八幡の「園と栗」

 

 律令制のもとで、天皇家・貴族・社寺などは、各地に「園」あるいは「御園(みその)」と呼ばれる土地を持っていた。
 園は田んぼではない。竹御園、橘園、漆園、柿御園、松茸御園、黄瓜御園、石榴園、地黄御園、柑子園などの名前が史書に見えるように、竹、漆、茸、果樹などさまざまな産物を栽培して、それぞれが所属している権門勢家に上納した。園とはそういう場所だった。
 ところで、ある史書に、桓武天皇が「山城国御園」をつくった、という記事がある。また別の史書には「山城国奈良御園」とか「園神奈良ノ園三座」といった地名が見える。
 すると山城の奈良あるいは神奈良(かみなら)、つまり八幡市内に園があったことになる。
 それはどこか。
 『男山考古録』の筆者藤原尚次(1797〜1878)は、この園は、旧八幡四郷の中の金振郷の内の園町、つまりいま八幡市役所のある八幡園内(そのうち)の地であろうと考えた。付近の法園寺はかつて園寺と呼ばれたと言うし、法園寺の東に園殿や園殿口の名前もあった。だからここだと言う。
御園神社
 しかし『八幡市史』は、上奈良の御園(みその)や御園神社をこれに当てている。私はこちらの方が説得力があって正しいと思う。それにしても、どうして『男山考古録』が、上奈良の御園や、御園神社を取り上げなかったのか、不思議である。
 話しは変わるが、八幡には双栗(ソグリ)という地名がある。八幡市役所のある八幡園内の東隣りである。『男山考古録』は「ナミクリをつづめてナグリととなへしなり」としており、当時ナグリと発音したことがわかる。またイグリ、サグリという読みもあったと書いている。これを要するに「八幡園内の東隣りにサグリという地名があった」と言ってもよい。
 一方、上奈良の御園神社の南にも「サグリ前」という地名がある。
 八幡市内にふたつの園があり、それぞれに接してふたつのサグリがある。私にはそれが不思議なのである。
 ちなみに八幡の園ではウリ、ナス、大根などをつくったという。栗をつくったという記録にはまだお目にかかっていない。(了)(1989.11)