仁徳天皇高津宮

 高津宮址碑
 
 ある時、仁徳天皇が高台にのぼって眺めると、家々から煙が立っていない。民はかまどでの煮炊きにも事欠いていると察した天皇は、それから三年間、労役を免除した。その間、天皇は衣類も新調せず、住まいが荒れて、雨が漏り、すきま風が吹き込んでも修理させなかった。こうして三年が経ったのち、高台から眺めると炊事の煙があちこちの家からあがっていた。
 天皇は「朕(われ)、すでに富めり」と言われた。皇后が「垣がこわれ、天井も雨漏りし、衣服もほころびているのに、どうして富んでいるとおっしゃるのですか」と問うと「主君というものは人民を一番たいせつに考えなければならない。人民が貧しければ私が貧しいのであり、人民が豊かなら私が豊かなのだ」と言われた。
 いいお話しではございませんか。これぞ聖王、さすが「仁徳天皇」の名にふさわしい話しである。
 戦前の教科書では、慈愛あふれる天皇像として子どもの教育に使われた話だが、ご多分に漏れず、いまではこれは中国の儒教的理想に適う天皇像を創作したにすぎないとして、史実と認められていない。
 ではなぜ、そんな話しを「記紀」の編者は創作する必要があったか。それは王朝の創始者は聖人君子で、王朝を滅ぼす最後の皇帝は極悪非道な暴君だという、これまた中国的史観にのっとった結果だという。もし、そうだとすると仁徳天皇(第16代)が王朝の創始者で、武烈天皇(第25代)が王朝最後の暴君という役割を演じていることになり、つづく継体天皇(第26代)が次の新王朝の創始者になる。王朝かどうかはともかくとして、私としては、神功皇后応神天皇仁徳天皇あたりが新しい系図の初めに位置し、武烈天皇でこの系図が終わることに異存はなく、前者を「応神系」とし、後者を「継体系」と名づけたい。
 
 ところで冒頭のエピソードにもどるが、仮りに天皇が民のかまどの煙を実際に眺めたとして、それはどこかと言えば、仁徳天皇の宮は難波高津宮(なにわのたかつのみや)だと「記紀」に書かれている。
  いま大阪市天王寺区餌差町に高津(こうづ)高校があり、その校内に「高津宮址」の石碑がある。明治32年に建立されたが、この地を選ぶに際して大阪府は13名の学識経験者に諮問した由である。高津宮の地はむろん上町台地上のどこかであろうとまでは推測できるが、それ以上つきつめて限定できるはずもない。
 大阪市の市歌の最初は「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙」というのである。大正10年に制定され、いまもなおこれが正式の市歌でありつづけている。何とも古めかしい歌詞で、これをいまだに市歌としていることには異論もあるだろうが、私はこのままでいいと思う。高津宮も、難波宮と同じように、あるいはシュリーマンのトロイ発掘のように、絵空ごとと思われていたのに、思いもかけず宮址が発掘されるかもしれないではありませんか。それは半分ジョークだが、「民のかまど」と言われて何のことかわからない人が多くなっている昨今、仁徳天皇の故事を知るきっかけになればいいと思うし、この古めかしさがいつの日かまた流行するかもしれない。
 
 難波に都したのは、仁徳天皇だけではない。その前の応神天皇は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや=奈良県橿原市か)に居たが、難波に行幸したときに大隅宮(おおすみのみや)にも居住している(紀)。どうも応神・仁徳のおふたりの天皇は難波・河内にご縁が深く、御陵も河内にある。
 
 応神天皇大隅宮の所在地と言い伝えているのは大隅神社で、大阪市東淀川区である。先の仁徳天皇の難波高津宮は将来、宮跡を掘り当てる可能性がなくはないが、応神天皇の難波大隅宮はその可能性はほとんどないのではないか。というのは、高津宮は天皇が常在される「常(つね)の宮」だが、大隅宮のほうは旅の途中の行宮(あんぐう)のようで、さほど立派な建物でなかった可能性が強いからである。
 「宮」はもともと「御屋(みや)」で、天皇の居住される家屋の意味だった。神社のことを「宮」と言うが、これも同じく神様の住まいのことで、ひとり(一柱)の神様はひとつの家に住む。天皇も神様と同様、自分の宮に住み、次の天皇も自分の宮を持つ。つまり天皇が代われば宮が代わるのがあたりまえだった。
 宮の所在する地域が「宮処(みやこ)」つまり、のちの「都」である。だから天皇が代わり「宮」が代われば、「宮処」も移るのがあたりまえだった。
 やがて中国の都城制を知ると、「都」は条坊を備えた街でなければならないとわかり、はじめて造られたのが藤原京である。こうなると大土木工事、大建築工事が必要となり、そう簡単に天皇の代替わりごとに遷都するわけにはいかなくなった。それでも簡単に藤原京を捨てて平城京に遷ったのは、天皇の代替わりで「宮処」は代わるものという伝統的認識が生きていたせいもあったのだろう。
 そういうわけで、応神・仁徳天皇の時代は、「都」はまだ都城ではなく「宮処」にすぎなかったから、高津宮といい大隅宮といっても、さほど大規模なものではなかっただろう。(了)

