったとする。つごう3つの説が存在するのである。
 しかも先の『書紀』注釈には、奇妙なことが書いてある。『百済本記』というのは朝鮮の史書だが、「日本の天皇と皇太子と皇子が同時に亡くなったそうだ」とある。「それは殺されたのでしょう」という説が出てくるのも、無理はない。
 「安閑紀」の最初のところには、「継体天皇は勾大兄(まがりのおおえ)を立てて天皇(安閑)とし、即日、亡くなった」と記していて、亡くなる寸前に譲位したというのだ。これも変な話で、普通は皇太子を定めるものなのに、いきなり天皇にしたという。こんなところからも暗殺説が出てくるわけだ。
 継体天皇のあと、「記紀」による天皇の系譜は、安閑天皇(第27代)、宣化天皇(第28代)、欽明天皇(第29代)とつづく。ただ安閑天皇の治世は2年、宣化天皇は4年で、いずれも短い。亡くなったときの年齢も安閑天皇が70歳、宣化天皇が73歳という。そして次の欽明天皇は540年に即位したが、「幼年(としわか)く」と書かれている。
 この通り受け取れば、継体天皇のあとは、嫡子、つまり皇后の子である欽明天皇が継ぐのがもっとも自然だったのだが、あまりに若すぎたので、継体天皇と最初の妃の間に生まれた長子と弟が、安閑・宣化両天皇として即位したと受け取れる。
 ところが、である。「記紀」だけでもややこしいのに、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』は、欽明天皇の即位を531年としている。こうなると欽明天皇の即位年は圧倒的に531年説に傾き、つまりは継体天皇崩御(531年)、欽明天皇即位(同年)となり、「記紀」に書かれた安閑天皇宣化天皇のふたりは何なんだ、本当にいたのかということになる。
そこで『百済本紀』の「日本の天皇と皇太子と皇子が同時に亡くなった」という記載をここに持ってきて、亡くなった天皇継体天皇、同時に死んだ皇太子が安閑天皇、皇子が宣化天皇、むろん、3人の死のあと欽明天皇の即位と考えればうまく話しが合う。
 学界では、継体天皇のあと、安閑・宣化両天皇を推す勢力と、欽明天皇を推す勢力が争ったと考える説が、さまざまなバリエーションを伴って提起されてきた(喜田貞吉ほか)。両朝が並立して内乱があったとか、安閑天皇はいたが宣化天皇はいなかったとか。しかし所詮、推理であって決定的な正解はありえない。ただ、これらの議論の中から、大和朝廷の中枢で活躍した中央豪族たちの力関係の変化がクローズアップされた(林屋辰三郎先生)。
 ではその豪族たちの権力の浮沈をながめてみよう。
 まずは大伴金村である。彼は豪族平群氏を征討して武烈天皇を擁立し、大連(おおむらじ)となった。さらに武烈天皇崩御後の後継者探しの中心人物となり、継体天皇を擁立した。この金村と歩調を合わせていたのが物部麁鹿火(もののべのあらかひ=大連)で、筑紫の豪族磐井の反乱(527年)を征討したのも彼だった。
 つぎの安閑天皇は、即位直後に大伴金村物部麁鹿火のふたりを「もとのごとく」大連としている。つぎの宣化天皇も同様であるが、ただし蘇我稲目(そがのいなめ)を大臣(おおおみ)として格上げしている。蘇我氏はこのあと馬子、蝦夷、入鹿とつづいて権力を肥大させてゆくわけで、その橋頭堡を築いたのが稲目である。
 ところが欽明天皇に至って、政変が起こる。
 欽明朝もまた大伴・物部・蘇我の体制でスタートする。欽明元年9月、天皇は難波に行幸新羅征討について重臣たちに諮問したが、このとき、大伴金村は住吉(すみのえ)の家に居て病と称して出仕しなかった。理由は、かつて百済の望んだ任那4県を金村があっさり譲ってやったが、これが失敗だったと群臣たちから批判されたというのである。これを限りに、金村は『書紀』から姿を消す。だが、4県割譲は継体朝のことで、30年近くも前である。その責任を今ごろ蒸し返したのか、と腑に落ちない気もする。
 その直後、欽明天皇は、蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を妃としている。このふたりから、のちの用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)と3人の天皇が生まれるのだから、蘇我氏が有頂天になるのも無理はない。
 この経緯を政争と見て、継体天皇を担ぎ出した大伴金村は、つぎに安閑・宣化天皇を担いだが、一方、蘇我稲目欽明天皇を担いだので、ここに二つの朝廷が並立・抗争したとするのである。
 そうかも知れないし、違うかも知れない。それよりも私は、特に継体天皇を越前から迎えるいきさつを読むと、日本の天皇の在り方を今さらのように再確認する。つまり、日本では天皇は群臣たちに担がれて即位するのである。群雄割拠の中から最も強かった覇者が「王」となる諸外国とは違うのだ。そしてその伝統は、天皇の初まりとともにあったのだ。すなわち倭の女王卑弥呼は「共に一女子を立てて王と為す」、その結果としての女王なのであり、大王は「共立」されるのが本来の姿だったのである。(了)