[感動日本史] 軽皇子と鎌足

 (承前)鎌足神祇伯を固辞したという『日本書紀』の記事は、そのあと、段落を変えずに、こうつづく。
 「(鎌足が勤めを休んでいた)ちょうどその時、軽皇子(かるのみこ=のち孝徳天皇、このころ48歳)も脚の病で朝廷を退いていた。鎌足は以前から皇子と親しかったので、お見舞いに行った。皇子は、鎌足が『意気(こころばえ)高くすぐれ、容止(立ち居振る舞い)犯(おか)しがたきこと』を知っておられたので、鎌足に対してきわめて丁重なおもてなしをされた。帰りぎわに鎌足は、皇子の従者に、望外のおもてなしを受けた感謝の言葉とともに、『皇子が天下の王となられることに、誰が逆らえようか』と言った。それを従者から伝え聞かれた皇子は大変よろこばれた」。
 私はここでも、アレッと、読みとどまってしまう。
 往々にして歴史の本には、こう説明されているからである。
 「鎌足は事を共にする人物を皇族の中に求め、まず軽皇子に当たったが、さほどの人物ではないと見て、中大兄皇子に白羽の矢を立てた」と。
 しかし「書紀」の文章は上記のとおりで、軽皇子の人物が鎌足にとってはもの足らなかったなどと、どこにも書いてない。天皇として不足なしと書かれているのみである。それではどうして、「軽皇子は気に入らなかったので、中大兄皇子にした」などという説が出てきたのだろうか。その理由は、先を読み進むとわかる。
 「書紀」の文章はここまでが第一段落になっていて、次の第二段落は改行して始まる。ここで鎌足の人物像が短く描写される。
 「(鎌足は)人となり忠正にして匡済(きょうさい)のこころあり」(まごころのある正しい人で、乱れを正し救済しようとするこころがあった)。
 「そのため蘇我入鹿が君臣長幼の序を破り、国家を我が物にする野望を抱いていることを憤って、王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」というのである。
 第二段落はまだつづくが、ここで一休みする。アレッと思うからである。
 というのは最初からここまで読んで気づくことは、第二段落がまるでストーリーの冒頭部分のような書き方になっていることである。特に簡潔な人物像の描写が、冒頭部分の雰囲気なのである。
 「書紀」は歴代天皇記の体裁をとっているが、おのおのの天皇の冒頭の書き方には一定のパターンがある。まずその天皇の祖父母・父母などの系図(出自)を書き、つぎにその人物像を簡潔に書くことが多い。
 例えば仁徳天皇は「幼くして聡明叡智にして、貌容(ぼうよう)美麗にまします。壮に及びて(成年に達してからは)、仁寛慈恵(思いやりがあり、情け深い)にまします」。
 それに対して悪名高い武烈天皇は「刑理(刑罰の理非の判定)を好み、法令、明らけく(法令に通じ)」はいいが、「諸悪をいたし一善をもおさめたまわず。およそもろもろの酷刑、親覧したまわずということなし」(悪事ばかりで善いことはひとつもなさらなかった。残酷な刑はすべて自分でご覧になった)とさんざんである。
 というわけで、鎌足の人物描写があることで、物語の始まりのような雰囲気になっている。
 つまり、入鹿暗殺の物語は、もともと第二段落の鎌足人物寸評から始まっていたのに、あとから第一段落を追加したのではないか、と私は思う。「書紀」の編者は、思えば鎌足が反蘇我の態度を示したのは、あの神祇伯を固辞したときが最初だったのかもしれないと、あとで考えついたのだろう。軽皇子との経緯についても同様に、軽皇子の即位(孝徳天皇)は、早くから鎌足の胸中にあった案だったのではないかと、あとで思いついたのだろう。そしてそれらを冒頭に付け足したのではないか。
 その結果、軽皇子の病気見舞いの話しのあと、「(鎌足は)王の一族の人々に接しては次々と試し、ともに事を起こす君主を探し、中大兄にこころを寄せた」とつづくことになり、読者はそのふたつの話を一緒くたにしてしまい、つぎつぎと王族に会ったなかに軽皇子もいたが、結局、中大兄皇子に決めたんだな、と誤解してしまったのである。
 鎌足が、軽皇子の人がらを低く評価したなどと読み誤っては、おふたりに対して失礼であろう。(つづく)

 鎌足と仏教

  鎌足肖像

 

 入鹿暗殺事件は、登場人物といい舞台といい、これほど豪華でドラマティックな物語はない。『日本書紀』も歴史書としての冷静な筆致を忘れて、詳細に描写している。ただ、繰り返し読むほどに「なぜ」と引っかかる個所がいくつか出てくる。

