【感動日本史】 長屋王の悲劇


 

 長屋王藤原四兄弟
 長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は、壬申の乱のときに父の天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者であった。天武天皇亡きあと、持統女帝の即位直後、高市皇子太政大臣となり、藤原京造営など、政界のトップとして時代をリードしてゆく。
 これに対して、持統女帝の夢である軽皇子の即位のために腐心したのが藤原不比等で、高市皇子の死というタイミングをとらえて一気に即位を実現(文武天皇)する。逆に言えば、高市皇子が亡くならなければ持統女帝の夢は実現できなかったのであり、つまりそれほど高市皇子の存在は大きかったのである。
 高市皇子(696年没)亡きあと、藤原不比等は文武・元明・元正三代の天皇を支えて、皇室の信任を一身に集め、時の最高位であった右大臣に昇りつめた。その不比等が亡くなる(720年)と、翌年、不比等に代わって右大臣の座に着いたのは、高市皇子の子、長屋王(45歳)であった。
一方、不比等の四人の男子は、各々、一家を構えて藤原四家(南家、北家、式家、京家)として政界に重きを成した。つまり、高市皇子不比等のにらみあいは、世代交代して「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれたのである。

 長屋王と仏教
 長屋王は仏教の信仰あつく、大般若経全巻の書写(「長屋王願経」)という大事業を二度も行なっている。
 また唐の仏教界に千枚の袈裟(けさ)を贈ったが、そこには次の文字が縫いとりされていた。
  「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」(山川、域を異にすれども、風月、天を同じゅうす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん)。
 中国と日本、国は違うけれども、風や月は同じ空のもとにある。この袈裟を寄進して仏のご縁を結ぼう、というのである。
 このことは唐の仏教界では有名だったようで、あの鑑真和上の物語にも出てくる。すなわち日本からの使いの僧が、鑑真の弟子の誰かを日本に派遣してもらいたいと懇願したとき、鑑真は弟子たちを集めて、この長屋王のことを語り、「日本は仏教に有縁の地である」と、有志を募ったという。結果的には誰も手を挙げず、和上みずから渡日を決意したが、その決意の動機は長屋王の寄進にあったわけである。

 長屋王の変
 その長屋王が「密告」によって逮捕されるという事件が起こった。「長屋王の変」(729年)である。
 「密告」の内容は「長屋王、ひそかに左道(さどう)を学びて国家を傾けんと欲す」(以下、引用は『続日本紀』)というもので、「左道」とは「邪まな道」、つまり呪術のたぐいであり、端的に言えば「天皇を呪い殺す」ことである。
 対応は迅速かつ的確で、「その夜、使いをつかわして三関(さんげん)を守る」。三関とは鈴鹿関(伊勢)、不破関(美濃)、愛発関(越前)で、関所を閉じて反乱者が東国へ逃亡できなくする、つまり畿内に閉じ込めるのである。
 それから式部卿藤原宇合(うまかい)が六衛府の兵を率いて長屋王邸を囲み、翌日には邸内で取り調べが行なわれた。その糺問使は舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王ほか4名、その中には中納言藤原武智麻呂(むちまろ)もいる。即断即決、翌日には「王をして自尽せしむ」。その妃である吉備内親王(きびのひめみこ)と、膳夫王(かしわでおう)をはじめとする子どもたちも「自経(みずから、くびくくる)」。さらに長屋王家で働く全員が逮捕されて、長屋王一族は壊滅した。
ところが、すぐに次のような聖武天皇の勅が出る。
 「吉備内親王は無罪・・・その家令・帳内(職員・従者)らは放免」、さらに「長屋王は犯によりて誅に伏す。罪人に準ずるといえども、その葬(はぶり)を醜(いや)しくすることなかれ」。長屋王は犯罪者だが、葬礼までみじめなものにするな、というのである。また、関係者7人が流刑に処されたものの、ほかの90人は許されたし、長屋王の兄弟姉妹、子孫ら縁坐すべき人々は「男女を問わず、皆ゆるせ」とある。寛大な処分である。
 事件から9年も経ったころ、長屋王の犯罪を密告した中臣宮処東人(なかとみのみやこのむらじあづまひと)が口論の末に斬殺されるという事件が起こった。『続日本紀』には「東人は長屋王のことを誣告(ぶこく)せし人なり」とある。誣告とは無実の人を陥れる訴えをすることであり、国の正史が長屋王は無実だったと記しているに等しい。以上が「長屋王の変」の経緯である。

