ワカタケル大王


 雄略天皇は、若いころ大泊瀬皇子(オオハツセノミコ)といったが、ずいぶん粗暴な振るまいが多く、いとこの娘たちを妃にと申し入れたときも、「(あの方は)つねに暴(あら)く、強(こわ)くまします。たちまちに怒り起こりたまへば、朝にまみゆる者、夕には殺され、夕にまみゆる者、朝には殺さる」、そんな人はイヤと、断られたという。
 兄の安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に殺されるという突発事件が起こると、大泊瀬皇子はもうひとりの兄を斬り殺し、また別の兄が眉輪王とともに葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の宅に逃げ込んだのを火を放って3人とも焼き殺し、さらにいとこにあたる皇子も殺した。これで皇位を争う3人を一掃、事のついでに権勢を誇った葛城円大臣も片づけたことになる。こうして有無を言わさぬ豪腕ぶりで皇位をつかみとった。その後も、妃にしようとした女性が他の男性と一緒になったのを怒り、夫婦とも焼き殺させたとか、馬の世話係を斬ったとか、すぐ人を殺すので、人々は「大悪(はなはだあしくまします)天皇」とののしった。もっともすぐあとで葛城一言主神に敬意を表されてから「有徳(徳まします)天皇」と言われた。
 「雄略紀」を読んでいると、奇妙なデジャヴュ感覚に襲われる。日本武尊(倭建命)に似ているのである。さらにさかのぼって神話の英雄、素戔嗚尊スサノオノミコト)にも似ている。性格が暴力的で残酷なのである。それをむかしは「タケル」と称したようである。
雄略天皇はもともと大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル)天皇という。「幼武」(ワカタケル)は『古事記』では「稚武」となっていて、共にタケルを「武」と表記する。ヤマトタケルは『日本書紀』では「武」、『古事記』では「建」である。スサノオはどうかというと、『古事記』では「建速須佐男」(タケハヤスサノオ)とも表記している。「建」については、たとえば「男建(おたけび)」は「威勢のよい叫び」のことであり、「建ぶ」と動詞にもなり、「猛ぶ」とも書いて「たけだけしく振るまう」ことである。
そういえば倭の五王の上表文で、倭王「武」は雄略天皇にあてられている。雄略天皇を漢字一字で表すと、なるほど「武」にちがいない。その上表文も歯切れよい漢文で、いかにも勇ましい。
「昔より祖禰(そでい)みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処(ねいしょ)にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国」
最後の九十五国は「渡りて海北を」というから日本列島の外として、国内を合計した121カ国とはどういう勘定だろうか。中国向けの単なる大ぼらと見るか、ある程度、根拠のある数字か。私は地方に割拠する豪族の支配地が、そのくらいあったのではないかとも思う。
それはともかく、雄略朝の存在が絶対年代をともなって確実なものとなっている。武の上表文は『宋書』に出ているので478年のこととわかる。
また「雄略紀」5年条には、百済王の子が島で誕生したので「島君」といい、これが長じて武寧王となると書いてあるが、韓国の武寧王陵から出土した墓誌に「斯麻王(しまおう)」とあって、「書紀」の記事を物的に証拠づけした。
きわめつけは埼玉稲荷山古墳出土鉄剣の銘文である。銘文は「辛亥年七月中記す」と始まり、これが471年とわかり、「獲加多支鹵大王」につかえたとあって、これが「ワカタケル」すなわち雄略天皇と確定した。そうなると思い出されるのは熊本の江田船山古墳出土の鉄剣銘文で、これは肝心の大王の名前5文字が読めず、かろうじて読める最初と最後の2文字から反正天皇だろうと推測されていたが、これも「獲□□□鹵」ではないかということになった。反正天皇という解釈を出されていた福山敏男先生も、すぐに雄略天皇でいいと思うと率直に認められて、私は当時すがすがしい印象を受けた。福山先生は京都大学の工学部の先生で建築史がご専門だったが、金石文はじめ古代史にも造詣が深く、両分野での業績は目を見張るものがあった。
2本の鉄剣の銘文によって、雄略朝の日本列島支配は、少なくとも西は熊本から東は埼玉まで及んでいたことが明確になった。
こうしてすべての針が雄略天皇を指すこととなった。
確かに雄略朝は王権の伸長した画期的な時代であった。吉備氏に対してあらゆる圧力をかけて弱体化をはかり屈服させているし、朝鮮半島にも派兵しており、版図の拡大とともに支配の密度も高めた。
古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)、『万葉集』(759年以降)の編者たちも、かえりみて雄略朝は栄光の時代だったと認識していたにちがいない。そのことは『万葉集』の冒頭を飾る最初の歌が、雄略天皇の御製であることからもうかがえる。
そらみつ大和の国は おしなべてわれこそ居れ しきなべてわれこそ座(ま)せ・・・
恋愛の歌ではあるが、この一節はいかにも自信に満ちた天皇の言葉らしくて雄々しい。これを巻頭に置いたのは持統女帝だったかもしれない。

だが、なぜこの時代、雄略天皇があこがれの的だったのだろうか。ここからは素人の床屋談義と思っていただきたいのだが、『万葉集』『古事記』『日本書紀』『風土記』の時代は、天武天皇という偉大なる王者を始祖とする天武系の時代であった。天武天皇亡きあと持統皇后が即位したが、その政権を維持し求心力を維持するためには、亡き夫の偉大さを訴えつづけねばならなかった。つづく文武天皇元明女帝、元正女帝いずれも幼少であったり女性であったりして、力による圧倒的な権力にはなりえず、いずれも拠って立つ力の源泉は天武天皇の血筋だけであり、さればこそ天武天皇の偉大さをやはり訴えつづけねばならなかった。
では天武天皇の偉大さとは何か。それは究極のところ、古代史上最大の戦争といわれる壬申の乱を制した覇者であることだ。「戦う天皇」であり「武の天皇」だったことだ。
 そういう目で「記紀」を見たとき、雄略天皇の人格・業績は憧憬に値しただろう。そして素戔嗚尊日本武尊雄略天皇とつらなる「武」の系譜を受け継いだのが天武天皇だと暗に言いたい気分があったのではないか。その後「武」の系譜は「文武」「聖武」と受け継がれてゆくが、「武」の名にふさわしい事績を残した天皇は、「桓武天皇を待たねばならなかった。(了)