 最初の「なぜ」は、物語の書き出しである。
 「皇極三年春正月、中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ、鎌足の前の名前)を神祇伯に任じたが、再三固辞して就かず、病と称して退いて三島(摂津国三島郡)の家にいた」。
 鎌足は「なぜ」神祇伯を固辞したのだろう。
 そもそも中臣氏は神話時代からの名家で、その職掌は日本固有の神を祭ること、いわば朝廷における神主さんの総元締めである。別の史料では「(鎌足は)宗業を嗣(つ)がしむるに固辞して受けず」とある。家業を継ぐことを拒否して、しかも朝廷に出なくなったというのだ。理由は何も書いてない。
 鎌足の父は中臣御食子(みけこ)といい、大臣蘇我蝦夷(えみし)のもと、おそらく神祇伯といった肩書きを持つ高級官僚のひとりとして活躍した人で、「書紀」にも登場する。当時、最大の事件は推古天皇没後の皇位継承問題である。このとき田村皇子(のちの舒明天皇)を推したのが蘇我蝦夷、山背(やましろ)大兄皇子を推したのが蘇我境部摩理勢(そがのさかいべのまりせ)である。中臣御食子蘇我蝦夷に組して田村皇子を推しているし、反対する境部摩理勢を説得する役もつとめている(628年)。「書紀」の記述全体の調子からは、蝦夷のお先棒をかついで走り回っているようにも見える。
 さかのぼれば、中臣御食子の前の世代に、中臣勝海(かつみ)という人がいた。御食子の父なのか叔父なのか、系図は不詳だが、世代としては一世代前の人である。当時、仏教伝来に対する国論が二分し、崇仏派の巨頭が蘇我馬子(大臣)で、それに対して排仏派が物部守屋(大連)であり、これに組したのが中臣勝海(大夫=まえつきみ)だった。馬子と守屋の争いには権力争いの一面もあるだろうが、勝海の場合、排仏は職掌上当然だったとも言える。しかし勝海は馬子の手の者に斬り殺されてしまった(587年)。といういきさつを見ていた次の世代の中臣御食子が、蘇我蝦夷に対して卑屈なまでに追従したとしても不思議はない。
 そんな御食子を息子の鎌足はどう見ていたのだろうか。父と同じように蘇我氏の驥尾に付して高級官僚の道を進もうと思っていたのか。それともますます圧力を高める蘇我氏独裁に反発の憤りをつのらせていたのか。結果的には後者の心境だっただろうと推察できるが、しかし、入鹿暗殺は奇想天外の大事件であり、大博打である。よほどの覚悟を決めなければならない。「皇極三年春正月」(644年)、30歳にして、入鹿独裁政権から神祇伯を命じられたことは、鎌足にとっては旗幟を鮮明にせよと踏み絵をつきつけられたような精神状態に追い込まれたのではないか。役目を固辞し病と称して引きこもるという行動は、反独裁政権の立場を明らかにし、ひそかに革命計画を立案する、その第一歩だったのであり、だからこそ「書紀」も、乙巳(いっし)の変の物語をここから始めているのである。
 以上、鎌足神祇伯固辞の理由が、先々代の死にざま、先代の生きざまへの苦々しい記憶に根ざした蘇我独裁体制への嫌悪にあったのではないかという推理を述べた。

 さらにここで、もうひとつの理由を挙げてみようと思う。
 結論を先に言うと、鎌足は仏教を信仰していたのではないかと思うのだ。
 鎌足南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾に通ったという。請安は唐への留学から帰国したばかり(640年)の人である。鎌足は請安先生から、先進大国である唐の最新知識をむさぼるように吸収する最先端の知識人だったのであり、この時代、そのような知識人の多くは仏教受容派だったと思う。また請安から儒教を学んだというが、請安は本来「学問僧」である。鎌足の師匠が僧であることを忘れてはならないと思う。
 ところで、鎌足の子といえば不比等だが、実はその上に長男の定恵(じょうえ・貞慧)がいた。彼は643年生まれ、11歳で渡唐、12年後に帰国するが、すぐに亡くなってしまう(666年)。この定恵は僧である。家庭に仏教を崇敬する雰囲気があったと仮定すれば、長男が僧になったことは納得しやすいのではないか。
 また藤原氏の氏寺として有名な興福寺のこともある。興福寺の前身は、京都山科の鎌足の私邸に建てた山階寺(やましなでら)だった。この寺は669年、死を目前にした鎌足の病気平癒を祈って夫人鏡女王が建てたものだ。ところが、その寺の本尊の釈迦三尊像は、645年ごろ、つまり乙巳の変のころに鎌足がつくらせた仏像だという。鎌足は早くから私邸で仏像を礼拝していたのである。「神祇の家」で仏像を祀ることは世間をはばかることだったに違いない。それでも仏像を祀りたかったのだ。そして二十数年を経て、死を前にして、ついに寺を建てたのである。
 もうひとつ、648年(大化4)、法隆寺に食封(じきふ)三百戸が施入されていることをとりあげたい。つまり法隆寺に三百戸の税を収入として与えるという意味である。この決定が下されたのは、大化の改新といわれる新政治が進行し始めた状況下である。いったい誰の発案だったのか。私は、これを孝徳天皇の発案だと思う。
 孝徳天皇軽皇子)は「仏法を尊び、神道をあなどりたまふ(軽視する)」方であった。そしてのちに述べるように、鎌足軽皇子の即位前、もっと言えば中大兄皇子と会う以前から、「かつて軽皇子と善(うるは)しくありき(親交があった)」という。そして鎌足軽皇子も仏教受容派だったのである。
 法隆寺援助は孝徳天皇の発案だったと思われるが、鎌足もこの案の推進者のひとりだったのではないかと思う。無論、想像にすぎないが、もし、そうであれば、孝徳天皇鎌足も、厩戸皇子聖徳太子)を尊敬していて、その子、山背大兄皇子が蘇我入鹿によって死に追いやられた事件、世間から尊崇の念をもって仰がれていたあの上宮王家(じょうぐうおうけ)滅亡の事件を、痛切な衝撃をもって聞いたに違いない。ひるがえって入鹿の所業を憎悪し、許せなかったに違いない。こういう状況の中で、鎌足は入鹿政権から神祇伯に推され、これを固辞し、いったん朝廷から身を引き、クーデタ計画へと突き進んだ。そして事成ったあかつきに、いたましい法隆寺に対して、新政権として支持と援助の方針を示したのが「食封三百戸施入」ではなかったか。
 鎌足は「宗業を嗣(つ)がしむるに固辞して受け」なかった。「中臣といえば神祇の家柄」であり、そんな自分の家柄が、いやだったのではないか。その根本にこころの問題として、仏教への帰依があったのではないか。こころで仏教に帰依しながら、日本固有の神々を祀ることを職とする矛盾は耐えがたかろう。加えて子孫の未来を考えるに、神祇という職掌に限定されずに自由に活躍できる方がいい。
 鎌足の死の前日、病床を見舞った天智天皇は、鎌足に「藤原」の姓を与えた。「藤原」は地名にすぎず、格別、由緒ある名前だったとも思えない。むしろこれは鎌足が望んだことで、要するに神祇と結びついた「中臣」の姓がいやだったからではないだろうか。かくして天皇の意向という形で中臣の姓を捨て、神祇から解放されて、晴れて仏教の徒となったのである。
 その後、藤原一族は、職掌に依存するスペシャリストではなく、天皇側近のゼネラリスト政治家として、隆盛を重ねていったわけだが、それも鎌足の深慮遠謀のおかげだったことになる、といえば褒めすぎだろうか。(つづく)

 蘇我氏四代


 

