倭建命




 小碓命(おうすのみこと)は、第十二代、景行天皇の皇子である。
 ある朝、天皇小碓命に「お前の兄は朝夕の食卓に顔を出さないようだが、お前から教え諭しておけ」と言われた。それから幾日か経ったが、一向に兄は顔を見せない。天皇小碓命に「まだ教えていないのか」とお尋ねになると、命は「もう教えました」という。天皇はいぶかしく思われて「どう教えたのか」とお訊きになると、「朝早く、厠(かわや)の外で待っていて、兄が出てきたところを押さえつけて引き裂き、手足をもぎとって、薦(こも)に包んで捨てました」と答えたので、天皇は末おそろしく思われた。
 みずらに結った髪
十六歳のときに、小碓命は九州の熊曽(くまそ)の反逆を鎮めて来るよう、天皇から命じられた。小碓命伊勢神宮で神に仕えていた叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ねて、女ものの衣装をもらって旅立って行った。
 熊曽をひきいていたのは熊曽建(くまそたける)だった。小碓命は、みずらに結っていた髪を降ろし女装して熊曽建の宴の席にまぎれこみ、建を剣で突き刺した。建は小碓命の剛勇に感じて「あなたに倭建命(やまとたけるのみこと)という名前を献じましょう」と言って死んだ。以後、小碓命は倭建命と名のった。
 つぎに天皇は出雲建(いずもたける)の征討を命じられた。倭建命は出雲に着くと出雲建と親しくなっておいて、ある時、木を削って剣をつくり、それを腰に着けて「川で水浴びをしよう」と誘い、ふたりは裸になった。倭建命は先に水から上がって「剣を交換しよう」と言って出雲建の剣を着けた。出雲建は倭建命の木剣を着けた。すると倭建命は「太刀合わせをしよう」と言って剣を抜いたが、出雲建の剣は抜けなかった。かくて倭建命は出雲建を殺して凱旋した。
 天皇はつぎに東国の平定を命じられた。倭建命は倭比売命を訪ねると、こう言った。
 「私は父の命令で熊曽建を征伐し、出雲建を征伐した。それなのになぜ、遠征から帰ってまもないというのに、兵もろくに与えず、東国征伐に行けと言われるのか。父は、私が死ねばいいと思っておられるのです」。
 そう言って泣くのであった。かつての冷酷粗暴な少年は、旅と戦いの過酷な体験に磨かれて、やさしさを知る人間に成長した。だからこそ、父に愛されない悲しみに泣くのである。
倭比売命は倭建命をなぐさめて剣を渡し、また危急のときに開けなさいと、ひとつの袋を渡した。
 こうして倭建命は東国に旅立ったが、相模国ではある豪族にだまされて、野原にいるところに火を放たれた。命は妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)をかばいながら、叔母にもらった袋を開けてみると火打石がはいっていた。剣で草を薙(な)ぎ、火打石で迎え火を放って火の向きを変えて、危機を切り抜けた。
 また房総への海を渡っているときには、暴風雨に遭った。すると妻の弟橘比売は「私があなたの身代わりとなって海の神の怒りを鎮めましょう」と言って、波の上に畳を敷き、その上に飛び降りて夫のために祈り、こう詠んだ。
  さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
  (相模の野の火の中で、仁王立ちになって私を案じ、声をかけて下さった、あなた)
 すると海はおだやかになったが、弟橘比売の姿は海中に没した。七日のちに海辺に比売の櫛が流れ着いた。そこで御陵をつくってその櫛をおさめた。
 帰途、美濃から近江のあたりで、倭建命は疲労はなはだしく歩行もしだいに困難になったが、病身をおしてひたすらやまとを目ざした。そして能煩野(のぼの)に至ったとき、望郷の思いやみがたく、歌を詠んだ。
  やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる やまとし うるはし
  (やまとは国中で最も秀れた所。重なり連なる青い山々に囲まれたやまとは美しい)
 倭建命の絶唱である。こうして、やまとを目前にして命は能煩野で息を引き取った。するとまるで命の魂がなおも故郷を目ざそうとするかのように、命は白鳥と化して飛び立った。人々は嘆き悲しみながら、そのあとを追って行くのだった。
 日本武尊能煩野陵

 『古事記』『日本書紀』には多くの神話や説話があるが、白眉と言うべきは、この一篇である。
 もちろん倭建命の物語は虚構である。まず『古事記』と『日本書紀』を読み比べてみるだけで、多くの矛盾のあることがわかる。主人公「ヤマトタケルノミコト」が実在したかどうかにさえ疑問がある。そして「記紀」全体の成立過程もそうだが、この物語もまた、各地の伝説、豪族たちの伝承、地名説話、歌謡、神社の由緒などを盛り込みつつストーリーにつづったものである。たとえば建部(たけべ)、草薙剣伊勢神宮、白鳥伝説、白鳥陵、大鳥神社などに関する伝承の類が含まれている。
 このように書かれたことを鵜呑みにせずに吟味することを「批判」といって、文献批判・原典批判・史料批判などと使う。「批判」ということを知らないと、神社や寺の由緒書を鵜呑みにしたり、自叙伝に含まれる見栄や言い訳に騙されたりする。歴史はもちろん、すべからく私たちは科学的・合理的でなければならない。
 
 ところで、大学生に漢字の読みをテストしたところ、こんな珍解答があったという。
 ●天照大神――てんてるだいじん(正解はアマテラスオオミカミ)・・・てるてる坊主じゃないんだから。
 ●倭建命――わけんめい(正解はヤマトタケルノミコトの『古事記』の表記)・・・中国人じゃないんだから。
 ●日本武尊――にほんぶそん(正解はヤマトタケルノミコトの『日本書紀』の表記)・・・「ぶそん」は俳人でしょ。
 笑ってしまうけれど、笑いごとではない。日本人として恥ずかしいことである。自国のもっとも古い説話を知らない、そんな国が世界の文明国の中で他にあるだろうか。どうしてこんなことになったか。すべては戦前(アジア太平洋戦争以前)教育へのアレルギーから発している。
 戦前、天皇絶対制を「国体」と称し、日本神話を歴史と道徳を兼ねる絶好の教材として、子どもたちを思想教育した。なぜこれが絶好の教材だったか。『古事記』『日本書紀』は天皇絶対制の歴史的正当性を主張する目的で編纂された。神話は天皇家の血筋を語る前史であり、すべての歴史は天皇の事跡として編纂された。「大王」を「天皇」と変えて聖化し、「やまと」の漢字表記を「倭」から「日本」に変えて美化した時代である。それは中国と対等の立場に立ち、その先進文明に追いつき追い越そうという国家意志の表われだった。「天皇絶対主義への驀進」というその一点において、8世紀初めのあの時代と戦前日本は、国家理念を同じくした。だから「記紀」は絶好の教材なのだ。
 当時の青少年にとって、およそありえない神話や説話の虚構を、真実として教えられる不条理と苦痛は、どれほどのものだったか、思うだけでも痛々しい。そんな洗脳教育は二度とあってはならない。
 だが、「記紀」の神話や説話が日本最古の物語であることは事実である。だから、科学的・合理的な社会科学としての「歴史」ではなく、「文学」として教えるべきである。西洋人は誰でも「狼に育てられた双子の兄弟によってローマが建国された」ことを教えられて知っている。(了)