王朝交替説

 戦後の一時期、「王朝交替説」がにぎやかに議論された。1952年に水野祐が言い出した崇神王朝、応神王朝、継体王朝の三王朝説から始まって、その後、葛城王朝、九州王朝、吉備王国や出雲王国などなどである。
 皮切りの水野説にも先達はあり、戦前の津田左右吉記紀批判がベースになっているのはもちろんだが、もっと直接のきっかけは1948年の江上波夫騎馬民族説で、騎馬民族が海を渡ってきて日本を征服して新しい王朝をつくったというのである。
 敗戦によって、「天皇万世一系」という洗脳教育が終わったばかりで、そんな発想は思いもよらなかったし、恐れ多くも天皇家についてそんなことを言ってもいいのかと、衝撃は大きく、これに触発されて○○王朝が続々できたわけである。と、言ってしまうと俗っぽすぎるので付け足すと、日本古代史の学者たちは、それまで日本というフィールドの中でしか発想していなかったので、大陸から日本列島へと地図上に巨大な半弧を描かれると、閉め切った窓を開け放ったような爽快感があり、以来、「東アジアの中の日本史」が流行して現在に至る、という次第である。
 王朝交替という大げさな表現はともかく、天皇家の血筋がどこかで切れかかったことはあったに違いないし、切れてしまった可能性もある。
王朝交替説とはどんなものか、「崇神王朝説」を一例として挙げよう。
日本書紀』を歴史史料として批判的に読むと、天照大神をはじめとする神話は信じられない。第一代神武天皇もそのあとのいわゆる欠史八代も信じられない。第十代崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とたたえられたというから、これが初代天皇ではないか。初代かどうかはさておき、また書かれた内容の虚実もさておき、崇神天皇は最小限、実在したのではないか。と、いうわけだ。
 つづく垂仁天皇(11代)、景行天皇(12代)は纏向(まきむく)に宮を置いた。(ちなみに、ここから纏向遺跡邪馬台国畿内説の拠りどころとなり、箸墓を卑弥呼の墓とする向きもある)。で、ここまでの天皇三輪山周辺に宮を営んだので「崇神王朝」または「三輪王朝」という。
つづく成務天皇(13代)は「書紀」の記述がわずかしかなく、子どももいないというので、甥があとを継いで仲哀天皇(14代)となる。この甥というのが悲劇の英雄「日本武尊」の忘れ形見なのである。日本武尊の物語は感動的だが、その子が天皇になったとなると、それで日本武尊を美化したのかな、などと思えてくる。それはともかく、「仲哀紀」には、夫の仲哀天皇をさしおいて神功皇后がやたら表に出てきて、おしまいには仲哀天皇は九州遠征中に急死してしまう。そして天皇崩御を隠して1年をしのいだのち、神功皇后は摂政となる。しかも天皇は亡くなったが、皇后のおなかにはちゃんとお世継ぎ(15代応神天皇)が残されていた、などと言われると眉にツバをつけたくなる。ましてやこの皇后は大きなおなかを抱えてみずから朝鮮半島に戦争に行くが、着いたとたんに敵はすぐに降参してひれ伏したという。およそありえない話しである。
 というわけで、日本最初の崇神天皇の系譜はその辺で終わっているのではないかと考え、ここまでを「崇神王朝」と呼ぶのである。
 ところで、神功皇后とその子(のちの応神天皇)の母子が畿内に帰ろうとすると、応神天皇の異母兄である二人の王が反乱を起こしたので、これを征討して大和にはいったという。ということは、第十五代応神天皇は新王朝の始祖であろうというわけで、以降を「応神王朝」(あるいは河内王朝)という。
 この王朝は残虐無道な武烈天皇(25代)で血脈が絶え、つぎの「継体王朝」(あるいは近江王朝)につづく。
 以上が三王朝交替説である。
 私は「王朝」という言葉はどぎついので、「崇神系」「応神系」「継体系」くらいにしてはどうかと思っている。最初の「崇神王朝」につづく「応神王朝」「継体王朝」はいずれも反対勢力を武力で滅ぼして天皇の位を勝ち取った征服王朝だという主張なのである。私が「どぎつい」あるいは「大げさ」だと言うのはそこで、征服王朝というと、前王朝の血筋をまったくひかない人間が、武力のみで天皇になったように聞こえる。私は継体天皇はもちろんだが、応神天皇も直系ではないにせよ天皇家との血縁関係はあったと思う。
 
 ところで、この程度の話しは、高校日本史で教えてもいいのではないかと、私は思う。
 いまの高校教科書に最初に登場する天皇は、「倭の五王」にあたる応神・仁徳から履中・反正・允恭・安康・雄略で、しかも系図だけである。つまり中国の『宋書』『梁書』に「讃(賛)・珍(弥)・済・興・武」の五人の倭王がつぎつぎと朝貢してきたとあり、これを『日本書紀』と引き比べるために天皇の名前が出てくるだけで、『日本書紀』が主役ではない。中国の史書にも出てきたので、「応神系」の存在は認めるというだけである。
 確かに中国・朝鮮半島史書金石文の裏づけが出てくるのは「神功紀」からで、そのあたりの記事はだいたい120年古く潤色してあるので、それを勘案すれば実年代に近いだろうと言われている。つまり三王朝交替説の2番目にあたる「応神系」からは認めるが、それ以前の「崇神系」は認めないという見解なのである。
 だがしかし「崇神系」の記述は嘘ばかりで史実が全くない、わけではない。ウソかマコトか吟味してゆくのがおもしろいのであり、先学の推理(学説史)を知るのが楽しいのだということを、教えてほしい。そうでもしないと、邪馬台国のあと「神功紀」までの空白の100年が、いつまで経っても埋まらないじゃないの。
 言い方を変えれば、外国から日本をながめているようなへんてこりんな古代史はやめにして、『日本書紀』を主役とした文脈で、テキストを抜粋して示しながら、こういうところは信用できない、ここらは真実らしい、このエピソードはこういうことを言いたいためなんだ、といった授業をしてほしいということだ。
 もうそろそろ皇国史観アレルギーから脱却して、日本最古の歴史書を正当に評価してもいいのではないか。(了)