 中大兄皇子は、なぜ蘇我入鹿を殺したのか。
 大きな流れから見ると、それまでは天皇権力と豪族勢力のせめぎあいの時代であった。もっとも豪族勢力といっても蘇我氏が豪族たちの中で抜きん出た存在になると、蘇我氏天皇権力とは直接対峙の様相を呈することとなった。その争いにいったん終止符を打って天皇側の勝利に終わらせたものこそ、入鹿暗殺事件=「乙巳(いっし)の変」だった。
 天皇権力と蘇我氏との闘争の実態を、蘇我氏歴代から観察してみよう。

 蘇我氏発展の基礎を築いたのは、蘇我稲目(そがのいなめ)である。大伴金村失脚のあと蘇我稲目物部尾輿(もののべのおこし)の二大勢力となり、欽明朝の仏教受容問題などで両者の対立は深まる。その間、稲目は、二人の娘、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇に嫁がせる。この布石は大きかった。のちに堅塩媛の子ふたりと小姉君の子ひとりの計3人が天皇になったのだから。

 二大勢力対立の図式は次の世代に持ち越され、蘇我馬子(うまこ)と物部守屋(もりや)となる。欽明天皇(29代)のあとの敏達天皇(30代)崩御後、馬子は用明天皇即位(31代)に成功する。用明天皇は堅塩媛の子で馬子の甥である。ところが用明天皇は即位後わずか1年半で亡くなってしまう。この計算違いから血なまぐさい皇位継承争いが起こる。すなわち物部氏穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推す。この皇子は蘇我稲目欽明天皇に嫁がせた小姉君の子であるが、蘇我氏よりも物部氏と親しかったのである。蘇我馬子穴穂部皇子を殺し、いよいよ物部守屋との一戦となる。物部氏はそもそも軍事貴族だったからさすがに強く、蘇我氏はてこずった。蘇我氏に組する厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子)が四天王に戦勝を祈願したのはこの戦いのときである。馬子は勝利し豪族中の独裁的権力をつかんだ。
 さて次の天皇だが、馬子は、殺害した穴穂部皇子の弟(母は同じ小姉君)を推した。崇峻天皇(32代)である。ところが崇峻天皇は、数年たつと、馬子が政治の実権を握っている実態に次第にいらだってきた。あるとき猪(いのしし)が献上されてきたのを見て、天皇は「いずれの時にか、この猪の頸(くび)を断つがごとく、わが嫌(いとは)しみする人を断たむ」(いつか嫌いな人の首を切ってやる)と言い、多くの武器を準備させる様子はただごとではない。それを聞いた馬子は、殺られる前に殺れとばかりに、天皇暗殺を決意、「すなわち東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、天皇を殺(し)せまつらしむ」。正史に天皇殺害が明記されている例は他にない。そして馬子はその月のうちに東漢直駒を殺す。馬子の娘をさらったというのがその理由だった。
 このあとの天皇をどうするか。薗田香融先生によれば、天皇候補者の筆頭にあげられるのは、敏達天皇の子、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)であった。ところが馬子は、この皇子とウマが合わない。シャレではなく、蘇我氏の血を引かない皇子だから、天皇にしたくない。そこで緊急避難的に、亡き敏達天皇の皇后(堅塩媛の娘)を推古天皇(33代)として即位させた。史上初の女帝である。だが、推古女帝に万一のことがあった場合を予想すると、本命の押坂彦人大兄皇子が即位したのでは、馬子としては女帝擁立という荒わざが水泡に帰してしまう。そこで蘇我系の厩戸皇子聖徳太子)を皇太子として次期天皇の座を約束し、押坂彦人大兄皇子即位の芽を完全に摘んでしまったのである。ただ押坂彦人大兄皇子の系譜は脈々とつづき、蘇我氏の血を引かない「敏達系」として、蘇我氏への対抗軸を形成してゆく。
 さて推古女帝・厩戸皇子蘇我馬子トロイカ体制で、馬子はひと安心しただろう。ところが世の中は思いどおりにゆかないもので、推古女帝が生きているうちに、厩戸皇子の方が先に亡くなってしまう。622年のことである。その4年後(626年)には蘇我馬子が亡くなって蘇我本宗家は蝦夷(えみし)が継ぐ。そして2年後(628年)、推古女帝の崩御を迎える。推古女帝は「わがために陵(みささぎ)をたてて厚く葬(はぶ)ることなかれ。すなわち竹田皇子の陵に葬るべし」と遺詔した。竹田皇子とは推古女帝の子である。女帝は、甥の厩戸皇子を皇太子として、三十数年、天皇の責務を果たしたけれど、実は心中ふかく、若くして世を去ったわが子を常に思っていたのだろう。

 さて、後継者と目されたのは、厩戸皇子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)と、押坂彦人大兄王の子である田村皇子である。
 蘇我蝦夷はここで山背大兄皇子を押すのが当然であろう。厩戸皇子は父も母も蘇我氏の血を引いており、さらにその厩戸皇子と馬子の娘(刀自古郎女、とじこのいらつめ)との間にできたのが山背大兄皇子なのだから。ところが蝦夷はこれを嫌って田村皇子に肩入れした。父の馬子があれほど忌避した押坂彦人大兄皇子の子で蘇我氏の血は入っていない。なぜ田村皇子を推したかというと、田村皇子は非蘇我だが、その妃が蘇我馬子の娘(法堤郎女、ほてのいらつめ)で、二人の間には古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)がいた。つまり次の次をねらったのである。
 すべては独裁者である蝦夷の思いどおりになったかというと、そうはいかない。蝦夷の叔父にあたる蘇我境部摩理勢(そがのさかいべのまりせ)という実力者がいるのだが、これが山背大兄皇子の後ろ盾となっていた。蝦夷は山背大兄皇子の力を削ぐため、また蘇我一族内で目の上のこぶ的存在だった叔父摩理勢を殺す。かくして田村皇子が即位(629年)、舒明天皇(34代)である。
 たしかに舒明天皇には馬子の娘が「妃」に入っていて古人大兄皇子が生まれていた。しかし舒明天皇の「皇后」となった宝皇女(たからのひめみこ)は、敏達天皇――押坂彦人大兄皇子――茅渟(ちぬ)王(舒明天皇の弟)――宝皇女となり、つまり姪が叔父に嫁いだわけで、天皇にも皇后にも蘇我の血がまったく入っていない、いわゆる敏達系なのである。しかも天皇と皇后のあいだには男子が生まれていた。それが中大兄皇子である。
 舒明天皇は治世十三年ののち亡くなるが、中大兄皇子舒明天皇の殯(もがり=本葬の前の仮りの祭り)において、16歳にして誄(しのびごと=弔辞)を述べており、このとき「東宮」(皇太子)と書かれている。
 舒明天皇没後、皇位継承候補者は、蘇我系の古人大兄皇子、厩戸皇子の子の山背大兄皇子、それに中大兄皇子天智天皇)である。ただ中大兄皇子の16歳は、当時としては若すぎて天皇にはなれない。蘇我蝦夷・入鹿父子と皇后宝皇女の間で協議が行われた結果、推古女帝の先例にならって「皇后の即位」で妥協がはかられたのだろう。これが皇極女帝である。ただ推古女帝と皇極女帝には決定的な違いがある。推古女帝が蘇我系であったのに対して、皇極女帝は敏達系であることだ。

