[感動日本史] 葛城一言主神



 葛城一言主神社


 
  春がすみいよよ濃くなる真昼間(まひるま)の
  なにも見えねば大和と思へ(前川佐美雄)
「春がすみ」とおだやかに歌い出すが、しだいに調子が変わり、下の句では怒涛の如く、一気に激して終わる。この語気はただごとではない。しかし、何が言いたいのかと歌意をさがすが、所詮、不可解であり、この命令形は理不尽にさえ思えてくる。さりとて苦笑して忘れ去ろうとしても、読むものに思索を強いる。
前川佐美雄の弟子であり、佐美雄と同じ大和の歌人である前登志夫はこう解説している。
「この歌が秀れているのは、大和の実景と本質を一言にしてとらえ、同時になにも見えないという覚醒において原郷を見ているのであり・・・」(『山河慟哭』)。
 私たちは、東大寺や大仏を見て、後年の復原なのに、つい天平の実物と錯覚する。では興福寺の阿修羅像は実物ではないかと言われるだろうが、それでも天平の実物とは、たとえば色彩が違う。それらは、いにしえを偲ぶ「よすが」にすぎない。眼前の風物を「よすが」として、おのが「内なる天平」を見ているのである。
 だから、「ふるさと」は存在しない。幼き日々を過ごした真の「ふるさと」はこころの中に「原郷」としてあるだけだ。現在の郷里の実景は、所詮「よすが」でしかない。むろん、そのことになんの不足も感じる必要はない。
 佐美雄のこの歌は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の望郷の歌「大和は国のまほろば・・・」を想起させる。さらに言えば、どちらの歌も、「やまと」を「大和」から「日本」へと置き換えていい。
実見するものが「よすが」にすぎず、所詮、真景は心中にしかないとすれば、私たちは、おのおのの「内なる日本」を、感動に満ちた美しい「原郷」として築きあげたいものだ。


さて、ここでつづりたかったのは、一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城氏のことである。前登志夫は上の文につづけてこう書いている。
大和国原を睥睨(へいげい)して、魑魅魍魎(ちみもうりょう)を従えてうたう、この歌の語気をおもうとき、わたしはいつも佐美雄の郷土の山巓(さんてん)の神、葛城一言主神が佐美雄にのりうつった姿を感じる」。
一言主神は「記紀雄略天皇の段に登場する。
雄略天皇葛城山に登るとき、従う百官の人どもはことごとく青い衣に紅い紐を着していたが、見れば向かいの尾根を同じ服装の行列が登って行く。「この大和に、自分以外に君主はいないのに、あれは誰だ」と天皇が問うと、相手も同じことを言う。天皇は怒って矢をつがえ、従う百官の人どももまた矢をつがえると、相手も一斉に矢をつがえる。山びこか蜃気楼のようである。天皇が「名のらねば射つぞ」と言うと、こう答えた。
「われは悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城(かつらぎ)の一言主の大神(おおかみ)なり」。
天皇は恐れかしこんで、武器や衣服を捧げて拝んだ。一言主神は天皇を宮まで送って行った。というのが一言主神の話しである。
いったい天皇をひざまずかせた一言主神とは何ものか、「悪事も一言、善事も一言、言離の神」とは何のことか、よくわからない。だが、そのきっぱりとした語調と、一言で善悪を定めるという呪言の妖しさは、たしかに佐美雄を連想させる。
 
文学はここまでにして歴史のことだが、さて、天皇ともあろう方が、何ゆえこの神をかくも丁重にもてなしたか。それは一言主神が古代豪族中の雄とも言うべき「葛城氏」の奉祭する神だったからである。
 葛城氏はそもそも葛城襲津彦(そつひこ)から始まる。襲津彦は神功皇后の命により、(というから4世紀後半のことだが)、新羅の国に遣わされ、ひと暴れして帰国した武人である。その葛城氏が強大な権力を手中にする画期は、第一に、襲津彦が豪腕を振るって娘の磐之媛(いわのひめ)を仁徳天皇の皇后とすることに成功したことであろう。これが画期的であるというのは、臣下の身で、つまり皇族でないのに初めて皇后になったからである。だからのちの奈良時代になって、藤原氏光明子立后する際、唯一の前例として正当化の理由にこの磐之媛の例が持ち出される。
それはさておき、第二に、立后のみならずその子どもたちのうち3人が天皇となったことである。履中天皇(第十七代)、反正天皇(第十八代)、允恭天皇(第十九代)である。葛城氏という実家の強勢もさることながら、この皇后はご自身、かなり強靭な性格らしく、天皇が他の妃を後宮に入れようとしても断固として認めず、古代史上、最大の夫婦喧嘩を展開して、天皇を振り回しておられる。
 その後の天皇についても、允恭天皇のあとはその子である安康天皇(第二十代)、雄略天皇(第二十一代)の兄弟がつづく。磐之媛の孫、襲津彦の曾孫たちである。かくして葛城氏の勢威は、たとえばのちの蘇我氏、さらにのちの藤原氏のようでもあったろう。
 その葛城氏の権勢は、眉輪王(まよわのおおきみ)をめぐる天皇と葛城氏の戦いを機に衰退に向かう。あらましの経緯は、こうである。
安康天皇は臣下の讒言を信じて、兵をやって大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺す。そして皇子の妻を、妃として宮中に入れて寵愛され、ついに皇后とされた。彼女には殺された大草香皇子とのあいだに眉輪王という子どもがおり、皇后はその子を宮中で育てた。あるとき眉輪王は父の殺されたいきさつを知り、安康天皇の熟睡しているところを刺し殺した。一報を聞いた安康天皇の弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこ=のちの雄略天皇)はみずから兵をひきいて出動したが、眉輪王は葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の邸に逃げ込んだ。円大臣は磐之媛の兄弟の子であり、履中、反正、允恭三代の従兄弟にあたる。大泊瀬皇子は円大臣に眉輪王の引き渡しを求めたが、大臣はこれを拒否したので、大泊瀬皇子はさらに兵力を加え、圧力を増した。そこで大臣は「娘の韓媛(からひめ)と家七カ所(宅七区)を献上するので許してほしい」と申し入れた。しかし大泊瀬皇子はこれを許さず、大臣の邸宅に火を放ち、眉輪王も円大臣も殺してしまった。こうして栄華を誇った葛城氏も衰退に向かった。
ところが大泊瀬皇子が即位して雄略天皇となると、円大臣の娘韓媛を妃とし、その間にできた子ども、つまり円大臣の孫を次の清寧天皇(二十二代)とする。これは葛城氏との関係修復ともとれるし、天皇家が葛城氏一族を呑み込んでゆく過程ともとれる。
 また葛城氏には地元をはじめさまざまな支持者がいたはずで、そのトップを滅ぼした後遺症は大きかったに違いない。そこで残された不満分子をなだめるために、天皇は葛城氏の奉祭する一言主神に敬意を示し、協調を演出したのではないか。先の天皇一言主神との物語りは、その証なのかもしれない。
2005年、御所市の極楽寺ヒビキ遺跡で、大型建造物の遺跡が見つかった。大和盆地を見おろす尾根上に位置し、石葺きの護岸のある濠をめぐらせた堂々たる遺構で、葛城氏の往時をしのばせるものであった。(了)