 では、これを仕掛けた黒幕は誰か。
 「変」の翌月、藤原武智麻呂が大納言に進んでいる。これは政界トップの地位で、それまで左大臣としてトップにいた長屋王にとって代わるものである。しかしそれ以上に重要なのは、さらに半年後の藤原光明子立后である。つまり「長屋王の変」とは、光明子立后を目的とした藤原氏によるクーデタだったのである。
 以上を高校教科書風にまとめると、次のようになる。
 「そのころ政権の座にあった長屋王不比等の子の四兄弟による策謀で自殺に追い込まれると、この直後に彼らの妹の光明子が皇后に立てられた。」
 では、光明子立后藤原四兄弟にとって、なぜそこまで重要だったのか。長屋王という、最高の血筋を引く信仰厚き貴人にして政界トップの実力者を、武力クーデタで滅ぼさねばならないほど重要だったのか。
 そこに至った両者の確執を、さかのぼってたどってみよう。

 基王の死
 実はこの時点で藤原氏側は追いつめられていた。
 事の発端は、ひとりの幼子(おさなご)の誕生(727年)と死である。その名を基王(もといおう)という。聖武天皇藤原光明子との間にできた待望の男児だった。この子はまことに異例ながら、生まれてひと月にして皇太子の地位につく。
 思えば20年前(720年)、文武天皇が若くして崩御されて以来、母の元命天皇・姉の元正天皇という二人の女帝が、母から娘へと皇統をつないだのは、首皇子(おびとのみこ)即位という念願を果たすためだった。首皇子文武天皇不比等の娘宮子の間にできた子どもで、不比等首皇子に娘の光明子を嫁がせて次の次を見据え、男子誕生を待った。首皇子の即位が実現(聖武天皇)したのは不比等が亡くなって4年後(724年)、さらに3年後に男子が誕生したわけである。つまり基王こそは天皇家・藤原家の両家が待ちに待った希望の星だった。
 それなのに、この子は生後わずか1年で亡くなってしまう。
 そして基王の死から5カ月のちに「長屋王の変」が起こる。
 いったい藤原四兄弟は、いかなる状況分析の結果、クーデタを決意したのか?
 基王の死によって、藤原氏は次の天皇候補を失くした。しかもその年、聖武天皇のもうひとりの夫人である県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)に男子が誕生した。安積親王(あさかしんのう)である。光明子にまた男子が生まれるかどうかは天のみぞ知るで、何の保証もない。そこで考えられたのが光明子を皇后の位につけることだった。その案に立ちはだかるだろうと予想されたのが当時の最高実力者である長屋王だった。のみならず、長屋王一族自体が皇位継承の有力候補者となっていたのである。藤原氏側が追いつめられていたというのは、これらのことである。

 吉備内親王膳夫王
 長屋王自身が天武天皇直系の孫であるが、もっと血筋が上なのは、長屋王の妃である吉備内親王で、この人は草壁皇太子と元明天皇の子である。吉備内親王から見れば、父は草壁皇太子、母は元明天皇、兄は文武天皇、姉は元正天皇、そして今上(きんじょう)天皇である聖武帝は兄の子つまり甥である。運命の歯車がひとコマずれていれば、自分が天皇になっていてもおかしくない、というほど高貴な血筋である。
 715年正月の儀式で、首皇太子は初めて礼服を着て天皇に拝礼したが、元明女帝はそれを祝って大赦を行ない官位を上げたりした。その際、姉娘の氷高皇女(ひだかのひめみこ)を二品から一品に格上げしている(同年9月、元明女帝は彼女に譲位して元正天皇誕生)。注目すべきは、姉を一品にしたその翌月、「三品吉備内親王の男女を皆皇孫の例に入れ給う」たことである。皇孫とは天皇の孫であるから、長屋王こそ皇孫であって、その子どもたちは三世王(さんせいおう)なのだが、それを皇孫待遇としたのである。
 それは母からふたりの娘をみて、姉を一品に格上げしたとなれば、妹の気持ちは穏やかではあるまいとおもんばかっての処置か、あるいは妹(またはその夫)の方から母にクレームがついた結果の処置か、母と娘、三人の心のうちを忖度するのは、これまた、歴史の楽しみのひとつではあるが。
 そんなことより長屋王・吉備内親王夫妻の子どもたちが皇孫になったということは、一世代繰り上がったわけで、ポスト聖武の候補者の資格を得たことになる、これが重要なポイントだ。なかんづく長男の膳夫王である。歴史学者のなかには、「長屋王の変は、この膳夫王殺害を目的とした事件だ」と説く人もある。私はこれには不賛成で、次に述べる通説のように、光明子立后が目的だったと思う。