 蝦夷は馬子と比べればおとなしい方だが、息子の入鹿は鼻息の荒い男だったようで、皇極2年、古人大兄皇子の即位をあせり、ついに実力行使に出た。山背大兄皇子を攻撃、自殺に追い込んだのである(643年)。それを聞いた父の蝦夷は「入鹿はなはだ愚痴にして、もっぱら暴悪をおこなえり」と嘆いたという。しかし中大兄皇子には、入鹿の身を焼かれるような焦りが、手にとるようにわかった。中大兄皇子は入鹿殺害を決意する。「入鹿の次の標的は自分だ。とすれば座して死を待つわけにはいかない」。かくて「乙巳の変」に至るのである。

 蘇我氏四代を総括してみると、馬子が傑出したやり手だったことがわかる。穴穂部皇子を殺し、物部氏を滅ぼし、前代未聞の天皇暗殺までやりながら、お咎めなしで済ませ、前例のない女性天皇を実現させた豪腕の持ち主である。次の蝦夷蘇我境部摩理勢を殺したが、山背大兄皇子本人には手をつけなかった。これを自殺に追い込んだのは入鹿だった。

 この間、天皇権力側も手をこまねいて蘇我氏の所業をながめていたわけではない。まず厩戸皇子憲法十七条を読むと、その第一条「和をもって貴(とうと)しとし、忤(さからう)ることなきをむねとせよ」にせよ、第三条「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」(天皇の言葉に逆らうな)にせよ、天皇の権威高揚を意図したものに違いない。
冠位十二階も天皇が任命するもので、豪族に対して天皇の権威を高めるものである。ただし、大臣は十二階の最高位(大徳)より上で、したがって大臣蘇我馬子は序列化の対象にはならない。厩戸皇子と馬子のかけひきの末の妥協のようにも見える。厩戸皇子蘇我氏の血を引いているけれども天皇の権威を保持し高揚させるために、よくがんばったのではないだろうか。
 推古女帝もよくがんばったようで、馬子が天皇領である葛城県(かづらきのあがた)を賜りたいと申し出たとき、こう言った。
「われは蘇何(そが)よりいでたり。大臣(おおおみ=馬子)はまたわが舅(おじ)たり。故(かれ)、大臣の言(こと)は、夜に言(まお)さば夜も明さず、日(あした)に言さば日も晩(くら)さず、何(いずれ)の辞(こと)をか用いざらむ。」
(私は蘇我の出で、大臣は叔父でもある。だから大臣の言うことは夜であれば夜の明けぬうちに、朝であれば日の暮れぬうちにどんなことも聞き入れてきた。)
「しかるを、今しわが世にして、にわかにこの県(葛城県)を失いてば、後の君ののたまわまく『愚痴の婦人(めのこ)、天下に臨みて、にわかにその県を亡ぼせり』とのたまわむ。あにひとりわれの不賢のみならむや。大臣も不忠になりなむ。これ後葉(のちのよ)の悪名(あしきな)ならむ」
(それなのに私の治世にこの県を失ったら、のちの天皇は「おろかな女が天下を治めたためにその県を滅ぼしてしまった」と言われるでしょう。しかも私ひとりの愚行では終わらず、大臣もまた不忠と言われますよ)
そう言って、馬子の野望をくじいてしまった。蘇我氏天皇家との板ばさみに苦悩する推古女帝の姿はいたましい。

 蘇我氏天皇家と血縁関係を深め同一化する中で権力を強化しようとし、非蘇我の敏達系は蘇我氏の血を拒否し純粋天皇家を守ろうとした。その闘争史のひとつの決着が「乙巳の変」だったのである。(了)

大化の改新


むかしは「大化の改新、むし5ひき(645年)」などと暗記して、645年の入鹿謀殺によって改新の幕が切って落とされ、翌年、「改新の詔(みことのり)」が発表されて新政策が打ち出された、と教わってきたものですが、最近はそう単純にはいかず、話しがややこしくなっておるようです。
 最大の問題は「改新の詔」で、これは後世の作文だろうということになり、「大化の改新はなかった」と極論する学説まで出た。
「改新の詔」の最初は「公地公民制」で、王族や豪族たちに私有地・私有民を持つことを禁止したもの。第2に、京師(けいし)、畿内、国・郡・里という地方行政単位を定めた。第3に、戸籍・計帳(里、郡、国ごとに税を集計した帳簿)をつくり、班田収受法を実施した。第4に、それまでの税制を廃止して、新税制にあらためた。
 まだまだ続くのだが、これらは一つだけでもきわめて革命的な施策で、これらすべてを一挙に計画し発表したなどとはとても思えない。ましてやその実行となると、たとえば戸籍が実際にできたのは「庚午年籍(こうごねんじゃく)」で、670年、「改新の詔」からざっと24年経っている。