 八代の系図

 埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文は、「辛亥年(471年)七月中記す」と、記した年月日から始まり、そのあとは人名が列挙される系図となっている。
 その最初の人物は「オワケノオミ(むろん原文はすべて漢字)」で、この人が鉄剣をつくらせた主人公である。それから系図の一番最初にさかのぼって「上祖(かみつおや)、名はオホヒコ」と一族の始祖(はじめのおや)の名を記す。それ以降は、2代目、3代目と下ってゆき、「その児、タカリノスクネ、その児、名はテイカリワケ、その児、名はタカハシワケ」というぐあいである。そして最後は「その児、名はオワケノオミ」と最初に登場した主人公が出てきて、系図の部分は終わる。これらの名前を勘定すると合計8人である。
 系図のあとには「世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(おびと)として、つかえまつり来たりて今に至り、ワカタケル大王の寺、斯鬼宮(しきのみや)にあるとき、われ天下を左治す」と誇らしげに語る。これが一番、言いたかったことなのである。締めくくりは「この百錬の利刀を作らしめ、わが、つかえまつる根原を記すなり」と結んでいる。
 この終わりの部分を読むと、自分が「ワカタケル大王につかえて天下を左治」したことを誇りたいだけではないことがわかる。家系の最初から「世々」杖刀人(近衛兵のような役だろうか)の頭として、歴代天皇につかえてきたことを誇り、それが自分の職掌の根源なのだと言っているのだ。
 私がここでくりかえし強調したいのは、「世々」の2文字である。自分ひとりでなく、代々、杖刀人の頭として歴代の大王につかえてきたと言っていることだ。
 主人公であるオワケノオミは、ワカタケル大王すなわち雄略天皇につかえたという。それでは、この一族の始祖は、天皇の名前でさかのぼって、いったいどの天皇からつかえてきたのかを考えてみよう、というのが本稿の主旨である。もちろん正確な答えは分かるはずもなく、アバウトな答えしか期待できないのは承知のうえである。
 オワケノオミの家系はきわめて単純で、つねに「その児」とくりかえされている。ということは、必ず親から子へと直系でつながっていて、兄から弟、あるいは甥といった傍系に流れることはない。だから数えて8人ということは、即、8世代ということになる。と言うことは、一族の始祖がどの天皇につかえたかを探すには、雄略天皇(21代)から8代さかのぼった14代目の天皇でいいかと言うと、そうはいかない。
 実際に、雄略天皇から皇統譜をさかのぼってみよう。
 雄略天皇の前は安康天皇(20代)だが、ふたりは兄弟である。そこで、このふたり合わせて1世代と考えたい。これが1世代目である。
 その前の允恭天皇(19代)は、雄略・安康兄弟の父だから、さかのぼること2世代目となる。ただ、その前の反正天皇(18代)と履中天皇(17代)は允恭天皇とやはり兄弟だから、3人で1世代であり、ここまでが2世代目となる。
 彼らの父が仁徳天皇(16代)で3世代目、その父が応神天皇(15代)で4世代目になる。
 応神天皇の父は仲哀天皇(14代)で母が神功皇后だが、この仲哀天皇とその前の成務天皇(13代)は、実在したかどうか疑わしいと言われている(直木孝次郎先生など)ので、思いきってはずしましょう。
 すると景行天皇(12代)が5世代目、垂仁天皇(11代)が6世代目、崇神天皇(10代)が7世代目、開化天皇(9代)が8世代目にあたる。
 結論が出ました。「上祖(かみつおや)」である「オホヒコ」は、オワケノオミよりさかのぼること8世代目だから、オホヒコがつかえた天皇は、皇統譜をアバウト8世代さかのぼった開化天皇前後だろうというのが、私の結論です。
 ところがここに、不思議な事実がある。それは、まさにその開化天皇の兄の名前が「大彦命(おおびこのみこと)」であり、これが鉄剣銘系図の上祖「オホビコ」と一致することである。
 大彦命天皇の兄でり、しかもその娘の御間城(みまき)姫は、つぎの崇神天皇の皇后になっている(いとこ同士婚)。大彦一族は、徳川家で言えば、御三家のような存在だったのである。
 しかも彼は、血筋のみではなく、政治的・軍事的にもトップクラスの重要人物だった。崇神天皇が4人の重臣におのおの北陸道東海道山陽道山陰道への遠征を命じたとき、大彦はその「四道将軍」の筆頭として北陸道将軍を命じられているのである。しかも遠征に出発した直後、武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を見抜いて、大手柄を立てている。
 そして大彦は「阿倍臣、膳(かしわで)臣、阿閉(あへ)臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、すべて七族が始祖なり」という。大彦一族の子孫は大いに繁栄したのであり、「我らが始祖は大彦である」と称した一族は多かったのである。
 以上は所詮、素人の床屋談義にすぎないもので、笑ってお聞きいただきたい。
 
 私が言いたいのは、日本古代の王朝交替説と天皇の実在・非実在を考えるときに、鉄剣銘の直系8人の系図はきわめて重要だということである。いまのところ崇神系、応神系、継体系の3系譜において、多くの学者は、応神系から実在すると認めていて、その前の崇神系はまだ実在を認めない。学者によっては応神王朝は崇神王朝を滅亡させた征服王朝だという。
 どうしてそんな説が出るかというと、崇神系の最後の方から応神系の始まりのあたりが、どうもあやしいのである。崇神天皇のあとは垂仁天皇景行天皇成務天皇とつづくが、成務天皇の記事はあまりに少なく、后妃もなく子どももない。それで甥があとを継いで仲哀天皇になるが、この人は、あの伝説の英雄「日本武尊」の子だというのである。しかも仲哀天皇は遠征中の九州で急死してしまい、神功皇后が摂政となる。こうして話しはどんどんあやしくなってくるから、成務天皇仲哀天皇は実在しなかったという説が出るし、私もこのふたりの天皇を「思いきってはずしましょう」と言ったのである。
 で、摂政となった神功皇后を補佐したのが、武内宿禰(たけうちのすくね)である。この重臣は先帝の仲哀天皇が大臣(おおおみ)としたが、天皇と同じ日に生まれたので寵愛されたと書いてある。武内宿禰は摂政となった神功皇后を支えて実質、国政を取りしきった。神功皇后の子が応神天皇である。そう言われると、実は、応神天皇神功皇后武内宿禰の子ではないか、などと勘ぐる人も出てくる。
 私の話は、崇神系の最後の方の話を終えて、応神系の始まりに入っているのだが、応神天皇とそれにつづく仁徳天皇についても、疑問が出されていて、それは、『日本書紀』に書かれた応神・仁徳ふたりの天皇の話しは、年代を引き伸ばすために、一人の天皇の事績を二人に分けたのではないか、というのである。その説の可否はともかく、応神・仁徳系の系譜が成立したことはまちがいない。
 以上の経緯をながめて、この応神系は、崇神系が景行天皇で終わったのちに大和を征服した新王朝(河内王朝)ではないかと考える説がある。私は、何も武力で征服したなどと血なまぐさいことを言わなくても、もっとおだやかに、崇神系は血筋がとだえかけたので、遠縁からあとつぎを連れてきたのだろうと思うし、河内王朝とまで言わなくても、大和朝廷が河内に進出したと考えればいいんじゃないかと思う。
 