 光明子立后の必要性
 長屋王一家に対抗する策として藤原四兄弟が考えたのが、聖武天皇のあと藤原光明子天皇に擁立することだった。この時代は、持統・元明・元正の3人が女帝、これに対して男は文武・聖武2人、女性が天皇になることに何の違和感もなかった。ただし女帝になるには越えねばならない高いハードルがあった。天皇の妻たちには身分があり、最高位がもちろん皇后で、以下、妃(ひ)、夫人(ぶにん)などがあるが、天皇になるのは皇后だけなのである。光明子は夫人にすぎなかったが、それが皇后になるということは、単なる昇進ではなく、天皇になる資格を取得することだったのである。
 ところがそもそも光明子には、その皇后になる資格がなかった。皇后になれるのは皇族に限られていたからである。そこを藤原氏はゴリ押しした。反対の急先鋒に立ったのが長屋王だっただろう。道理は長屋王にある。
 かくして長屋王の悲劇は起こった。

 長屋親王
 1985年から数年にわたる平城宮東南の地(元そごう百貨店、現イトーヨーカドー)での発掘調査で、3万数千点の木簡が出土し、その中に「長屋親王」と書かれた木簡があった。
 「親王」とは天皇の子どものことである。長屋王天皇の「孫」であって「子」ではないのに、「親王」と名のっていたのである。
 元明女帝から「長屋王の子どもたちを皇孫とみなせ」と言われたのだから、子どもが皇孫ならその親は親王だろう、ということになったのか。
 ちょっと横道に入るが、長屋王の父の高市皇子は後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称されたけれども、これは先に草壁皇子のことを日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と呼んだからで、つまり尊(みこと)という古くからの尊称を付して呼ばれるあの時代の二大元祖なのだ。よく天智系、天武系というが、厳密に言うと天武系ではなく天武天皇の皇子たちの中の草壁系というべきで、草壁以外は持統女帝が排除したのであり、藤原氏がこれに加担した。排除された皇子たちのほとんどはおとなしくしていたが、ただひとり草壁系に対抗したのが高市皇子で、その高市系の血脈の継承者であることが長屋王の自負なのだ。長屋王に言わせれば、そもそも元祖草壁皇子は皇太子であって天皇でもないのに、あたかも新しい血脈の元祖のごとく「尊」呼ばわりして擬似天皇化するなら、こっちだって高市皇子を「尊」と呼んで天皇扱いしてもいいだろうし、それなら俺は「親王」でいいじゃないか、となる。ましてや妃の吉備内親王は草壁直系の文武天皇の娘で、長屋王夫妻はまさに両系統の結節点にあるわけで、その子膳夫王が即位すれば、南北朝の統一ではないが、かほど目出たきことはなし、文句はあるまい、となる。それに比べて、たかが藤原の娘がナンボのもんじゃ、いや失礼、そんな、はしたないことは言わないでしょうがね。
 私は、「長屋親王」という木簡の出現によって、もっと言えば、「親」の一字の出現によって、長屋王に対するイメージが変わってしまった。長屋王は高貴な人で、「策謀」を労する藤原四兄弟という悪もの一家に殺された悲劇の人なのか。藤原氏側が策謀を用いたことは否定しないが、長屋王に落ち度はなかったのか。
 発掘が物語るのは、広大な邸宅、そこで一族とさまざまな職種の人々数百人が暮らす、まるで宮中のような組織、各地から送られる食糧や山海の珍味。当時の貴族はそんな暮らしだったのね、で済むだろうか。邸内で鶴を飼ったり、専用の氷室から氷を運ばせたり、専属の舞の名人を置いたり、普通の貴族がそんな生活をしていたのだろうか。
 関晃氏(東北大名誉教授)は、出土した木簡を見終わったあと「これが長屋王の木簡でなかったらもっと良かった」と言われたそうである。木簡から浮かび上がった暮らしぶりが当時の貴族の平均的な例にならない、特殊例かも知れないことを示唆されたのである。その危惧はすでに本やテレビに見られるとおりで、当時の貴族は山海の珍味を食べていたとか、夏でも氷を入手していたなどと言う。そうかもしれないが、これは長屋王という皇室をさえ凌駕しかねない権力者の贅沢三昧の特殊例かもしれないのである。否、私はそうだろうと思う。『続日本紀』に書かれた災害や飢饉の記事を見れば、平城京の平均的な貴族がそんなに贅沢であったはずがない。