 
 「改新の詔」の真偽論争の中で、もっともドラマティックだったのは「郡評(ぐんぴょう)論争」である。それは「改新の詔」の第2番目の「国・郡・里」に関することで、東大の井上光貞先生が提起された(1951年)。要点はこうである。
 「郡」は「こおり」と読むが、この時期(646年)の金石文など「書紀」以外の史料では「こおり」を「評」と書いている。だから「改新の詔」に「郡」と書いてあるのは、「書紀」編纂時(720年完成)の「こおり=郡」を当てはめたものではないか、と。もしそうならば「改新の詔」は後世の偽作だという話しにも広がりかねないと考えられた。
 これに反論したのが、同じ東大の坂本太郎教授、すなわち井上光貞先生の恩師である。天下の東大で師と弟子が論争を始めたのだから、学界は手を叩いて喜んだ。ただこれは私情を抜きにした純学問上の論争であるから、すがすがしい話である。むろん論争は二人の間で交わされただけでなく、多くの学者が参加した。
 えてして論争というものには明確な結論が出ない場合が多いのだが、このケースでは明快なジャッジが下された。藤原宮遺跡から出土した木簡を整理した結果、「大宝律令」(701年)以前の木簡には「評」と書かれていた。たとえば「己亥年(699)十月」の木簡に書かれた「上挟国阿波評松里」の「評」、あるいは「庚子年(700)四月」の木簡に書かれた「若佐国小丹評木ツ里」の「評」のごとしである。これに対して「大宝律令」の翌年にあたる「大宝二年」と書かれた木簡の裏に「尾治国知多郡」と「郡」と書かれている。だから「大宝律令」によって「評」が「郡」に変更されたと考えられ、ゆえに井上光貞先生の勝ちとなった。木簡のすごみはここにある。多くの考古資料では絶対年代がわからないのに対して、木簡は年代が明記してあるのだから、文句のつけようがない。
 この論争全体を関西大学薗田香融先生が簡単に総括されているが、それを私流に俗っぽく表現すると、「評」と書こうと「郡」と書こうと、「こおり」の実態は存在していたのだから、「書紀」編纂時点で「評」という文字を機械的に過去にさかのぼって「郡」と書き直したということがわかっただけのことで、それがどうした、というのである。つまり、一字の違いが、「改新の詔」の真偽に関わるというので、大論争になったけれど、それとは関係ないでしょう、ということである。泰山鳴動ネズミ一匹である。しかしいまだに「郡評論争」が「改新の詔」の真偽を決定づけたように誤解されているようだ。


 ところで「改新の詔」はまったく架空の作文かというと、そんなことはない。少なくとも「改新の詔」のもとになった「原詔」はあっただろうし、たとえば税制改革など、いくつかの改革は確かに実行されている。
 いまでは、645年に入鹿が殺された政変を「乙巳(いっし)の変」と呼び、「大化の改新」という言葉はそのあとの政治改革を指す。その改革の内容は縷々のべてきたように、さまざまな注釈つきとなり、話がややこしくなっているのである。
 付記すると、「推古朝の改革」は大和朝廷の改革であり、地域で言えば畿内を中心とした改革であったのに対して、「大化の改新」は全国規模の改革であった。また「推古朝の改革」が官人など上層階級の改革だったのに対して、「大化の改新」は庶民層まで広がる改革だった。(了)

 聖徳太子の思想

 聖徳太子の仏教思想とはどんなものだったか。
 太子の著作と言われる『三経義疏(さんきょうのぎしょ)』とは、三つのお経に注釈をほどこしたもので、その三つのお経とは『勝鬘(しょうまん)経』『維摩(ゆいま)経』『法華経』である。ここでは「勝鬘義疏」の一節を取り上げてみる。
 まず、注釈の対象になった『勝鬘経』の本文は次のとおりである。
 「世尊(せそん)よ、恒沙(ごうしゃ)に過ぐれども、不離と不脱と不異と不思議との仏法を成就するを、如来法身(ほっしん)と説く。/世尊よ、是の如く如来法身の煩悩蔵(ぼんのうぞう)に離れざるを、如来蔵(にょらいぞう)と名づく。/世尊よ、如来蔵智は、これ如来空智なり」(原漢文)
 この三つの文はすべて「世尊よ」で始まっている。「世尊」とはお釈迦さんのことで、この経典は勝鬘夫人が自分の悟りえた境地をお釈迦さんに対して語りかけるという形式になっている。だからことごとに「世尊よ」が出てくるのだが、「義疏」では、この「世尊よ」を省略している。
 さて、聖徳太子の注釈=「勝鬘義疏」は次のとおりである(早島鏡正氏による現代語訳、「日本の名著」『聖徳太子中央公論社より)。

 ≪第一に、「恒沙に過ぐれども、不離と不脱と不異と不思議との仏法を成就するを、如来法身と説く」というのは、如来蔵はすなわち法身であるということである。「恒沙に過ぐ」というのは、煩悩が恒沙の数以上に無数にあるということを示している。「是の如く如来法身の煩悩蔵に離れざるを、如来蔵と名づく」というのは、法身はすなわち如来蔵であるということである。/第二に、「如来蔵智は、これ如来空智なり」というのは、真実を観察する智慧をとり挙げて、如来蔵と法身とが一体であることを証明する。つまり、智慧は本来一つのものであるから、智慧がとる観察の対象に二つのもののあろうはずがないことを明らかにしている。如来蔵は、まだ煩悩を離れていないから、不空のものであり、法身はすでに煩悩を離れているから、空のものである。だから、如来蔵を観察する智慧を「如来蔵智」といい、法身を観察する智慧を「如来空智」と呼ぶ。両者のうちいずれを観察するにしても、智慧そのものは最終的には一体の智慧である。このように、観察する主体としての智慧が一つのものであるならば、観察される対象もどうして異体のものでありえようか。≫