 話しをもどしましょう。鉄剣銘文によれば、オワケノオミ一族は、上祖オオビコが開化・崇神天皇あたりに仕えたところから始まり、垂仁・景行天皇と、崇神系4代の天皇につかえた。そのあと応神系に移り、応神・仁徳天皇の2代、履中・反正・允恭で1代、安康・雄略天皇で1代、計4代に仕えた。オワケノオミ一族は合計8人にわたって、崇神系、応神系をまたいだざっと11人ほどの天皇に仕えたことになる。
 異論はいくらでもありましょう。ただ、こまかい話しはさておき、私が強調したいのは、もし崇神系が断絶し応神系が征服王朝だと言うなら、オワケノオミ一族の直系8代が「世々」歴代天皇に「杖刀人」としてつかえてきたという鉄剣銘の物語は嘘なのでしょうか。その8代は、崇神系とそれにつづく応神系へと、まさに4代ずつ、またがって継続しているではありませんか。もし仮りに絶滅した王朝から征服した王朝へ、天皇が劇的に替わったとしたら、先の天皇につかえた杖刀人の子がそのまま次の天皇につかえることはありえないだろう。
 景行天皇崩御後の皇位継承は、難航はしただろうが、武内宿禰らの豪族の支えによって何とか応神系へと引き継ぐことができ、そこから再出発し、弱体化していた王権は雄略天皇時代の強盛を迎えたのである。鉄剣銘は、そう証言しているのだと思う。(了)
 注1=以上は、鉄剣銘のオホビコが、『日本書紀』の大彦命と同一人物であるという仮説のうえに成り立っている。だから所詮、床屋談義だとおことわりしているのである。
 注2=関西大学の有坂隆道先生から、私は何度か稲荷山鉄剣銘の話しをお聞きした。8代の系譜を天皇にあてはめるアイデアもお聞きした。ただ、どの天皇をどう勘定するかという具体的内容は、記憶になく、ここに記したのは私の具体論である。なお先生の主要な古代史論は、講談社学術文庫『古代史を解く鍵』にまとまっている。   


 

 ワカタケル大王


 雄略天皇は、若いころ大泊瀬皇子(オオハツセノミコ)といったが、ずいぶん粗暴な振るまいが多く、いとこの娘たちを妃にと申し入れたときも、「(あの方は)つねに暴(あら)く、強(こわ)くまします。たちまちに怒り起こりたまへば、朝にまみゆる者、夕には殺され、夕にまみゆる者、朝には殺さる」、そんな人はイヤと、断られたという。
 兄の安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)に殺されるという突発事件が起こると、大泊瀬皇子はもうひとりの兄を斬り殺し、また別の兄が眉輪王とともに葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の宅に逃げ込んだのを火を放って3人とも焼き殺し、さらにいとこにあたる皇子も殺した。これで皇位を争う3人を一掃、事のついでに権勢を誇った葛城円大臣も片づけたことになる。こうして有無を言わさぬ豪腕ぶりで皇位をつかみとった。その後も、妃にしようとした女性が他の男性と一緒になったのを怒り、夫婦とも焼き殺させたとか、馬の世話係を斬ったとか、すぐ人を殺すので、人々は「大悪(はなはだあしくまします)天皇」とののしった。もっともすぐあとで葛城一言主神に敬意を表されてから「有徳(徳まします)天皇」と言われた。
 「雄略紀」を読んでいると、奇妙なデジャヴュ感覚に襲われる。日本武尊(倭建命)に似ているのである。さらにさかのぼって神話の英雄、素戔嗚尊スサノオノミコト)にも似ている。性格が暴力的で残酷なのである。それをむかしは「タケル」と称したようである。
雄略天皇はもともと大泊瀬幼武(オオハツセワカタケル)天皇という。「幼武」(ワカタケル)は『古事記』では「稚武」となっていて、共にタケルを「武」と表記する。ヤマトタケルは『日本書紀』では「武」、『古事記』では「建」である。スサノオはどうかというと、『古事記』では「建速須佐男」(タケハヤスサノオ)とも表記している。「建」については、たとえば「男建(おたけび)」は「威勢のよい叫び」のことであり、「建ぶ」と動詞にもなり、「猛ぶ」とも書いて「たけだけしく振るまう」ことである。
そういえば倭の五王の上表文で、倭王「武」は雄略天皇にあてられている。雄略天皇を漢字一字で表すと、なるほど「武」にちがいない。その上表文も歯切れよい漢文で、いかにも勇ましい。
「昔より祖禰(そでい)みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処(ねいしょ)にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国」
最後の九十五国は「渡りて海北を」というから日本列島の外として、国内を合計した121カ国とはどういう勘定だろうか。中国向けの単なる大ぼらと見るか、ある程度、根拠のある数字か。私は地方に割拠する豪族の支配地が、そのくらいあったのではないかとも思う。
それはともかく、雄略朝の存在が絶対年代をともなって確実なものとなっている。武の上表文は『宋書』に出ているので478年のこととわかる。
また「雄略紀」5年条には、百済王の子が島で誕生したので「島君」といい、これが長じて武寧王となると書いてあるが、韓国の武寧王陵から出土した墓誌に「斯麻王(しまおう)」とあって、「書紀」の記事を物的に証拠づけした。
きわめつけは埼玉稲荷山古墳出土鉄剣の銘文である。銘文は「辛亥年七月中記す」と始まり、これが471年とわかり、「獲加多支鹵大王」につかえたとあって、これが「ワカタケル」すなわち雄略天皇と確定した。そうなると思い出されるのは熊本の江田船山古墳出土の鉄剣銘文で、これは肝心の大王の名前5文字が読めず、かろうじて読める最初と最後の2文字から反正天皇だろうと推測されていたが、これも「獲□□□鹵」ではないかということになった。反正天皇という解釈を出されていた福山敏男先生も、すぐに雄略天皇でいいと思うと率直に認められて、私は当時すがすがしい印象を受けた。福山先生は京都大学の工学部の先生で建築史がご専門だったが、金石文はじめ古代史にも造詣が深く、両分野での業績は目を見張るものがあった。
2本の鉄剣の銘文によって、雄略朝の日本列島支配は、少なくとも西は熊本から東は埼玉まで及んでいたことが明確になった。
こうしてすべての針が雄略天皇を指すこととなった。
確かに雄略朝は王権の伸長した画期的な時代であった。吉備氏に対してあらゆる圧力をかけて弱体化をはかり屈服させているし、朝鮮半島にも派兵しており、版図の拡大とともに支配の密度も高めた。
古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)、『万葉集』(759年以降)の編者たちも、かえりみて雄略朝は栄光の時代だったと認識していたにちがいない。そのことは『万葉集』の冒頭を飾る最初の歌が、雄略天皇の御製であることからもうかがえる。
そらみつ大和の国は おしなべてわれこそ居れ しきなべてわれこそ座(ま)せ・・・
恋愛の歌ではあるが、この一節はいかにも自信に満ちた天皇の言葉らしくて雄々しい。これを巻頭に置いたのは持統女帝だったかもしれない。

