仁徳天皇高津宮

 高津宮址碑
 
 ある時、仁徳天皇が高台にのぼって眺めると、家々から煙が立っていない。民はかまどでの煮炊きにも事欠いていると察した天皇は、それから三年間、労役を免除した。その間、天皇は衣類も新調せず、住まいが荒れて、雨が漏り、すきま風が吹き込んでも修理させなかった。こうして三年が経ったのち、高台から眺めると炊事の煙があちこちの家からあがっていた。
 天皇は「朕(われ)、すでに富めり」と言われた。皇后が「垣がこわれ、天井も雨漏りし、衣服もほころびているのに、どうして富んでいるとおっしゃるのですか」と問うと「主君というものは人民を一番たいせつに考えなければならない。人民が貧しければ私が貧しいのであり、人民が豊かなら私が豊かなのだ」と言われた。
 いいお話しではございませんか。これぞ聖王、さすが「仁徳天皇」の名にふさわしい話しである。
 戦前の教科書では、慈愛あふれる天皇像として子どもの教育に使われた話だが、ご多分に漏れず、いまではこれは中国の儒教的理想に適う天皇像を創作したにすぎないとして、史実と認められていない。
 ではなぜ、そんな話しを「記紀」の編者は創作する必要があったか。それは王朝の創始者は聖人君子で、王朝を滅ぼす最後の皇帝は極悪非道な暴君だという、これまた中国的史観にのっとった結果だという。もし、そうだとすると仁徳天皇(第16代)が王朝の創始者で、武烈天皇(第25代)が王朝最後の暴君という役割を演じていることになり、つづく継体天皇(第26代)が次の新王朝の創始者になる。王朝かどうかはともかくとして、私としては、神功皇后応神天皇仁徳天皇あたりが新しい系図の初めに位置し、武烈天皇でこの系図が終わることに異存はなく、前者を「応神系」とし、後者を「継体系」と名づけたい。
 
 ところで冒頭のエピソードにもどるが、仮りに天皇が民のかまどの煙を実際に眺めたとして、それはどこかと言えば、仁徳天皇の宮は難波高津宮(なにわのたかつのみや)だと「記紀」に書かれている。
  いま大阪市天王寺区餌差町に高津(こうづ)高校があり、その校内に「高津宮址」の石碑がある。明治32年に建立されたが、この地を選ぶに際して大阪府は13名の学識経験者に諮問した由である。高津宮の地はむろん上町台地上のどこかであろうとまでは推測できるが、それ以上つきつめて限定できるはずもない。
 大阪市の市歌の最初は「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙」というのである。大正10年に制定され、いまもなおこれが正式の市歌でありつづけている。何とも古めかしい歌詞で、これをいまだに市歌としていることには異論もあるだろうが、私はこのままでいいと思う。高津宮も、難波宮と同じように、あるいはシュリーマンのトロイ発掘のように、絵空ごとと思われていたのに、思いもかけず宮址が発掘されるかもしれないではありませんか。それは半分ジョークだが、「民のかまど」と言われて何のことかわからない人が多くなっている昨今、仁徳天皇の故事を知るきっかけになればいいと思うし、この古めかしさがいつの日かまた流行するかもしれない。
 
 難波に都したのは、仁徳天皇だけではない。その前の応神天皇は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや=奈良県橿原市か)に居たが、難波に行幸したときに大隅宮(おおすみのみや)にも居住している(紀)。どうも応神・仁徳のおふたりの天皇は難波・河内にご縁が深く、御陵も河内にある。
 
 応神天皇大隅宮の所在地と言い伝えているのは大隅神社で、大阪市東淀川区である。先の仁徳天皇の難波高津宮は将来、宮跡を掘り当てる可能性がなくはないが、応神天皇の難波大隅宮はその可能性はほとんどないのではないか。というのは、高津宮は天皇が常在される「常(つね)の宮」だが、大隅宮のほうは旅の途中の行宮(あんぐう)のようで、さほど立派な建物でなかった可能性が強いからである。
 「宮」はもともと「御屋(みや)」で、天皇の居住される家屋の意味だった。神社のことを「宮」と言うが、これも同じく神様の住まいのことで、ひとり(一柱)の神様はひとつの家に住む。天皇も神様と同様、自分の宮に住み、次の天皇も自分の宮を持つ。つまり天皇が代われば宮が代わるのがあたりまえだった。
 宮の所在する地域が「宮処(みやこ)」つまり、のちの「都」である。だから天皇が代わり「宮」が代われば、「宮処」も移るのがあたりまえだった。
 やがて中国の都城制を知ると、「都」は条坊を備えた街でなければならないとわかり、はじめて造られたのが藤原京である。こうなると大土木工事、大建築工事が必要となり、そう簡単に天皇の代替わりごとに遷都するわけにはいかなくなった。それでも簡単に藤原京を捨てて平城京に遷ったのは、天皇の代替わりで「宮処」は代わるものという伝統的認識が生きていたせいもあったのだろう。
 そういうわけで、応神・仁徳天皇の時代は、「都」はまだ都城ではなく「宮処」にすぎなかったから、高津宮といい大隅宮といっても、さほど大規模なものではなかっただろう。(了)