 天皇上皇の同意
 私は先に「長屋王の変」を「クーデタ」と表現したが、これは語弊のある表現で、クーデタは権力の交代を結果するものだが、この時代、実質的にも最高権力者は天皇だから、この事件はいわばナンバー・ツーが排除されたにすぎない。つまり長屋王に対する糾弾は聖武天皇の承認の元に実行されたのである。基王の死から数カ月、まだ悲しみの癒えぬ若き父親は、長屋王謀反の報せに衝撃を受け、たちまち怒りに震えただろう。日ごろから高市系の長屋王に対して好感を抱いていなかっただろうから。
 もうひとつ感心するのは、事件の時に長屋王邸に派遣された糺問使の人選である。糺問使は罪の有無を尋問する検事ないし裁判官役で、それに舎人親王新田部親王を据えている。彼らは天武天皇の息子、高市皇子草壁皇子の弟たちであり、長屋王にとっては叔父、皇室における長老である。要するに長屋王断罪が皇室全体の総意であることが、この人選で示されている。
 しかし、もっとも注視しなければならないのは元正太上天皇である。彼女は甥の首皇子の母親代わりだった。というのも皇子の実母は不比等の娘宮子だったが、この母はどうも心の病いだったようで、息子の首皇子にもほとんど会っていなかった。母を知らず、父を失ったおさなごを、慈しみ育んだのが祖母(元明女帝)と伯母の氷高皇女(元正女帝)だった。
 元正女帝は母(元明天皇)から受けついだ天皇という襷(たすき)を、無事、首皇子に渡すと、「太上天皇(以下、上皇と略す)」となった。上皇天皇が引退したあとの称号に違いないが、政治から引退して発言力を失ったわけではない。上皇天皇と同等の発言権を持つ。だから「長屋王糾弾」は元正上皇の承認なしに実行できるはずがない。なぜなら、長屋王はともかくも、その妃、吉備内親王上皇の妹なのだから。むろん、史書には事件に対する上皇の言動は一切見えず、積極的に同意したのか、暗黙の了解だったのかは不明である。
 聖武天皇は母も藤原氏だから光明子立后に否やは無く、いわば藤原氏サイドに立つのは当然だろうが、元正上皇は必ずしも藤原氏を全面的に支持しなければならない立場にない。血縁はないし、自分の即位も藤原不比等の献策であることは知っていただろうが、つまるところ母に説得されただけで、母親ほど不比等に恩を感じることもなかっただろう。
母の元明女帝は不比等を絶対的に信頼していた。彼女は光明子首皇子に娶わせたとき、首皇子に対して不比等の忠臣ぶりを語ったあと、その娘なのだから、光明子のことを
「あやまちなく、罪なくあらば、捨てますな、忘れますな」
と諭している。いかにも女性らしい情にあふれた表現は、続紀中の異彩である。光明子に対する母のこのような思い入れを、娘の元正上皇はよく知っていた以上、光明子立后に反対はしなかっただろう。
 一方、長屋王に対しては、元正上皇は彼を敵視していた可能性は強い、と思う。彼女は草壁系の継承のために人生を捧げているのであり、高市系の長屋王とは対立せざるをえない星のもとに生まれていたからである。
 それにしても、妹の死を阻止できなかったのか、と考えてくると、案外、妹に対してさほどの愛情がなかったのかも知れないと思えてくる。
 先述した「長屋王願経」の願文では、筆写事業の主体が「北宮」となっていて、これは吉備内親王の邸宅を指す。内親王が兄である文武天皇の追善のために起こした事業なのである。亡き兄を偲ぶ吉備内親王のこころを汲んで、夫の長屋王が書写させたと理解され、「長屋王願経」と言うのである。書写事業は莫大な経費を要する大事業である。実質的に長屋王が指揮・監督したのだろうが、本当に吉備内親王の発案だったかも知れないし、彼女が事業に積極的に関与したかも知れない。もしそうだったとしたら、母の元明女帝はどう感じたか、姉の氷高皇女はどう感じたか。手放しで褒め、喜び、感謝しただろうか。
 吉備内親王は夫とともに薬師寺を信仰拠点としたようで、薬師寺東院、東禅院、細殿僧坊などの建物は、長屋王もしくは吉備内親王の寄進である。薬師寺天武天皇の発願で持統女帝が完成させた夫妻の愛の寺と言われる。その寺に吉備内親王が夫とともに、次々と建造物を寄進することについて、母や姉はどう感じたか。
 人間の本音の感情として、いささか苦々しい思いがあったのではないか。
 長屋王糾弾に同意した元正上皇の心中を忖度すると、いつの時代にもある家族内の人間関係の心理の機微まで連想されてくる。