だが、なぜこの時代、雄略天皇があこがれの的だったのだろうか。ここからは素人の床屋談義と思っていただきたいのだが、『万葉集』『古事記』『日本書紀』『風土記』の時代は、天武天皇という偉大なる王者を始祖とする天武系の時代であった。天武天皇亡きあと持統皇后が即位したが、その政権を維持し求心力を維持するためには、亡き夫の偉大さを訴えつづけねばならなかった。つづく文武天皇元明女帝、元正女帝いずれも幼少であったり女性であったりして、力による圧倒的な権力にはなりえず、いずれも拠って立つ力の源泉は天武天皇の血筋だけであり、さればこそ天武天皇の偉大さをやはり訴えつづけねばならなかった。
では天武天皇の偉大さとは何か。それは究極のところ、古代史上最大の戦争といわれる壬申の乱を制した覇者であることだ。「戦う天皇」であり「武の天皇」だったことだ。
 そういう目で「記紀」を見たとき、雄略天皇の人格・業績は憧憬に値しただろう。そして素戔嗚尊日本武尊雄略天皇とつらなる「武」の系譜を受け継いだのが天武天皇だと暗に言いたい気分があったのではないか。その後「武」の系譜は「文武」「聖武」と受け継がれてゆくが、「武」の名にふさわしい事績を残した天皇は、「桓武天皇を待たねばならなかった。(了)
 

 王朝交替説

 戦後の一時期、「王朝交替説」がにぎやかに議論された。1952年に水野祐が言い出した崇神王朝、応神王朝、継体王朝の三王朝説から始まって、その後、葛城王朝、九州王朝、吉備王国や出雲王国などなどである。
 皮切りの水野説にも先達はあり、戦前の津田左右吉記紀批判がベースになっているのはもちろんだが、もっと直接のきっかけは1948年の江上波夫騎馬民族説で、騎馬民族が海を渡ってきて日本を征服して新しい王朝をつくったというのである。
 敗戦によって、「天皇万世一系」という洗脳教育が終わったばかりで、そんな発想は思いもよらなかったし、恐れ多くも天皇家についてそんなことを言ってもいいのかと、衝撃は大きく、これに触発されて○○王朝が続々できたわけである。と、言ってしまうと俗っぽすぎるので付け足すと、日本古代史の学者たちは、それまで日本というフィールドの中でしか発想していなかったので、大陸から日本列島へと地図上に巨大な半弧を描かれると、閉め切った窓を開け放ったような爽快感があり、以来、「東アジアの中の日本史」が流行して現在に至る、という次第である。
 王朝交替という大げさな表現はともかく、天皇家の血筋がどこかで切れかかったことはあったに違いないし、切れてしまった可能性もある。
王朝交替説とはどんなものか、「崇神王朝説」を一例として挙げよう。
日本書紀』を歴史史料として批判的に読むと、天照大神をはじめとする神話は信じられない。第一代神武天皇もそのあとのいわゆる欠史八代も信じられない。第十代崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とたたえられたというから、これが初代天皇ではないか。初代かどうかはさておき、また書かれた内容の虚実もさておき、崇神天皇は最小限、実在したのではないか。と、いうわけだ。
 つづく垂仁天皇(11代)、景行天皇(12代)は纏向(まきむく)に宮を置いた。(ちなみに、ここから纏向遺跡邪馬台国畿内説の拠りどころとなり、箸墓を卑弥呼の墓とする向きもある)。で、ここまでの天皇三輪山周辺に宮を営んだので「崇神王朝」または「三輪王朝」という。
つづく成務天皇(13代)は「書紀」の記述がわずかしかなく、子どももいないというので、甥があとを継いで仲哀天皇(14代)となる。この甥というのが悲劇の英雄「日本武尊」の忘れ形見なのである。日本武尊の物語は感動的だが、その子が天皇になったとなると、それで日本武尊を美化したのかな、などと思えてくる。それはともかく、「仲哀紀」には、夫の仲哀天皇をさしおいて神功皇后がやたら表に出てきて、おしまいには仲哀天皇は九州遠征中に急死してしまう。そして天皇崩御を隠して1年をしのいだのち、神功皇后は摂政となる。しかも天皇は亡くなったが、皇后のおなかにはちゃんとお世継ぎ(15代応神天皇)が残されていた、などと言われると眉にツバをつけたくなる。ましてやこの皇后は大きなおなかを抱えてみずから朝鮮半島に戦争に行くが、着いたとたんに敵はすぐに降参してひれ伏したという。およそありえない話しである。
 というわけで、日本最初の崇神天皇の系譜はその辺で終わっているのではないかと考え、ここまでを「崇神王朝」と呼ぶのである。
 ところで、神功皇后とその子(のちの応神天皇)の母子が畿内に帰ろうとすると、応神天皇の異母兄である二人の王が反乱を起こしたので、これを征討して大和にはいったという。ということは、第十五代応神天皇は新王朝の始祖であろうというわけで、以降を「応神王朝」(あるいは河内王朝)という。
 この王朝は残虐無道な武烈天皇(25代)で血脈が絶え、つぎの「継体王朝」(あるいは近江王朝)につづく。
 以上が三王朝交替説である。
 私は「王朝」という言葉はどぎついので、「崇神系」「応神系」「継体系」くらいにしてはどうかと思っている。最初の「崇神王朝」につづく「応神王朝」「継体王朝」はいずれも反対勢力を武力で滅ぼして天皇の位を勝ち取った征服王朝だという主張なのである。私が「どぎつい」あるいは「大げさ」だと言うのはそこで、征服王朝というと、前王朝の血筋をまったくひかない人間が、武力のみで天皇になったように聞こえる。私は継体天皇はもちろんだが、応神天皇も直系ではないにせよ天皇家との血縁関係はあったと思う。
 