 いったい何を語っているのか、とても私ごときの能力では理解できないが、以下、素人の当てずっぽうながら、この中のいくつかの言葉について、私なりの注釈を綴ってみよう。
 まず「如来」という言葉であるが、仏像をグループ分けすると、如来・菩薩・明王・天部の四つに分かれる。如来は釈迦如来をはじめ、阿弥陀如来大日如来薬師如来などであり、菩薩は観音菩薩地蔵菩薩などである(以下の明王・天部は省略)。で、如来は最上位に位置し、悟りを得た人、すなわち本来の意味での「仏」である。それに対して、目下、修行中、悟りを開いていない人、如来になる前の人が菩薩である(ただし一般的に「仏さん」といえば菩薩・明王・天部すべてをひっくるめた広義の呼び方である)。
 それはさておき、本来の意味での、つまり狭義の「仏=如来」は三つの形をとるとされる(三身説)。法身・報身・応身である。「法身」とは、仏の本性たる「真理そのもの(抽象的存在)」を指していて、「仏性(ぶっしょう)」とも言う。「報身」は仏性のもつ属性、働きであり、「応身」はこの世に姿を見せて悟りを得た釈迦の姿である。
 以上は、先ほどの「勝鬘義疏」の一節に出てきた「如来法身」という言葉の私なりの注釈である。
 人間は誰でもこの「如来法身=仏性」をこころに持っているのだが、それは多種多様な煩悩に覆われて隠されている。このように「隠されていること、納められていること」を「蔵」という。「如来蔵」とは、仏性が隠されている状態のことである。さらにこの「如来蔵思想」は、万人誰でも仏になりうると宣言し、やがて万人のみならず万物に仏性を認め「本覚(ほんがく)思想」にまで至る。
 このように「如来蔵思想」は「空の思想」「唯識論」などとともに、仏教哲学上きわめて重要かつ難解な概念である(「如来蔵思想」の論書としては『大乗起信論』が有名である)。
 分不相応な仏教思想への注釈は、このあたりでやめにする。
 
 ところで、聖徳太子が推古女帝の請いに応じて「勝鬘経」を講義したのは607年という。これは仏教が伝来した538年から約70年後のことである。
 仏教伝来当初、欽明天皇がこれを受容すべきかどうかを群臣に問うたとき、反対派は仏のことを「蕃神」と呼んでいるし、また「敏達紀」では「ほとけ」を「仏神」と表記している。仏は外国から来た「神」だったのである。神はある時は祟りによって災いをもたらすものであり、ある時はご利益のあるものだった。仏教伝来当初、群臣たちは「仏というこの外国の神は、災いの神か、ご利益のある神か」を議論し、それによって排仏派と崇仏派に分かれたのである。当時の日本の知識人たちは、仏教に対してその程度の低レベルの認識しかなかったのである。
 それから70年ほど経つと、先に見たようなきわめて難解な東洋哲学の最高峰とも言うべき『三経義疏』を著作した聖徳太子なる日本人が現れたという。本当だろうか。
 藤枝晃(京大人文研)は、敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)から発見された膨大な巻物の中から、『勝鬘義疏本義』(写本)を発見、それと聖徳太子の「勝鬘義疏」の7割が同文であること、これが中国の北朝の注釈史に入るものであること、したがって「勝鬘義疏」は遣隋使が持ち帰ったものであり、太子撰述とされる他の二つの「義疏」も同様と考えられ、以上を総括すれば『三経義疏』が聖徳太子の著作というのは誤伝であり、御物「法華義疏」も中国の写経生の筆跡であろうとした(日本思想体系『聖徳太子岩波書店、1975年)。その衝撃は古代史学界、仏教史学界、書道史学界にとどまらず、広範な太子信仰を根底から揺るがすものだった。
 そう聞くと、「なるほどそうだろう。仏教伝来からわずか70年で、あれほどの注釈を書ける日本人がいたはずがない」とも思える。しかし逆に70年も経てば、知識人たちの仏教に対する理解もかなり深まっていただろう、とも思え、そこに聖徳太子という天才が現れ、慧慈・慧聡という高句麗僧・百済僧から大陸での最先端・最高峰の仏教学を学んだとすれば、高レベルの注釈書ができることもあり得る、とも言える。 
 もうひとつ聖徳太子の言葉とされるのが「世間虚仮・唯仏是真(せけんこけ・ゆいぶつぜしん)」である。これを「世間はとかくウソばかり」と俗っぽくとらえてはならない。「世間」とは「この現象世界」という意味で、それが「虚にして仮のもの(相対的)であり、仏のみが絶対的存在だ」という「縁起説・無常説」の世界認識を示したものだ。このわずか八文字から「(これを)真の太子の語とするならば、当時の一般の風潮から抜きんでた、仏教そのものの内面的な理解の深さ」(笹山晴生)がわかる。
 聖徳太子は古代史最大の謎の人物である。だが、この人こそ日本人が最も敬愛できる人物として創りあげられた理想の人物像に違いない。
 ここまで太子の政治的活動と思想について書いたが、これで終われば画竜点睛を欠くことになる。理想の日本人としての聖徳太子像を示す、もっとも重要なエピソードは、「片岡伝説」だと私は思う。

 太子が片岡に行かれたとき、道ばたに飢えた人が倒れていた。名を尋ねても答えない。太子は飲み物・食べ物を与え、着ていた衣服を脱いでかけてやり「安らかに寝ていなさい」と言われ、こう詠まれた。
  しなてる片岡山に 
  飯(いひ)に飢(え)て臥(こや)せる 
  その田人(たひと)あはれ
  親なしに汝(なれ)生(な)りけめや
  さす竹の 
  君はやなき
  飯に飢て臥せる 
  その田人あはれ

「親はいないのか、主人は死んだのか」と、あれこれ思いめぐらしながら悲しみにくれる太子の姿こそ、尊い。(了)