 『日本霊異記』の長屋王
 「長屋親王」という表現は、木簡から初めて見つかったわけではなく、すでに『日本霊異記』(822年成立)に出ている。
 「元興寺で法会を行なった際、ひとりの僧が不作法に炊事場に入ってきてお椀にご飯をもらった。長屋親王は僧たちに食事を配り与える役だったが、その様子を見て、象牙の笏(しゃく)で僧の頭を打った。僧の頭から血が出て、僧は恨めしそうに泣きながら姿を消した。人々は「不吉だ。善いことはあるまい」とささやきあった。その二日後、事変が起こり、長屋親王は自害した。」
 そして、長屋王のことをこう記している。
 「みずからの高徳をたのみ、かの沙彌(しゃみ)を刑(う)つ。護法くちひそみ、善神にくみ嫌う(原漢文)」(自分が高位であることを誇って僧を打ったため、仏法の守護神は顔をしかめ、善神も憎み嫌われた)。

 『日本霊異記』の作者、景戒(きょうかい)は、薬師寺の僧である。長屋王薬師寺のためにせっせと建造物を寄進したのに、100年後に、その薬師寺の僧からこんなふうに描かれているのである。
長屋王は、たしかに無実だった。だが、長屋王には驕り高ぶりがあって、日ごろ周囲から顰蹙を買っていたのではないか。(了)

 藤原不比等


 草壁皇太子と高市皇子
 天武天皇崩御(686年)のあと、後継者は容易に定まらなかった。
 大津皇子の死によって、もはや皇太子である草壁皇子の即位を阻むものはなくなったはずである。にもかかわらず、皇后(のちの持統女帝)による称制となる。称制とは即位しないまま政治を執ることである。なぜ草壁皇子は即位できなかったのか。その謎解きはここでは保留しておいて、まずはその後の経過を見てゆくことにしよう。
 2年半のちの689年4月、こともあろうに肝腎の草壁皇太子が27歳の若さで病死してしまう。母たる皇后の衝撃と落胆は察するにあまりある。しかしここで彼女は悲しみを振り捨ててひとつの覚悟を決めたようだ。こうなれば草壁皇子の忘れ形見である孫の軽皇子(かるのみこ、7歳)の即位を見るまでは、みずから天皇となってがんばろうと。翌年、皇后は即位、そのあと7年間がんばり、697年、孫に譲位(文武天皇)する。さらに文武天皇に男の子(のちの聖武天皇)が誕生したことまで見届けて、安堵のうちに702年に亡くなった。めでたしめでたしと言いたいところだが、皇室の不運はまだ終わらなかった。4年半ののち(707年)、文武天皇もまた25歳の若さで亡くなってしまったのである。さてどうする・・・と、苦難の道はつづくのだが、ここで一休みして、冒頭の謎にもどる。
 なぜ草壁皇太子は即位できなかったのか。
 謎を解く鍵は、文武天皇即位の経緯にある、と、ここからは筆者の独断と推論になります。
 草壁皇太子は天武天皇が亡くなったとき24歳だった。その子の文武天皇が即位したのは15歳である。そうすると草壁皇太子は若すぎるという理由で即位できなかったのではなく、別の理由があったことになる。それは何か。
 私が注目するのは、文武天皇即位の前年、重要人物が亡くなっていることである。高市皇子(たけちのみこ)である。時系列を追うと、696年7月に高市皇子が43歳で亡くなり、翌年2月に軽皇子立太子、8月に即位(文武天皇)となる。ということは、高市皇子が亡くなったので一気に文武天皇を実現させたのではないか。この即位がかなり強引であったと言えるのは、持統女帝が生きているのに譲位したこと、しかも新天皇が15歳という若さであったこと、などの理由からである。
 となると、さかのぼって、草壁皇太子が即位できなかったのも、高市皇子が反対したのではないか。
 その推理を踏まえて、今度は草壁皇子没後の皇后の即位(持統女帝)前後を見ると、即位の半年後に高市皇子太政大臣に就任している。これをどう見るかだが、高市皇子が持統女帝体制成立に尽力した論行功賞人事とも見えるが、逆に、持統女帝を認めるかわりに太政大臣に就任した、つまりバーター取引きで両者、もしくは両勢力の妥協が成立したという見方も可能であろう。
 もう一度上記の経緯を、高市皇子を対立軸に置いて並べると、こうなる。①草壁皇子の即位に高市皇子は反対した。やむなく皇后は称制とした。②草壁皇子亡きあと、持統女帝が実現したが、これは高市皇子太政大臣就任との交換条件だった。③高市皇子が亡くなるや、ただちに持統女帝は譲位して軽皇子即位(文武天皇)を実現した。