 ところで、この程度の話しは、高校日本史で教えてもいいのではないかと、私は思う。
 いまの高校教科書に最初に登場する天皇は、「倭の五王」にあたる応神・仁徳から履中・反正・允恭・安康・雄略で、しかも系図だけである。つまり中国の『宋書』『梁書』に「讃(賛)・珍(弥)・済・興・武」の五人の倭王がつぎつぎと朝貢してきたとあり、これを『日本書紀』と引き比べるために天皇の名前が出てくるだけで、『日本書紀』が主役ではない。中国の史書にも出てきたので、「応神系」の存在は認めるというだけである。
 確かに中国・朝鮮半島史書金石文の裏づけが出てくるのは「神功紀」からで、そのあたりの記事はだいたい120年古く潤色してあるので、それを勘案すれば実年代に近いだろうと言われている。つまり三王朝交替説の2番目にあたる「応神系」からは認めるが、それ以前の「崇神系」は認めないという見解なのである。
 だがしかし「崇神系」の記述は嘘ばかりで史実が全くない、わけではない。ウソかマコトか吟味してゆくのがおもしろいのであり、先学の推理(学説史)を知るのが楽しいのだということを、教えてほしい。そうでもしないと、邪馬台国のあと「神功紀」までの空白の100年が、いつまで経っても埋まらないじゃないの。
 言い方を変えれば、外国から日本をながめているようなへんてこりんな古代史はやめにして、『日本書紀』を主役とした文脈で、テキストを抜粋して示しながら、こういうところは信用できない、ここらは真実らしい、このエピソードはこういうことを言いたいためなんだ、といった授業をしてほしいということだ。
 もうそろそろ皇国史観アレルギーから脱却して、日本最古の歴史書を正当に評価してもいいのではないか。(了)

[感動日本史] 葛城一言主神



 葛城一言主神社


 
  春がすみいよよ濃くなる真昼間(まひるま)の
  なにも見えねば大和と思へ(前川佐美雄)
「春がすみ」とおだやかに歌い出すが、しだいに調子が変わり、下の句では怒涛の如く、一気に激して終わる。この語気はただごとではない。しかし、何が言いたいのかと歌意をさがすが、所詮、不可解であり、この命令形は理不尽にさえ思えてくる。さりとて苦笑して忘れ去ろうとしても、読むものに思索を強いる。
前川佐美雄の弟子であり、佐美雄と同じ大和の歌人である前登志夫はこう解説している。
「この歌が秀れているのは、大和の実景と本質を一言にしてとらえ、同時になにも見えないという覚醒において原郷を見ているのであり・・・」(『山河慟哭』)。
 私たちは、東大寺や大仏を見て、後年の復原なのに、つい天平の実物と錯覚する。では興福寺の阿修羅像は実物ではないかと言われるだろうが、それでも天平の実物とは、たとえば色彩が違う。それらは、いにしえを偲ぶ「よすが」にすぎない。眼前の風物を「よすが」として、おのが「内なる天平」を見ているのである。
 だから、「ふるさと」は存在しない。幼き日々を過ごした真の「ふるさと」はこころの中に「原郷」としてあるだけだ。現在の郷里の実景は、所詮「よすが」でしかない。むろん、そのことになんの不足も感じる必要はない。
 佐美雄のこの歌は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の望郷の歌「大和は国のまほろば・・・」を想起させる。さらに言えば、どちらの歌も、「やまと」を「大和」から「日本」へと置き換えていい。
実見するものが「よすが」にすぎず、所詮、真景は心中にしかないとすれば、私たちは、おのおのの「内なる日本」を、感動に満ちた美しい「原郷」として築きあげたいものだ。


さて、ここでつづりたかったのは、一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城氏のことである。前登志夫は上の文につづけてこう書いている。
大和国原を睥睨(へいげい)して、魑魅魍魎(ちみもうりょう)を従えてうたう、この歌の語気をおもうとき、わたしはいつも佐美雄の郷土の山巓(さんてん)の神、葛城一言主神が佐美雄にのりうつった姿を感じる」。
一言主神は「記紀雄略天皇の段に登場する。
雄略天皇葛城山に登るとき、従う百官の人どもはことごとく青い衣に紅い紐を着していたが、見れば向かいの尾根を同じ服装の行列が登って行く。「この大和に、自分以外に君主はいないのに、あれは誰だ」と天皇が問うと、相手も同じことを言う。天皇は怒って矢をつがえ、従う百官の人どももまた矢をつがえると、相手も一斉に矢をつがえる。山びこか蜃気楼のようである。天皇が「名のらねば射つぞ」と言うと、こう答えた。
「われは悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城(かつらぎ)の一言主の大神(おおかみ)なり」。
天皇は恐れかしこんで、武器や衣服を捧げて拝んだ。一言主神は天皇を宮まで送って行った。というのが一言主神の話しである。
いったい天皇をひざまずかせた一言主神とは何ものか、「悪事も一言、善事も一言、言離の神」とは何のことか、よくわからない。だが、そのきっぱりとした語調と、一言で善悪を定めるという呪言の妖しさは、たしかに佐美雄を連想させる。
 
