八幡切

 
 書道の世界では、平安から鎌倉初期にかけて書かれた仮名の名品を「古筆」(こひつ)という。「秋萩帖(あきはぎちょう)」「高野切(こうやぎれ)」「寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)」などは、古筆の最高峰として有名である。
 そうした古筆のひとつに「八幡切(やわたぎれ)」と呼ばれるものがある。
 書かれた内容は和歌で、『麗花集』『千載和歌集』『後拾遺和歌集』の、それぞれ一部である。断簡、つまり切れっぱしだから「切(きれ)」というのである。
 ●『麗花集』
 列挙した三つの歌集のうち、『麗花集』は現存していない。つまり、本として初めから終わりまできちんとそろった形のものは伝わっておらず、この「八幡切」19葉と、「香紙切(こうしぎれ)」56葉に書かれた和歌、そのほか合わせて百余首が知られるのみという。
 『麗花集』の成立は、寛弘年間(1004〜1011)とされている。で、肝心の「八幡切」の書き手、つまり書家であるが、『麗花集』の書き手は、伝承では小野道風ということになっている。しかし、そんなはずがないことは『麗花集』の成立年代と道風の生没年(894〜966)を見くらべれば一目瞭然である。寺と言えば行基空海が建てたと言い、庭と言えば相阿弥や遠州、彫り物と言えば左甚五郎と言う、そのたぐいで、立派な書があると小野道風だと言うのである。伝説にすぎない。
 要するに「八幡切」の『麗花集』は誰が書いたか不明である。ただ、書かれたのは11世紀の終わりごろという。
 ちなみに「香紙切」の方の『麗花集』は、同じ時期、小大君(こおおいぎみ)という女流歌人の手と伝えられている。
 また「八幡切」のうち、『麗花集』以外の『千載和歌集』と『後拾遺和歌集』、両方とも書写したのは飛鳥井雅有である。この人は13世紀後半、鎌倉時代の文化人である。
 ●松花堂昭乗
 「八幡切」とは大概、以上のようなものだが、我ら八幡市民としては、「八幡」というネーミングの理由が気にかかる。
 日本の伝統文化の世界におけるネーミングは、たとえば茶器などがそうだが、じつに風雅で洒脱である。「古筆」も同様で、冒頭に掲げた名品も、「秋萩帖」は書き出しが「あきはぎの」と始まることから、また「高野切」は秀吉が高野山の木食応其(もくじきおうご)に与えたところから、「寸松庵色紙」は大徳寺塔頭の寸松庵に伝来したことから、さらに「香紙切」はその紙の染料が香ったことから、おのおの名づけられている。
 松花堂(『都林泉名勝図会』)
で、「八幡切」は「石清水八幡宮に伝えられたから」であるが、くわしく言うと、石清水八幡宮の滝本坊住職だった松花堂昭乗(1584〜1639)のコレクションであったためである。
 昭乗は石清水八幡宮の社僧である。八幡宮は神社であるが、神仏習合して護国寺極楽寺など多くの塔頭が散在し、彼はそのひとつ「滝本坊」の住職であった。その職を退くや「松花堂」なる草屋に隠遁して風雅をこととし、よって松花堂昭乗というのである。
 その全人像を一言で言えば「文人」である。すなわち書を能くし、大和絵を学んだ画家でもあり、茶人でもあった。
 ちなみに友人知己を挙げてみれば、狩野山楽、沢庵、小堀遠州、淀屋个庵(こあん)、石川丈山など、当代一流の文化人たちの名が並ぶ。
 このうち小堀遠州は利休・織部を継いで茶道界に君臨した大宗匠であり、その茶席に金森宗和とともに連なる松花堂昭乗は、何よりもまず大茶人のひとりであった。茶道の世界では、昭乗愛用の茶道具を「八幡名物」と称するほどである。
 昭乗は、また一方では「寛永の三筆」と称されるほどの能書家である。ちなみに三筆の他の二人は近衛信尹本阿弥光悦である。
 昭乗は日本や中国の書の古典を大いに勉強した人である。仮名のお手本として『麗花集』を所蔵していたとしても何の不思議もない。『麗花集』はもともと粘葉本(でっちょうぼん)の冊子だったという。
 現に、ある学者は『麗花集』は「切になる以前、松花堂が所蔵していた」と説明している。
千載和歌集』『後拾遺和歌集』についても、同じく「切」になる前の、冊子そのものを昭乗が所蔵していたとしても不思議はない。
 昭乗のもとにそれらの冊子があったと想像しよう。
 一方、「八幡切」とは、昭乗所有の「断簡=切」である。
 では、「冊子」を切り取って「断簡」にしたのは誰か。
 昭乗と考えるのが自然だろう。
 茶席に「茶掛(ちゃがけ)」は欠かせない。床の間の掛軸(かけじく)である。茶は禅から出たため、当初、茶掛には禅僧の書(漢字)などを使ったが、すでに利休の時代に、「古筆(仮名)」をも掲げていたという。
 松花堂昭乗は、古筆の美を茶室という晴れ舞台の主役として登場させるべく、冊子から切り取って「切」とし、茶掛けに表装したのであろう。
 この空想が当たっていたとして、冊子の一部を切り取るという行為を非難するのは的はずれである。当時、それは許された行為だった。ある絵画や書について、真にその美を知る者、真にその美を愛する者、そして元の形よりもはるかに美しく演出する力量を有する者にのみ許された行為だったのである。
 以下、余談をお許しいただきたい。
 ●入矢義高先生の思い出
 私が出版社に勤務して編集者をしていたころ、京都大学の入矢義高先生にお会いしたことがある。
 話しが、漢詩や漢文における「編」や「撰」のことになった。
 たとえば良寛がひとつの漢詩を完成させようとして、いくつかの文字を修正し、同工異曲の三通りの漢詩を書き遺しているとする。「編」や「撰」とは、それらの中から最善のものを決定し、余のものを捨て去ることである。あるいは場合によってはそれらの中から良寛の模索した完成作を推考して、何行かずつを集め組み立てて一編の詩と成すこともある。
 「本来、『編集』とはそういうものです」
と言われて、私は背中を警策で打たれた思いがした。
 編集者は時に著者以上の力量を持たねばならないことになる。
 松花堂昭乗は冊子という俗的なモノのなかに美の原石を発見し、それを切り取り独立させるという研磨をほどこして、珠玉の美術品を創った。その行為から、私は入矢先生のおっしゃる「編集」を連想したのである。(了)(1990)