 藤原不比等
 ところで、高市皇子を向こうにまわして、見事なタイミングで的確な布石を打ち、文武天皇を実現させた持統女帝なる人物は、おそろしく「すご腕」の政治家だったことになる。だがしかし、いかに母は強しと言えども、女ひとりでそこまでやれるものだろうか。ここはどうしても参謀ないし実力者が陰にいたと思いたくなる。それが藤原不比等(ふひと)ではないかというわけだ。
 そこで不比等の履歴と皇位継承の過程を組み合わせて見ると、次のようになる。
 不比等が『日本書紀』にはじめて登場するのは持統3年(689年)で、判事に任命されており、このとき31歳である。この年は草壁皇太子が亡くなった年で、翌年、皇后が即位(持統女帝)している。この皇位継承不比等が関与したかどうかは不明である。
 ところが697年8月1日の軽皇子即位(文武天皇)となると、その直後、8月20日不比等は娘の宮子を入内(じゅだい)させた、つまりわずか15歳の天皇に娘を嫁がせたという事実がある。この速戦即決ぶりから察すると、前年7月の高市皇子の死を見るや、この年2月、軽皇子立太子、8月の持統女帝譲位と軽皇子即位まで、ざっと1年で新天皇を誕生させたのは不比等の辣腕のなせるわざだろうと推理できる。
 不比等はその後、701年「大宝律令」撰定の記事に、撰者のひとりとして現れ、たぶんその論行功賞でしょう、大納言になっている。そして707年には文武天皇崩御、その母の即位(元明女帝)という大事件があり、翌年、不比等は右大臣となっている。これまた論行功賞のにおいが強く、つまり、この皇位継承不比等が一役買った可能性は強い。
 このあと元明天皇から元正天皇への譲位(715年)の記事には、とりたてて不比等の名は出てこず、その後720年、不比等は62歳で亡くなっている。
 こうしてみると、昇進記事を除くと、不比等の業績としては大宝律令撰定のみであり(とは言え、これは国の骨格を定める大事業に違いない)、天皇家にからむ動きとして事実と言えるのは、文武天皇に娘を入れたという、それだけで、このとき皇位継承に関わった可能性は確かに強い。次に、元明天皇へのリレーも不比等の演出と推理はできる、が、その直接的な証拠は見当たらない。
 ところが、ここにひとりの女性が加わることで、不比等の影は一段と輪郭を濃くする。その女性とは、彼の後妻、犬養三千代(いぬかいのみちよ)である。

 県犬養三千代
 彼女の名前をちゃんと言うと、県犬養宿禰三千代「あがたのいぬかいのたちばなのすくねみちよ」となる。このうち「橘」の姓はのちに元明天皇から賜ったものである。
 この人はそもそも美努王(みぬおう)という王族に嫁いだが、王が大宰帥に任じられて九州に赴任すると、離別して不比等に嫁した。前夫との間に生まれた葛城王はのちの橘諸兄(たちばなのもろえ)、不比等との間に生まれた安宿媛(あすかべひめ)はのちの光明皇后、これだけでも三千代なる女性がただものでないことがわかる。
 彼女は内命婦(うちのみょうぶ)といって、後宮に仕える女官だったが、阿閇皇女(あへのひめみこ、草壁皇子妃、のちの元明女帝)の信頼を受け、ふたりは力を合わせて軽皇子を育てた(乳母だったという説もある)。皇子の祖母である持統女帝もふたりを手厚く庇護したことだろう。三千代は終生、元明女帝に忠節を尽くし、元明女帝もまたこれに報いたから、三千代は後世の春日局(かすがのつぼね)にも比すべき後宮の実力者となっていった。
政界の実力者不比等は、彼女を妻に迎えたことで、軽皇子と阿閇皇女の母子に大きな影響力を行使できた。文武天皇亡きあと、元明女帝・元正女帝の母娘リリーフによって首皇子(おびとのみこ)の即位(聖武天皇)までつなぐ策も、おそらく不比等の建言であったろう。こうして皇位継承に尽力しつつも、娘の宮子を入内させて首皇子(のちの聖武天皇)を産ませ、さらに首皇子に娘の光明子を嫁がせるという念の入れようで、不比等はいわば天皇家を十重二十重にからめとっていった。
 