文学はここまでにして歴史のことだが、さて、天皇ともあろう方が、何ゆえこの神をかくも丁重にもてなしたか。それは一言主神が古代豪族中の雄とも言うべき「葛城氏」の奉祭する神だったからである。
 葛城氏はそもそも葛城襲津彦(そつひこ)から始まる。襲津彦は神功皇后の命により、(というから4世紀後半のことだが)、新羅の国に遣わされ、ひと暴れして帰国した武人である。その葛城氏が強大な権力を手中にする画期は、第一に、襲津彦が豪腕を振るって娘の磐之媛(いわのひめ)を仁徳天皇の皇后とすることに成功したことであろう。これが画期的であるというのは、臣下の身で、つまり皇族でないのに初めて皇后になったからである。だからのちの奈良時代になって、藤原氏光明子立后する際、唯一の前例として正当化の理由にこの磐之媛の例が持ち出される。
それはさておき、第二に、立后のみならずその子どもたちのうち3人が天皇となったことである。履中天皇(第十七代)、反正天皇(第十八代)、允恭天皇(第十九代)である。葛城氏という実家の強勢もさることながら、この皇后はご自身、かなり強靭な性格らしく、天皇が他の妃を後宮に入れようとしても断固として認めず、古代史上、最大の夫婦喧嘩を展開して、天皇を振り回しておられる。
 その後の天皇についても、允恭天皇のあとはその子である安康天皇(第二十代)、雄略天皇(第二十一代)の兄弟がつづく。磐之媛の孫、襲津彦の曾孫たちである。かくして葛城氏の勢威は、たとえばのちの蘇我氏、さらにのちの藤原氏のようでもあったろう。
 その葛城氏の権勢は、眉輪王(まよわのおおきみ)をめぐる天皇と葛城氏の戦いを機に衰退に向かう。あらましの経緯は、こうである。
安康天皇は臣下の讒言を信じて、兵をやって大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺す。そして皇子の妻を、妃として宮中に入れて寵愛され、ついに皇后とされた。彼女には殺された大草香皇子とのあいだに眉輪王という子どもがおり、皇后はその子を宮中で育てた。あるとき眉輪王は父の殺されたいきさつを知り、安康天皇の熟睡しているところを刺し殺した。一報を聞いた安康天皇の弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこ=のちの雄略天皇)はみずから兵をひきいて出動したが、眉輪王は葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の邸に逃げ込んだ。円大臣は磐之媛の兄弟の子であり、履中、反正、允恭三代の従兄弟にあたる。大泊瀬皇子は円大臣に眉輪王の引き渡しを求めたが、大臣はこれを拒否したので、大泊瀬皇子はさらに兵力を加え、圧力を増した。そこで大臣は「娘の韓媛(からひめ)と家七カ所(宅七区)を献上するので許してほしい」と申し入れた。しかし大泊瀬皇子はこれを許さず、大臣の邸宅に火を放ち、眉輪王も円大臣も殺してしまった。こうして栄華を誇った葛城氏も衰退に向かった。
ところが大泊瀬皇子が即位して雄略天皇となると、円大臣の娘韓媛を妃とし、その間にできた子ども、つまり円大臣の孫を次の清寧天皇(二十二代)とする。これは葛城氏との関係修復ともとれるし、天皇家が葛城氏一族を呑み込んでゆく過程ともとれる。
 また葛城氏には地元をはじめさまざまな支持者がいたはずで、そのトップを滅ぼした後遺症は大きかったに違いない。そこで残された不満分子をなだめるために、天皇は葛城氏の奉祭する一言主神に敬意を示し、協調を演出したのではないか。先の天皇一言主神との物語りは、その証なのかもしれない。
2005年、御所市の極楽寺ヒビキ遺跡で、大型建造物の遺跡が見つかった。大和盆地を見おろす尾根上に位置し、石葺きの護岸のある濠をめぐらせた堂々たる遺構で、葛城氏の往時をしのばせるものであった。(了)

 倭建命




 小碓命(おうすのみこと)は、第十二代、景行天皇の皇子である。
 ある朝、天皇小碓命に「お前の兄は朝夕の食卓に顔を出さないようだが、お前から教え諭しておけ」と言われた。それから幾日か経ったが、一向に兄は顔を見せない。天皇小碓命に「まだ教えていないのか」とお尋ねになると、命は「もう教えました」という。天皇はいぶかしく思われて「どう教えたのか」とお訊きになると、「朝早く、厠(かわや)の外で待っていて、兄が出てきたところを押さえつけて引き裂き、手足をもぎとって、薦(こも)に包んで捨てました」と答えたので、天皇は末おそろしく思われた。
 みずらに結った髪
十六歳のときに、小碓命は九州の熊曽(くまそ)の反逆を鎮めて来るよう、天皇から命じられた。小碓命伊勢神宮で神に仕えていた叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ねて、女ものの衣装をもらって旅立って行った。
 熊曽をひきいていたのは熊曽建(くまそたける)だった。小碓命は、みずらに結っていた髪を降ろし女装して熊曽建の宴の席にまぎれこみ、建を剣で突き刺した。建は小碓命の剛勇に感じて「あなたに倭建命(やまとたけるのみこと)という名前を献じましょう」と言って死んだ。以後、小碓命は倭建命と名のった。
 つぎに天皇は出雲建(いずもたける)の征討を命じられた。倭建命は出雲に着くと出雲建と親しくなっておいて、ある時、木を削って剣をつくり、それを腰に着けて「川で水浴びをしよう」と誘い、ふたりは裸になった。倭建命は先に水から上がって「剣を交換しよう」と言って出雲建の剣を着けた。出雲建は倭建命の木剣を着けた。すると倭建命は「太刀合わせをしよう」と言って剣を抜いたが、出雲建の剣は抜けなかった。かくて倭建命は出雲建を殺して凱旋した。
 天皇はつぎに東国の平定を命じられた。倭建命は倭比売命を訪ねると、こう言った。
 「私は父の命令で熊曽建を征伐し、出雲建を征伐した。それなのになぜ、遠征から帰ってまもないというのに、兵もろくに与えず、東国征伐に行けと言われるのか。父は、私が死ねばいいと思っておられるのです」。
 そう言って泣くのであった。かつての冷酷粗暴な少年は、旅と戦いの過酷な体験に磨かれて、やさしさを知る人間に成長した。だからこそ、父に愛されない悲しみに泣くのである。
倭比売命は倭建命をなぐさめて剣を渡し、また危急のときに開けなさいと、ひとつの袋を渡した。
 こうして倭建命は東国に旅立ったが、相模国ではある豪族にだまされて、野原にいるところに火を放たれた。命は妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)をかばいながら、叔母にもらった袋を開けてみると火打石がはいっていた。剣で草を薙(な)ぎ、火打石で迎え火を放って火の向きを変えて、危機を切り抜けた。
 また房総への海を渡っているときには、暴風雨に遭った。すると妻の弟橘比売は「私があなたの身代わりとなって海の神の怒りを鎮めましょう」と言って、波の上に畳を敷き、その上に飛び降りて夫のために祈り、こう詠んだ。
  さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
  (相模の野の火の中で、仁王立ちになって私を案じ、声をかけて下さった、あなた)
 すると海はおだやかになったが、弟橘比売の姿は海中に没した。七日のちに海辺に比売の櫛が流れ着いた。そこで御陵をつくってその櫛をおさめた。
 帰途、美濃から近江のあたりで、倭建命は疲労はなはだしく歩行もしだいに困難になったが、病身をおしてひたすらやまとを目ざした。そして能煩野(のぼの)に至ったとき、望郷の思いやみがたく、歌を詠んだ。
  やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる やまとし うるはし
  (やまとは国中で最も秀れた所。重なり連なる青い山々に囲まれたやまとは美しい)
 倭建命の絶唱である。こうして、やまとを目前にして命は能煩野で息を引き取った。するとまるで命の魂がなおも故郷を目ざそうとするかのように、命は白鳥と化して飛び立った。人々は嘆き悲しみながら、そのあとを追って行くのだった。
 日本武尊能煩野陵

