八代の系図

 埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文は、「辛亥年(471年)七月中記す」と、記した年月日から始まり、そのあとは人名が列挙される系図となっている。
 その最初の人物は「オワケノオミ(むろん原文はすべて漢字)」で、この人が鉄剣をつくらせた主人公である。それから系図の一番最初にさかのぼって「上祖(かみつおや)、名はオホヒコ」と一族の始祖(はじめのおや)の名を記す。それ以降は、2代目、3代目と下ってゆき、「その児、タカリノスクネ、その児、名はテイカリワケ、その児、名はタカハシワケ」というぐあいである。そして最後は「その児、名はオワケノオミ」と最初に登場した主人公が出てきて、系図の部分は終わる。これらの名前を勘定すると合計8人である。
 系図のあとには「世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(おびと)として、つかえまつり来たりて今に至り、ワカタケル大王の寺、斯鬼宮(しきのみや)にあるとき、われ天下を左治す」と誇らしげに語る。これが一番、言いたかったことなのである。締めくくりは「この百錬の利刀を作らしめ、わが、つかえまつる根原を記すなり」と結んでいる。
 この終わりの部分を読むと、自分が「ワカタケル大王につかえて天下を左治」したことを誇りたいだけではないことがわかる。家系の最初から「世々」杖刀人(近衛兵のような役だろうか)の頭として、歴代天皇につかえてきたことを誇り、それが自分の職掌の根源なのだと言っているのだ。
 私がここでくりかえし強調したいのは、「世々」の2文字である。自分ひとりでなく、代々、杖刀人の頭として歴代の大王につかえてきたと言っていることだ。
 主人公であるオワケノオミは、ワカタケル大王すなわち雄略天皇につかえたという。それでは、この一族の始祖は、天皇の名前でさかのぼって、いったいどの天皇からつかえてきたのかを考えてみよう、というのが本稿の主旨である。もちろん正確な答えは分かるはずもなく、アバウトな答えしか期待できないのは承知のうえである。
 オワケノオミの家系はきわめて単純で、つねに「その児」とくりかえされている。ということは、必ず親から子へと直系でつながっていて、兄から弟、あるいは甥といった傍系に流れることはない。だから数えて8人ということは、即、8世代ということになる。と言うことは、一族の始祖がどの天皇につかえたかを探すには、雄略天皇(21代)から8代さかのぼった14代目の天皇でいいかと言うと、そうはいかない。
 実際に、雄略天皇から皇統譜をさかのぼってみよう。
 雄略天皇の前は安康天皇(20代)だが、ふたりは兄弟である。そこで、このふたり合わせて1世代と考えたい。これが1世代目である。
 その前の允恭天皇(19代)は、雄略・安康兄弟の父だから、さかのぼること2世代目となる。ただ、その前の反正天皇(18代)と履中天皇(17代)は允恭天皇とやはり兄弟だから、3人で1世代であり、ここまでが2世代目となる。
 彼らの父が仁徳天皇(16代)で3世代目、その父が応神天皇(15代)で4世代目になる。
 応神天皇の父は仲哀天皇(14代)で母が神功皇后だが、この仲哀天皇とその前の成務天皇(13代)は、実在したかどうか疑わしいと言われている(直木孝次郎先生など)ので、思いきってはずしましょう。
 すると景行天皇(12代)が5世代目、垂仁天皇(11代)が6世代目、崇神天皇(10代)が7世代目、開化天皇(9代)が8世代目にあたる。
 結論が出ました。「上祖(かみつおや)」である「オホヒコ」は、オワケノオミよりさかのぼること8世代目だから、オホヒコがつかえた天皇は、皇統譜をアバウト8世代さかのぼった開化天皇前後だろうというのが、私の結論です。
 ところがここに、不思議な事実がある。それは、まさにその開化天皇の兄の名前が「大彦命(おおびこのみこと)」であり、これが鉄剣銘系図の上祖「オホビコ」と一致することである。
 大彦命天皇の兄でり、しかもその娘の御間城(みまき)姫は、つぎの崇神天皇の皇后になっている(いとこ同士婚)。大彦一族は、徳川家で言えば、御三家のような存在だったのである。
 しかも彼は、血筋のみではなく、政治的・軍事的にもトップクラスの重要人物だった。崇神天皇が4人の重臣におのおの北陸道東海道山陽道山陰道への遠征を命じたとき、大彦はその「四道将軍」の筆頭として北陸道将軍を命じられているのである。しかも遠征に出発した直後、武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を見抜いて、大手柄を立てている。
 そして大彦は「阿倍臣、膳(かしわで)臣、阿閉(あへ)臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、すべて七族が始祖なり」という。大彦一族の子孫は大いに繁栄したのであり、「我らが始祖は大彦である」と称した一族は多かったのである。
 以上は所詮、素人の床屋談義にすぎないもので、笑ってお聞きいただきたい。
 