 黒作懸佩刀(くろつくりのかけはきのかたな)
 しかしそれでもなお、不比等皇位継承に果たした具体的な役割はいまひとつ霧の中で、すべては推論・憶測の域を出なかった。そうした学界の状況の中に一条のスポットライトのように鮮明な光を投げかけたのが、関西大学薗田香融教授の「護り刀考(まもりがたなこう)」という論文であった。その要旨を述べると・・・。
 ご承知のように、正倉院の宝物には、光明皇后が亡き夫、聖武天皇の遺品を東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)に奉献したものが入っていて、その目録を『東大寺献物帳』という。
その中に「黒作懸佩刀」と呼ばれる刀があり、そこには次のような説明が書いてある。
 「右(この刀)、日並皇子の常に佩持するところ、太政大臣に賜う。大行天皇即位の時、すなわち献じ、大行天皇崩ずる時、また大臣に賜い、大臣薨ずる日、さらに後太上天皇に献ず。」(右 日並皇子常所佩持賜太政大臣 大行天皇即位之時便献 大行天皇崩時亦賜太臣太臣薨日更献 後太上天皇
 誰のことかわかりにくいが、次の人物を指す。
  日並皇子――草壁皇子
  太政大臣――藤原不比等
  大行天皇――文武天皇
  後太上天皇――聖武天皇
 そこで人物名を置き換えて読むと、
 「この刀は草壁皇子が常に身につけておられたもので、藤原不比等に与えられた。文武天皇の即位の時に不比等はこの刀を天皇に献上し、文武天皇が亡くなられた時にまた不比等に与えられた。そして不比等が亡くなる時に聖武天皇に献上した」。
これを図式で示すと、
  草壁皇子―→不比等―→文武天皇―→不比等―→聖武天皇
 もちろんこれを鵜呑みにはできないが、仮に真実だったとすると、不比等はあたかもこの時代の天皇たちの後見人とも言える立場を占めていたことになり、文武天皇の即位のみでなく、聖武天皇に至るまでの皇位継承に大きな役割を果たしたという明確なイメージが浮かび上がってくる。
 『東大寺献物帳』は1000年以上前の有名な文書である。そこに書かれた文章を、誰もがぼんやり眺めてきたのに、薗田先生はこれに具体的人物名を当てはめて、刀の伝世の意味に思いを及ばされた。すると不比等の予想外の巨像が立ち現れてきた。慧眼というほかない。

 ところで、この「護り刀」の伝世には女帝が入っていない。すなわち、
  草壁皇太子→(持統女帝)→文武天皇→(元明女帝)→(元正女帝)→聖武天皇
のカッコに入れた三人の女帝である。護り刀だけに男子に限るのだろうか。
 参考までに付け加えると、正倉院にはこの刀とよく似た伝世品がある。それは天武天皇の使った漆塗りの厨子(ずし、もの入れ)で、『東大寺献物帳』には持統女帝、文武天皇、元正女帝、聖武天皇孝謙女帝に伝えられたと書かれている。こちらの方は男女の区別なく受け継がれているようだが、よく見ると元明女帝が抜けている。どういうわけだろう・・・などと考えていると楽しくてしようがない。(了)

 藤原宮の富本銭


大海人皇子壬申の乱に勝利すると、近江京を捨てて飛鳥古京に帰り、天武天皇になる。その後、飛鳥の北方に新都を計画するが、完成を見ないうちに亡くなってしまう。持統女帝は亡き夫の遺志を継いで都を完成させ、694年に遷都する。これが藤原京である。しかしこの都はどういうわけか、わずか16年で捨てられて、平城京遷都(710年)となる。
 藤原宮跡の石碑