 『古事記』『日本書紀』には多くの神話や説話があるが、白眉と言うべきは、この一篇である。
 もちろん倭建命の物語は虚構である。まず『古事記』と『日本書紀』を読み比べてみるだけで、多くの矛盾のあることがわかる。主人公「ヤマトタケルノミコト」が実在したかどうかにさえ疑問がある。そして「記紀」全体の成立過程もそうだが、この物語もまた、各地の伝説、豪族たちの伝承、地名説話、歌謡、神社の由緒などを盛り込みつつストーリーにつづったものである。たとえば建部(たけべ)、草薙剣伊勢神宮、白鳥伝説、白鳥陵、大鳥神社などに関する伝承の類が含まれている。
 このように書かれたことを鵜呑みにせずに吟味することを「批判」といって、文献批判・原典批判・史料批判などと使う。「批判」ということを知らないと、神社や寺の由緒書を鵜呑みにしたり、自叙伝に含まれる見栄や言い訳に騙されたりする。歴史はもちろん、すべからく私たちは科学的・合理的でなければならない。
 
 ところで、大学生に漢字の読みをテストしたところ、こんな珍解答があったという。
 ●天照大神――てんてるだいじん(正解はアマテラスオオミカミ)・・・てるてる坊主じゃないんだから。
 ●倭建命――わけんめい(正解はヤマトタケルノミコトの『古事記』の表記)・・・中国人じゃないんだから。
 ●日本武尊――にほんぶそん(正解はヤマトタケルノミコトの『日本書紀』の表記)・・・「ぶそん」は俳人でしょ。
 笑ってしまうけれど、笑いごとではない。日本人として恥ずかしいことである。自国のもっとも古い説話を知らない、そんな国が世界の文明国の中で他にあるだろうか。どうしてこんなことになったか。すべては戦前(アジア太平洋戦争以前)教育へのアレルギーから発している。
 戦前、天皇絶対制を「国体」と称し、日本神話を歴史と道徳を兼ねる絶好の教材として、子どもたちを思想教育した。なぜこれが絶好の教材だったか。『古事記』『日本書紀』は天皇絶対制の歴史的正当性を主張する目的で編纂された。神話は天皇家の血筋を語る前史であり、すべての歴史は天皇の事跡として編纂された。「大王」を「天皇」と変えて聖化し、「やまと」の漢字表記を「倭」から「日本」に変えて美化した時代である。それは中国と対等の立場に立ち、その先進文明に追いつき追い越そうという国家意志の表われだった。「天皇絶対主義への驀進」というその一点において、8世紀初めのあの時代と戦前日本は、国家理念を同じくした。だから「記紀」は絶好の教材なのだ。
 当時の青少年にとって、およそありえない神話や説話の虚構を、真実として教えられる不条理と苦痛は、どれほどのものだったか、思うだけでも痛々しい。そんな洗脳教育は二度とあってはならない。
 だが、「記紀」の神話や説話が日本最古の物語であることは事実である。だから、科学的・合理的な社会科学としての「歴史」ではなく、「文学」として教えるべきである。西洋人は誰でも「狼に育てられた双子の兄弟によってローマが建国された」ことを教えられて知っている。(了)