 私が言いたいのは、日本古代の王朝交替説と天皇の実在・非実在を考えるときに、鉄剣銘の直系8人の系図はきわめて重要だということである。いまのところ崇神系、応神系、継体系の3系譜において、多くの学者は、応神系から実在すると認めていて、その前の崇神系はまだ実在を認めない。学者によっては応神王朝は崇神王朝を滅亡させた征服王朝だという。
 どうしてそんな説が出るかというと、崇神系の最後の方から応神系の始まりのあたりが、どうもあやしいのである。崇神天皇のあとは垂仁天皇景行天皇成務天皇とつづくが、成務天皇の記事はあまりに少なく、后妃もなく子どももない。それで甥があとを継いで仲哀天皇になるが、この人は、あの伝説の英雄「日本武尊」の子だというのである。しかも仲哀天皇は遠征中の九州で急死してしまい、神功皇后が摂政となる。こうして話しはどんどんあやしくなってくるから、成務天皇仲哀天皇は実在しなかったという説が出るし、私もこのふたりの天皇を「思いきってはずしましょう」と言ったのである。
 で、摂政となった神功皇后を補佐したのが、武内宿禰(たけうちのすくね)である。この重臣は先帝の仲哀天皇が大臣(おおおみ)としたが、天皇と同じ日に生まれたので寵愛されたと書いてある。武内宿禰は摂政となった神功皇后を支えて実質、国政を取りしきった。神功皇后の子が応神天皇である。そう言われると、実は、応神天皇神功皇后武内宿禰の子ではないか、などと勘ぐる人も出てくる。
 私の話は、崇神系の最後の方の話を終えて、応神系の始まりに入っているのだが、応神天皇とそれにつづく仁徳天皇についても、疑問が出されていて、それは、『日本書紀』に書かれた応神・仁徳ふたりの天皇の話しは、年代を引き伸ばすために、一人の天皇の事績を二人に分けたのではないか、というのである。その説の可否はともかく、応神・仁徳系の系譜が成立したことはまちがいない。
 以上の経緯をながめて、この応神系は、崇神系が景行天皇で終わったのちに大和を征服した新王朝(河内王朝)ではないかと考える説がある。私は、何も武力で征服したなどと血なまぐさいことを言わなくても、もっとおだやかに、崇神系は血筋がとだえかけたので、遠縁からあとつぎを連れてきたのだろうと思うし、河内王朝とまで言わなくても、大和朝廷が河内に進出したと考えればいいんじゃないかと思う。
 
 話しをもどしましょう。鉄剣銘文によれば、オワケノオミ一族は、上祖オオビコが開化・崇神天皇あたりに仕えたところから始まり、垂仁・景行天皇と、崇神系4代の天皇につかえた。そのあと応神系に移り、応神・仁徳天皇の2代、履中・反正・允恭で1代、安康・雄略天皇で1代、計4代に仕えた。オワケノオミ一族は合計8人にわたって、崇神系、応神系をまたいだざっと11人ほどの天皇に仕えたことになる。
 異論はいくらでもありましょう。ただ、こまかい話しはさておき、私が強調したいのは、もし崇神系が断絶し応神系が征服王朝だと言うなら、オワケノオミ一族の直系8代が「世々」歴代天皇に「杖刀人」としてつかえてきたという鉄剣銘の物語は嘘なのでしょうか。その8代は、崇神系とそれにつづく応神系へと、まさに4代ずつ、またがって継続しているではありませんか。もし仮りに絶滅した王朝から征服した王朝へ、天皇が劇的に替わったとしたら、先の天皇につかえた杖刀人の子がそのまま次の天皇につかえることはありえないだろう。
 景行天皇崩御後の皇位継承は、難航はしただろうが、武内宿禰らの豪族の支えによって何とか応神系へと引き継ぐことができ、そこから再出発し、弱体化していた王権は雄略天皇時代の強盛を迎えたのである。鉄剣銘は、そう証言しているのだと思う。(了)
 注1=以上は、鉄剣銘のオホビコが、『日本書紀』の大彦命と同一人物であるという仮説のうえに成り立っている。だから所詮、床屋談義だとおことわりしているのである。
 注2=関西大学の有坂隆道先生から、私は何度か稲荷山鉄剣銘の話しをお聞きした。8代の系譜を天皇にあてはめるアイデアもお聞きした。ただ、どの天皇をどう勘定するかという具体的内容は、記憶になく、ここに記したのは私の具体論である。なお先生の主要な古代史論は、講談社学術文庫『古代史を解く鍵』にまとまっている。