くじ将軍

 

 室町幕府の第四代将軍足利義持は、病気で重態になり、重臣たちに後継者の決定を求められたが「しかるべきように」としか言わない。重臣のひとり醍醐三宝満済は、候補者である四人の「御名字を八幡神前において御くじをめされ」てはどうかと申し上げたところ、義持も同意した。
 官領以下とも相談の結果、「くじは先に引いておいて、義持の死後に開こう」ということになった。
 三宝満済が候補者四人の名前を書いたくじをつくり、山名が封をした。それを持って「管領ひとり八幡へ参詣せしめ」ることになった。
 そこで「官領、戌終に参詣。神前において御くじを給いて亥終にまかり帰る」。
 翌日、昼ごろ、義持は事切れ、管領以下大名が集まり、昨夜、神前で引いたくじをあけてみると、
「青蓮院殿」
と書いてあった。
 かくして青蓮院義円は、還俗して第六代将軍足利義教となる。

 ところで、この時、くじを引いた場所を、右に引いた満済の日記で「八幡」としか書いていない。これが石清水八幡宮であることは、いわば通説となっている。
 しかし先のくじ引きの経過をよく読んでみると、使いの管領は戌の刻に出かけて亥の刻に帰っている。これをいまの時間に直すと、夜十時ごろに出て、深夜十二時に帰っているのである。
 義持の屋敷は三条坊門殿と呼ばれ、その位置は、「三条坊門南、姉小路北、万里小路東、富の小路西」というから、現在の京都市役所あたりと思ってよい。
 そこからはるばる石清水八幡宮まで、徒歩往復二時間は不可能であろう。馬にまたがって走り通して、さてどうだろう。
 佐女牛八幡宮(=若宮八幡宮
そこで、くじ引きをした八幡宮は、六条佐女牛八幡宮であるという説が出ている。場所は佐女牛西洞院下京区)だから都合がいい。足利将軍家の崇敬あつい神社である。
 しかし、ここにもうひとつの八幡宮を紹介したい。
それは、三条坊門八幡宮である。
この神社は義持の時代になってから頻繁に記録に登場するようになり、義持が崇敬していたという。
場所は無論、三条坊門であり、史書によっては義持邸宅内にあったと書くものもある。
話しは変わるが、義持の三条坊門殿の西北に、尊氏がつくった等持寺があり、その鎮守として寺の南に御所八幡があった。この御所八幡の別称が、三条坊門八幡なのである。
義持は父義満に反発して、北山第を破却したほどだ。その父の大事にした佐女牛八幡よりも初代尊氏、二代義詮にゆかりの御所八幡に宗旨替えしたとしてもおかしくない。
御所八幡宮
往復二時間以内という条件では、石清水は不可能、六条佐女牛八幡が適当というのならば、自邸もしくは近所に八幡宮があれば、その方がもっと便利ではないか。
ましてや御所八幡宮は、応永年間、三宝満済別当を務めていたのだから、これほど便利なことはあるまい。(了)(1991)