 卑弥呼の外交

梁書』 


 卑弥呼の外交はすごい。
当時、中国は『三国志』の時代で、日本に近い華北の地は、魏の版図にあった。日本から見ると、朝鮮半島を伝って北上し、そこから魏へ行くには遼東半島を通過しなければならない。当時この遼東半島に、あたかも独立国のように勢力を張ったのが、公孫氏(こうそんし)であった。魏にとっても日本にとっても邪魔な存在だった。ところが魏は238年8月、目の上のこぶだったこの公孫氏を攻め滅ぼしてしまう。すると翌239年(景初3年)6月、卑弥呼は魏に遣いを送って、魏の明帝の歓迎を受けている。卑弥呼は公孫氏の滅亡と、そのおかげで魏への交通が楽になったことを情報として知っていたのである。そういう大陸の政治状況を見極めて、すばやく対応した外交手腕は鮮やかである。
卑弥呼は「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」とあるために、未開野蛮な女酋長みたいなイメージを持たれがちだが、そういう「宗教的状況」と「文明の進歩の度合い」とは次元の違うものである。その証左として、現代的なビルの屋上に古色蒼然たる神社が祀られているという事例を挙げておこう。
こののち卑弥呼ないし倭王は魏と頻繁に交流しているが、265年に魏が滅亡し西晋が起こると、さっそく翌266年、倭の女王(おそらく壱与)は西晋に遣いを出して貢献している。これまた的確な外交である。
ところで「記紀」の伝承によれば、応神天皇のときに百済王仁博士が『論語』と『千字文』を持ってきた、これがわが国への漢字伝来の初めだという。そんなことはないでしょう、と私は思うし、多くの専門家もそう言う。王仁博士の話しは漢文の権威を招請したという話しであって、漢字はそれ以前から伝わっていただろうと。そう言いながら、専門家は、王仁博士と漢字が来たのは、応神天皇が実在したとして、5世紀前半のころのこと、まあそれより前に漢字は来ていたでしょう、としか言わない。つまり漢字をつかって日本語が書かれるのは5世紀からというのである。
それではそれより200年以上前の3世紀の卑弥呼の遣いは、魏の皇帝に漢字で書かれた国書を捧げなかったのだろうか。魏の皇帝から鏡や印をもらっても、そこに刻まれた漢字が理解できなかったのだろうか。そんなバカな話しはない。もちろん公式な国書の漢文は中国の専門家をやとって書いてもらっただろうが、邪馬台国の政治中枢には日常的に漢文を読み書きできる人はたくさんいたに違いない。
と言うと、そこはちょっと違う、と反論があるでしょう。中国語としての漢字の読み書きはできたとしても、日本語の話し言葉を漢字で表記するという発明は、まだなかったのではないか、と。しかし、日本の話語を漢字で表記することが、そんなに突拍子もない大発明だろうか。現に、倭人が日本語の話し言葉で「ナの国」と言えば、中国人は「奴」と漢字で書いているではないか。「ヤマト」と言えば「邪馬台」と書いているではないか。それを自分たちも使うだけのことで、そんなことはすぐにできるし、やっていたにちがいない。卑弥呼邪馬台国を未開野蛮とバカにしないでほしい。
たとえば私たちは、「縄文時代」を未開野蛮な時代と想像していたが、その集落の巨大にして整然たる構造に唖然とし、巨大な柱あとが出土するとその建築技術の高さに驚き、編布(あんぎん)という布が各地で出土すると縄文人の衣服のイメージを一新させられ、骨でつくった釣り針の反り(かえり)や漁網を見てその智恵の深さに目を見張り、食生活の豊かさに感心させられてきた。新発見があるたびに、それまでの想像を上回る文明の高さに驚かされてきた。
いま、弥生時代についても、その始まりを数百年さかのぼらせるべきだという提言が学者から出ている。これまで水田稲作の始まりは紀元前5世紀から4世紀のころとされてきたが、それを紀元前1000年までさかのぼらせるべきだという。その当否はともかく、研究が進めば進むほど、古代は想像をつぎつぎと裏切って文明度の高さを明らかにしてゆくものである。今後、邪馬台国も想像以上に進歩した国だったことがわかってくるだろう。

 それでは、邪馬台国をもっと文明度の高いものとしてイメージすると、どうなるだろう。おそらく初期の大和朝廷の在り方とダブってくるだろう。
私の結論を先に言うと、邪馬台国大和朝廷の原初の姿だと思う。
 
 『魏志倭人伝』を読もう。
倭国」はもと男王だったが、倭国が大いに乱れたため、「共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」。
 ここで注を入れると、「倭国」とは「倭人の住む国」という意味で、いわば漠然と、中国から見た日本列島全体のことと思っていただきたい。そして倭国はまだ完成された統一国家になっておらず、もともとの百余国から、各地で統合を重ねて、ざっと三分の一くらいの数にまとまってきていた。「連合国家としての倭国」へと進んでいたのである。この「連合国家倭国」は、はじめ男王を立てていたが、互いにあい争う戦国時代になった。「倭国大乱」である。やがて和平の機運が訪れて、今度は「一女子」を「共立」して、つまり「共にいただいて」やっと平和を回復した。その女王の名が卑弥呼である。
 ここにご注意いただきたい。卑弥呼は「倭国の女王」なのである。もっと言えば「邪馬台国の女王」ではないのである。邪馬台国は「女王の都するところ」にすぎない。卑弥呼邪馬台国に都を置いていた、つまり居住していたけれども、その地位はあくまでも「倭王」なのだ。卑弥呼は「親魏倭王」、つまり魏の冊封体制に直接的に属する倭国王であった。
 倭の諸国は、「(魏と)使訳通じるところ三十国」(魏と外交関係のある三十国)とあるように、三十国それぞれが、あたかも漢代の「漢倭奴国王」(漢に属する倭に属する奴国)のように、おのおの魏と通じていた。それに対して「親魏倭王卑弥呼は「魏に(直接的に属する)倭王」であって、諸国王とは一段上の立場にあり、決して「親魏倭邪馬台国王」ではないのである。
 というのは私の独断と偏見である。人はこう反論するだろう。邪馬台国を女王国とも言っているではないかと。その通り、中国の文献では倭国邪馬台国がしばしば混用されているのである。なぜそんな混用が生じたかを説明しなければならない。
邪馬台国は、倭国を形成する三十国の中で、もっとも強大な国だった。共立された卑弥呼は、その邪馬台国に都を置いた。日本列島に成立したこのような国家を、近年、学者たちは「邪馬台国連合」と呼ぶ。そして邪馬台国は女王の宮処(みやこ)する連合の中心地となることによって、他のどの国よりも強く大きいというそれまでの比較級のレベルを超えて、最上級の圧倒的・絶対的な存在になっていったのだろう。
私は「邪馬台」は「ヤマト」の音写だと思う。そして邪馬台国奈良盆地にあったと思う。ヤマト(=邪馬台国)が版図を拡大し、倭国(わこく)全体に対する支配を拡大してゆくと、「ヤマト」は「倭」と同じことになり、倭(わ)と書いて「ヤマト」と読むようになった。そしてのちに「倭」の文字を嫌って「和」に変更し、ヤマトは「大和」になっていった。この過程はつまりヤマト朝廷の発展過程をなぞっただけである。
 つまり卑弥呼を「倭王」とも言い、邪馬台国を女王国とも言うのは、もともと別の概念だった「倭」と「邪馬台国」が、「邪馬台国=倭=ヤマト」と変わっていったせいであって、中国文献の誤解でも混同でもない。
 要するに、私は、邪馬台国とその時代の文明度をもっと高度なものと考えれば、それはヤマト朝廷の始まりになる、と言うのである。
だいたいあの邪馬台国の行程記事を見れば、あれが狭い九州の中におさまるはずがないではないか。それに邪馬台国が奈良でないとすると、そんな強大な国が、その後、いったいどこに消えたというのだろう。(了)