 推古朝の改革

推古朝は画期的な時代だった。律令体制という、当時における中国的先進国への脱皮は「大化の改新」から始まったと思われがちだが、実はそれより半世紀前、この推古朝の改革からスタートしたのである。
603年10月、小墾田宮(おはりたのみや)に遷宮する。小墾田宮は、長方形の宮全体が塀で囲まれ、「南門」を入ると諸大夫が勤務する「庁」と「朝庭」が広がる政治的空間があり、その北の「北門」を経て、女帝の住まう「大殿」が置かれたと言う。つまり、のちの朝堂院や大極殿や内裏の原型である。それまでの宮が単なる天皇の住まいだったのに対して、政治の場としての宮が出現したのである。
そして小墾田宮遷宮の翌11月、「大楯(おおたて)、靫(ゆき)を作り、旗幟(はた)に彩色した」とある。これは遷宮の儀式であろうが、その主語は「皇太子、天皇に請(もう)したまひて」とあって聖徳太子の発案である。
 さらにその翌12月には「冠位十二階」を施行している。ただしこれは聖徳太子の主導とは書いてなく、誰が推進したのかはわからない。「冠位十二階」というのは中国をはじめ高句麗百済の制度にならったもので、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼など十二の位をつくり、それぞれに対応する色の冠を定めたのである。それを形式ないし儀式の整備ととらえて、中国や朝鮮半島諸国の先進国際社会の一員になるために体裁を整えたという理解もあるようだが、そんな簡単なことではない。まず「始めて冠位を行ふ」とあるように、これはその後ながく日本史を通じて行われ続ける位階制度のさきがけなのである。しかももっと大事なことは、功によって進級できることと、一代限りであることである。古い氏姓(しせい)制度においては、例えば大伴氏が連(むらじ)という姓(かばね)を受ければ、大伴連(おおとものむらじ)という名称と職掌(朝廷における仕事)は世襲されるものだった。それと比べれば「冠位十二階」がいかに革命的か理解できよう。そして翌604年1月、実際に諸臣に冠位を与えている。
 ついで同じ604年4月の「十七条憲法」である。明治になって「constitution」の訳語として、この「憲法」の語が当てられたため、その概念が誤解されやすいが、「十七条憲法」は朝廷の役人に対する服務規程ないしは心得といった性格のものであって、近代憲法のように国民全体に公布されたものではない。「なんだ、官吏の服務規程か」と過小評価されそうだが、その前に、当時の「官吏」とは何かを考えてもらいたい。つまり朝廷には、畿内近距離から、あるいは地方からはるばる上京して滞在した豪族たち、あるいは大王(おおきみ)直属の伴造(とものみやつこ)、そして彼らに従属する部民(べのたみ)などが働いていたが、彼らはまだ朝廷の「官吏」ではなく、豪族たちに従属する人々にすぎない。「冠位十二階」で彼らを考課し、一元的に序列化するとともに、「十七条憲法」という服務規程を遵守させる、つまりは「朝廷の官吏」に編成し直そうとしたのである。もっと言えば「官吏」を「創ろうとした」のである。
 この「憲法十七条」については、「皇太子、親(みづか)ら肇(はじ)めて憲法十七条を作りたまふ」と、聖徳太子の作であることと、「はじめて」であることを強調している。つまりそれまで「法」は存在していたが、文章化された成文法は存在しなかったのである。
聖徳太子は、当時の中国をはじめとする先進諸国にならい、法によって統治される法治国家をめざした。のちの律令国家のさきがけである。しかも太子の発想はそれだけにとどまらなかった。法の基礎には、法を支える哲学が必要であることも知っていた。太子はその哲学、道徳律を仏教に求めたのである。こうして憲法十七条がつくられた。「和をもって貴(とうとし)となす」という第一条につづく第二条には「あつく三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」と書いたあと、「三宝に帰せずば何をもってか枉(まが)れるを直さむ」と、悪を正す「法」の根底には仏教があることを明言している。

 ところで、聖徳太子は日本史上もっとも理想的な人物と見られてきた。それはこの推古朝を、摂政として天皇に代わって主導した人物とされてきたためである。それは「万機を総摂して、天皇事(みかどわざ)したまふ」とか、「録摂政」(まつりごとふさねつかさどらしめ)、「万機をもってことごとくに委ぬ」などと『日本書紀』に書かれているからである。ここから推古朝の政治をすべて聖徳太子の事績とみなして崇拝する風があった。その順風がいまや逆風に転じて、聖徳太子という名前の否定から始まって、『三経義疏』も太子の作ではない等々、ついには「聖徳太子はいなかった」と、奇をてらった表現で大衆を驚かせる本まで出現している。(『日本書紀』では聖徳太子ではなく厩戸皇子〔うまやどのみこ〕である)。
 確かに『日本書紀』の編者は、聖徳太子をずいぶん持ち上げて記述している。「書紀」を読んでいると、「そんなに立派な方が、どうして天皇になれなかったの?」と言いたくなってくる。また聖徳太子の個々の事績に対する疑問は昔から学者のあいだで一つ一つ問題提起され論議されてきたことで、今ごろ何を騒いでいるのかとも思う。
 しかし「書紀」に政治面での太子の事績と名指しされているのは、上記のとおり「小墾田宮遷都の儀式」と「十七条憲法」で、そのほかは仏教の保護・振興に関するものである。例えば新羅任那の戦争のときには「天皇任那を救はむと欲す」と、天皇の主導であることを明記してある。もちろん誰の事績とも書いてない施策(たとえば遣隋使など外交交渉)も多く、それらは合議によったと思われる。
 付言すれば、外交政策の転換も改革のひとつである。「倭の五王」の時代以来ざっと100年間も途絶していた中国との交渉を再開したことが、まず最大の方針転換であり、しかも「倭の五王」時代に行なっていた官号請求を放棄した。たとえば以前は「使持節都督」とか「六国諸軍事安東大将軍」といった官号を中国の皇帝からもらって、それはつまり中国皇帝を中心とする冊封体制に服属することを意味したのだが、そこから離脱した。外交関係を断てば離脱したことになっていたのだが、外交を再開するけれども冊封体制には入らない、という新方針、換言すれば、朝貢はするが臣従はしない独立国たらんという新方針を、中国に認めさせようとしたのである。
 話しを聖徳太子にもどすと、もしも聖徳太子を過小評価する説を認めると、この時代の画期的な諸改革を断行したのは、大臣蘇我馬子だったことになる。むろん「書紀」には馬子もよく登場するが、独裁者だったとも読めない。
 聖徳太子が摂政としてすべてを取り仕切ったというのは褒めすぎだと思うが、『日本書紀』を読むときに、そういう抽象的褒め言葉を削除して、具体的施策の発案者・実行者を読みとってゆけば、女帝推古、摂政聖徳太子、大臣蘇我馬子の三人がリードする三頭政治だったと読めるのではないか。(了)

