吉井勇と一枚の写真

 

 八幡市の松花堂庭園のなかに資料館がある。資料館の展示室に入ると、すぐ左側の端に、吉井勇関係の資料が展示してある。
 その中に古ぼけた一枚の写真がある。和服を着た十数人の集合写真で、説明文にこう書いてある。
 「松花堂庭園にて。吉井勇、孝子夫人、梅原龍三郎谷崎潤一郎、松子夫人、志賀直哉
 言うまでもないが、吉井は歌人、梅原は洋画家、谷崎と志賀は作家で、うち梅原・谷崎・志賀は文化勲章受章者という豪華な顔ぶれである。ところでこの写真は、いつ撮影されたものであろうか。
 吉井勇筆跡
 吉井勇は昭和20年(1945)10月から昭和23年8月まで、いまの八幡市の月夜田(つきよだ)にある宝青庵(ほうしょうあん)に住んでいたから、この間に撮影されたに違いない。 
 まず『吉井勇全集』をめくってみる。和歌のことば書きに、谷崎や志賀の名が見えるものの特にこの写真に関する記述はない。
 そこで志賀直哉の方から調べると、ずいぶんいろいろなことがわかった。『志賀直哉全集』には、吉井が志賀に宛てた次の手紙がある。
 「過日、図らずも茅屋をおたづね下され候節は、御承知の通り、名さへ月夜田の里と申すやうな京の田舎の侘住居のこととて、何のおもてなしも出来ず、甚だ失礼を致し申し候。しかしかかる貧廬に大兄はじめ、谷崎潤一郎梅原龍三郎君等、雅懐を同じくする友を迎へ得たることは、日頃山妻と唯二人、寂しく暮らし居る小生としては、何よりも喜ばしきこと・・・」
 自宅を訪問してくれたことに対する吉井の礼状で、日付けは昭和22年12月6日である。これで写真の日付けはかなりしぼられてきた。
 日付けがほぼ決定的になるのは、志賀直哉東大寺の上司海雲(かみつかさ・かいうん)に宛てた同年10月6日付けの次の手紙である。
 「梅原とは十二日だけが一緒になれることになり、その日の朝、八時六分京都駅で会ひ、 一緒に八幡の吉井君の近くの梅原の神像をあづけてあるところへ行く事にしました。(略)若し君も出られて、八時に京都駅で会ひ一緒に吉井君を訪ねられると非常に好都合ですが如何ですか。」
 おそらく志賀の予定通りに事は運び、あの写真は昭和22年10月12日に撮影されたに違いない。
 ところで右の志賀の手紙の受取人上司海雲は、一緒に吉井を訪問しようと誘われて、結局どうしたのだろうか。松花堂資料館の写真を見ると、どうやら左から12人目が、その上司海雲のようである。
 上司海雲はのち東大寺別当として東大寺の昭和大修理という大事業をスタートさせたが、こころざし半ばで死去、あとを清水公照が継いで事業を完成させた。
 そうした本業とは別に、奈良の高畑(たかばたけ)に住まいした志賀直哉と親しみ、彼の文化サロンの一員として、またのちにはリーダーとして奈良文化人の世話をした。また随筆家でもあった。
 上司は、志賀や谷崎や梅原にはヒケをとるけれども、一流の文化人には違いなく、写真の説明文に上司海雲の名前を入れてあげてもいいと思うのだが。
  竹林の竹おのづから鳴るなべに 秋はやく来る月夜田の里(吉井勇
                                 (了)(1988,2008)
 注 その後、施設全体が改修されたので、写真がどうなったか知らない。