神願寺はどこか

 

 京都の高雄といえば紅葉の名所だが、また神護寺でも有名である。
 神護寺和気氏の氏寺(うじでら)で、もと高雄山寺(たかおさんじ)と言った。この高雄山寺と神願寺(じんがんじ)という寺を合併したのが神護寺なのである。古い順に繰り返すと、神願寺が出来、高雄山寺が出来、両寺が合併して824年(天長元年)に神護寺になった。
 神願寺は和気清麻呂がつくった寺である。その創建のいきさつを述べるには、有名な「道鏡神託事件」の話しを前口上に置かなければならない。
 称徳女帝が病気のときに看病禅師として身近に仕えたのが道鏡という僧だが、女帝は道鏡を寵愛するあまり「太政大臣禅師」という前代未聞の位を与えるまでになった。ある時、大宰府からの使いが言うには、宇佐八幡神が「道鏡天皇にするとよい」と託宣した、と。そこで称徳女帝は確認のために和気清麻呂を宇佐に向かわせた。清麻呂は帰ってくると、「八幡神の託宣は『わが国には君臣の別がある。道鏡の願いなど許されない。皇統に連なるものが天皇になるのだ』というものでした」と報告したから、天皇道鏡も怒り心頭、清麻呂島流しになってしまった。しかし、これで道鏡の野望も断たれた。その後、称徳女帝が亡くなると、後ろ盾を失った道鏡は左遷され、清麻呂は許されて都にもどり、地位も旧に復した。というのが「道鏡神託事件」のあらましである。
 さて、それから10年近く経ってから、清麻呂天皇に「神願寺」建立を願い出た。清麻呂道鏡神託事件で宇佐におもむいた折に、八幡神から「皇位と国家を安んじるため、仏の力を借りたいので寺を建ててくれ」と頼まれていた、という。「神の願いで建てる寺」だから「神願寺」であり、念を押すと、この場合の神とは、漠然とした神ではなく、八幡神なのである。
 清麻呂の願い出は翌781年に、この年に即位した桓武天皇によって許可された。これが創建の経緯である。
足立寺史跡公園
 ところがこの神願寺、いつ完成したのかがわからない。ただ793年には存在していた。なぜなら『類聚国史』に「793年、神願寺に能登国の墾田五十町が寄進された」とあるからである。
 また、この寺がどこにあったのかも定かでない。
 大阪府南河内郡説、長岡京付近説、枚方市八幡市周辺説など諸説ある。
枚方市八幡市周辺説の中にも、
八幡市石清水八幡宮の存在するまさにその位置に、かつて神願寺があったという説。
八幡市の西山廃寺跡(足立寺〈そくりゅうじ〉跡)の地とする説(西山廃寺とは、現在の
西山地区にあった名称不明の廃絶された寺という意味である)。
枚方市楠葉の交野天神社付近とする説。
などがあって、結局「わからない」というのが通説のようだ。
結論を書いてしまうと、私は、②八幡市の西山廃寺跡(足立寺跡)に賛成する。
ただこの説の弱点は、次の点にあった。すなわち、神願寺が高雄山寺と合併する際に、「神願寺の地は〈沙泥〉がひどくて壇場としてふさわしくないから、高雄へ移りたい」、また「〈汚穢〉があるため」とも述べていることである。
「砂泥」がひどいというのだから、神願寺は川や湖のほとりにあったと考えるのが普通だろう。ところが西山廃寺はかなりの高台にあって、川の水につかることは考えにくい。
ところで、西山廃寺(足立寺)跡は昭和43年から発掘調査が行われた。遺跡は3mもの厚い砂の層の下にあり、出土した瓦は、白鳳時代から平安時代後期までのものだった。つまり西山廃寺の創建は白鳳時代で、和気清麻呂よりも100年も早いことがわかったのである。これでますます神願寺の候補になりにくくなったわけだ。
しかし、である。3mもの砂に埋もれていたというのは異常である。すなわちこの地が、異常に土砂の崩れやすい土地柄であったことがわかり、したがって先の〈砂泥〉がひどいという神願寺の条件に合うことになる。何も、川や湖のほとりでなくともよいのである。
創建年代についても、白鳳時代以来、ここにあった寺を、和気清麻呂が堂宇を建て増し、整備拡張して氏寺として、神願寺と名を変えた、と考えればよい。
 その後、824年、高雄山寺と合併して、神願寺はなくなった。しかし寺を破却したわけでなく、土地の地名が足立(あだち)だったから、足立寺と呼ばれて残った、と思う。
 鎌倉時代の終わりごろ成立した『八幡愚童訓』によれば、和気清麻呂道鏡の怒りで流された時に足を切られたが、八幡神はこれをあわれみ、蛇を遣わして足を舐めさせたところ足がなおった。それを感謝して清麻呂が建てたのが足立寺だ、というのである。
 この説話は、その話しが出来あがった時点、つまり鎌倉時代の終わりごろに、「かつて足立寺が存在し、その寺は清麻呂が建てた」という伝承があったことを物語っている。
 私の仮説に引きつけると、西山廃寺の名前は次の順に変わって行ったことになる。
   白鳳期の寺(寺名不明)→神願寺(和気清麻呂整備拡大)→足立寺→弥勒
 「足立」という地名についても、坂が急なうえ砂地で崩れやすく、歩きにくいところから、足立という地名になったという説はどうだろうか。
 ついでに、同じ足立寺付近を『太平記』などでは、「更科」または「サラスナ」と呼んでいるが、これもサラスナすなわち「砂のさらさらした所」と考えてはどうだろうか。
ところで、神願寺移転の理由が〈沙泥〉以外に〈汚穢〉とも書かれている。これも、次のように考えてはどうか。
桓武天皇は日本の天皇としてはいささか異質な祭祀を行なっている。中国皇帝のやる「天神を祭る」という行事である。785年と787年の2回、場所は交野つまり現在の交野天神社の地で、西山廃寺(私の仮説における神願寺)とは直線距離で3〜400mしか離れていない。神願寺の創建年代は781年から793年までの間だが、まさにそのころ祭祀が行われたのである。
その儀式では「燔祀(はんし)」すなわち生贄を捧げたというから、いささか凄惨なシーンが想像される。日本的に言うと、そういう血で汚された、つまり〈汚穢〉の地は、寺の壇場としては不適切であろう。ましてや神願寺は八幡神という神の願いで建てられたという神道的由来を持つ寺であれば、なお不浄を厭うたのではなかったか。
 さらに憶測を重ねると、神願寺の創建年代にも関わってくる。血でけがされた〈汚穢〉の地に神の願いによる寺を創建するとは考えられず、すでに存在した寺の寺地内で「燔祀」を伴う祭祀が行われたのであり、したがって祭祀の行われた785年には神願寺はすでにあった。創建年代は781年から785までの間に狭められることになる。(了)(1992)