 継体天皇の謎


 
 継体天皇も謎の多い天皇である。
 暴虐で悪名高い武烈天皇(第25代)が跡継ぎのないまま若死にしてしまうと、大伴金村(おおとものかなむら)の主導で、はるばる越前の国から迎えられたのが継体天皇(第26代)である。応神天皇五世の孫という。まずこれが疑わしい。本当に天皇家の血筋をひいているのか、と。
 越前からやってきて、なぜか樟葉宮(くずはのみや・大阪府枚方市)で即位したという。樟葉は淀川左岸、大阪府京都府の境目に位置する。それから筒城宮(つつきのみや・京都府京田辺市)、弟国宮(おとくにのみや・京都府長岡京市)と遷って、かれこれ20年ほど経ってから大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや・奈良県桜井市橿原市)に入った。なぜすぐに大和に入らなかったのかというのが、ふたつ目の謎で、大和に反対勢力があったためだろうと言われている。過激な説では、継体天皇はそれまでの大和朝廷を武力征服した新王朝の始祖であろうという。
 継体天皇の死についても謎が多い。まず亡くなった年だが、『日本書紀』は531年に亡くなったと記し、次のような注釈を入れている。
  「或る本には、天皇は534年に亡くなったと書いてあるが、ここで531 年としたのは     『百済本記』に拠ったからである。」
 そこまではよいが、『書紀』は、そのあとの(第27代)安閑天皇「元年」の条に、この年(元年)は「甲寅」(=534年)である、と書いている。ということは、継体天皇は531年に亡くなり、つぎの安閑天皇は534年に即位したことになって、まる2年間は天皇がいなかったことになる。
 では『古事記』は、といえば、これら二説よりももっと早く、継体天皇は527年に亡くなったとする。つごう3つの説が存在するのである。
 しかも先の『書紀』注釈には、奇妙なことが書いてある。『百済本記』というのは朝鮮の史書だが、「日本の天皇と皇太子と皇子が同時に亡くなったそうだ」とある。「それは殺されたのでしょう」という説が出てくるのも、無理はない。
 「安閑紀」の最初のところには、「継体天皇は勾大兄(まがりのおおえ)を立てて天皇(安閑)とし、即日、亡くなった」と記していて、亡くなる寸前に譲位したというのだ。これも変な話で、普通は皇太子を定めるものなのに、いきなり天皇にしたという。こんなところからも暗殺説が出てくるわけだ。
 継体天皇のあと、「記紀」による天皇の系譜は、安閑天皇(第27代)、宣化天皇(第28代)、欽明天皇(第29代)とつづく。ただ安閑天皇の治世は2年、宣化天皇は4年で、いずれも短い。亡くなったときの年齢も安閑天皇が70歳、宣化天皇が73歳という。そして次の欽明天皇は540年に即位したが、「幼年(としわか)く」と書かれている。
 この通り受け取れば、継体天皇のあとは、嫡子、つまり皇后の子である欽明天皇が継ぐのがもっとも自然だったのだが、あまりに若すぎたので、継体天皇と最初の妃の間に生まれた長子と弟が、安閑・宣化両天皇として即位したと受け取れる。
 ところが、である。「記紀」だけでもややこしいのに、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』は、欽明天皇の即位を531年としている。こうなると欽明天皇の即位年は圧倒的に531年説に傾き、つまりは継体天皇崩御(531年)、欽明天皇即位(同年)となり、「記紀」に書かれた安閑天皇宣化天皇のふたりは何なんだ、本当にいたのかということになる。
そこで『百済本紀』の「日本の天皇と皇太子と皇子が同時に亡くなった」という記載をここに持ってきて、亡くなった天皇継体天皇、同時に死んだ皇太子が安閑天皇、皇子が宣化天皇、むろん、3人の死のあと欽明天皇の即位と考えればうまく話しが合う。
 学界では、継体天皇のあと、安閑・宣化両天皇を推す勢力と、欽明天皇を推す勢力が争ったと考える説が、さまざまなバリエーションを伴って提起されてきた(喜田貞吉ほか)。両朝が並立して内乱があったとか、安閑天皇はいたが宣化天皇はいなかったとか。しかし所詮、推理であって決定的な正解はありえない。ただ、これらの議論の中から、大和朝廷の中枢で活躍した中央豪族たちの力関係の変化がクローズアップされた(林屋辰三郎先生)。
 ではその豪族たちの権力の浮沈をながめてみよう。
 まずは大伴金村である。彼は豪族平群氏を征討して武烈天皇を擁立し、大連(おおむらじ)となった。さらに武烈天皇崩御後の後継者探しの中心人物となり、継体天皇を擁立した。この金村と歩調を合わせていたのが物部麁鹿火(もののべのあらかひ=大連)で、筑紫の豪族磐井の反乱(527年)を征討したのも彼だった。
 つぎの安閑天皇は、即位直後に大伴金村物部麁鹿火のふたりを「もとのごとく」大連としている。つぎの宣化天皇も同様であるが、ただし蘇我稲目(そがのいなめ)を大臣(おおおみ)として格上げしている。蘇我氏はこのあと馬子、蝦夷、入鹿とつづいて権力を肥大させてゆくわけで、その橋頭堡を築いたのが稲目である。
 ところが欽明天皇に至って、政変が起こる。
 欽明朝もまた大伴・物部・蘇我の体制でスタートする。欽明元年9月、天皇は難波に行幸新羅征討について重臣たちに諮問したが、このとき、大伴金村は住吉(すみのえ)の家に居て病と称して出仕しなかった。理由は、かつて百済の望んだ任那4県を金村があっさり譲ってやったが、これが失敗だったと群臣たちから批判されたというのである。これを限りに、金村は『書紀』から姿を消す。だが、4県割譲は継体朝のことで、30年近くも前である。その責任を今ごろ蒸し返したのか、と腑に落ちない気もする。
 その直後、欽明天皇は、蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を妃としている。このふたりから、のちの用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)と3人の天皇が生まれるのだから、蘇我氏が有頂天になるのも無理はない。
 この経緯を政争と見て、継体天皇を担ぎ出した大伴金村は、つぎに安閑・宣化天皇を担いだが、一方、蘇我稲目欽明天皇を担いだので、ここに二つの朝廷が並立・抗争したとするのである。
 そうかも知れないし、違うかも知れない。それよりも私は、特に継体天皇を越前から迎えるいきさつを読むと、日本の天皇の在り方を今さらのように再確認する。つまり、日本では天皇は群臣たちに担がれて即位するのである。群雄割拠の中から最も強かった覇者が「王」となる諸外国とは違うのだ。そしてその伝統は、天皇の初まりとともにあったのだ。すなわち倭の女王卑弥呼は「共に一女子を立てて王と為す」、その結果としての女王なのであり、大王は「共立」されるのが本来の姿だったのである。(了)