 そういう経緯のせいもあって、藤原京は、従来、大した都ではないと思われてきたが、近年の発掘調査で、なかなか立派な都だったことが明らかになってきた。小さな都だと思われた理由は大和三山のせいである。つまり海に浮かぶ島のように、空から見ると三つの山が三角形を成していて、北中央に耳成山、その南東に香具山、南西に畝傍山となる。ここに都を想定すると、どうしてもこの三山の描く三角形の内側におさめてしまい、したがって東西1㎞、南北3㎞くらいの都を想定してきた。
 ところが1990年代になって東の端っこの大路と西の端っこの大路が見つかってみると、その間ざっと5㎞、香具山も畝傍山も都の中に入ってしまう。南北の大路も見つかって、これも5㎞。東西南北ともに一条から十条まで大路が走り、耳成山も都の中の小山にすぎない。従来の想定に対して、これを「大藤原京」と呼び、その面積は平城京平安京よりも大きく、古代都市中、最大であることがわかった。
 余談をもう少し。藤原京の中央を南北に走る中軸線は朱雀大路と名づけられた。ただ、他の都と少し違うのは「宮」の位置である。平城京平安京も「宮」は「京」のセンターライン上の一番北に位置しており、だからこそ「天子、南面する」のである。ところが「藤原京」においては「藤原宮」は南北間についても中央に位置している。つまり都の文字通り真ん中に「宮」がある。そうすると中央を走る朱雀大路は「宮」の北側にも延びている。「宮」の北側にあるのに、「朱雀」とは、これ如何に。
 洒落を解説するのは野暮とは承知しているが・・・。中国の五行思想では、森羅万象の根源を木火土金水とする哲理から始まって、例をあげれば、方位では東を青竜、南を朱雀、西を白虎、北を玄武と見、時間についても春を青、夏を朱、秋を白、冬を玄、すなわち青春、朱夏、白秋、玄冬とする等々。
 だから、「宮」の南に延びる道が朱雀大路ならば、北に延びるのは「玄武大路」ではないのか、と発掘にあたった考古学者たちは仲間うちで言い出した。夕方、発掘現場から帰って来た若き学徒たちがその日の成果を話し合い、そのうち酒もはいって談論風発という光景が目に見えるようで、ほほ笑ましい話ではありませんか。「玄武大路」が定着すると、では宮の横っ腹から東西に伸びる道は青竜大路と白虎大路だということになった。勝手にそんな名前をつけて、とお思いかも知れませんが、ナーニいいのです。そもそも「藤原京」という名前も近代の学者が名づけたものにすぎないのですから(「藤原宮」の名は当時からあったが)。
 ところで、宮の位置が京の北にあって天子南面するのが中国の常識なのに、藤原京ではそうなっていないということは、当時、致命的な欠陥だったのではないか、と思うのです。早々に藤原京を捨てて平城京に遷都した大きな理由だったのではないかと。
 閑話休題
 藤原京の中心は藤原宮で、その藤原宮の中でも大極殿院は諸行事の行われる重要な建て物である。大極殿院の周囲には回廊がめぐっているが、その回廊の南門の西側の地中から、平瓶(ひらか)が出土した。平瓶とは、例えて言えば湯たんぽのような格好をしていて注ぎ口が中心より端っこの方についている、そんな器で、高さ13.8cm、最大径20.2㎝である。
 平瓶の注ぎ口には、ちょうど栓をするように貨幣が何枚か詰めてあった。貨幣は錆び固まっていて取りのけると壊れそうなので、そのまま持ち上げてX線CTスキャンで中身を透視して見ると、なかには水があって、底に半透明の六角柱の形をした鉱物が9個。大きさは2cm〜4cm、太さ1cmほどで、それは水晶だった。また貨幣は、これも透視によって「富本」の文字が確認され「富本銭(ふほんせん)」と判断されたが、これも9枚あった。
 さて、これは何でしょう、というわけだが、それを考える上で見のがせないのは、平瓶を真ん中にしてそのあたりの地面の四隅に穴があったことである。それは小さな柱穴で、4本の柱というか、杭を立てた跡で、そうするとその杭を注連縄(しめなわ)でつないで、白い紙垂(しで)でもぶら下げて、結界を仕切ったようなイメージが浮かぶ。これはひとつの祭祀だろう、ということになった。地鎮祭である。
 それで私が思い出したのは、韓国考古学史上の大発見(1971年)、武寧王陵である。何しろ、「墓誌」という絶対確実な証拠が出たことで、朝鮮の『三国史記』『三国遺事』、それにわが『日本書紀』の雄略天皇の記事をも裏付けたことになった。
 思い出したというのはその墓誌である。墓誌は石板で2枚あった。その一枚には「寧東大将軍百済斯麻王(しまおう=武寧王)」という一節があるが、これは買地券(ばいちけん)であった。
  銭一萬文右一件
  乙巳年八月十二日寧東大将軍
  百済斯麻王以前件銭訟土王
  土伯土父母上下衆官二千石
  買申地為墓故立券為明
  不従律令
 「申地を買ひて墓と為す。故に券を立て明と為す」というように、買地券とは、この墓の土地はお金を払って買ったものですよ、という契約書で、土地の神さまに対して、どうか祟らないでくださいと、お墓に入れておくのである。
 そして2枚並べた墓誌の上に、ちゃんと貨幣が置いてあった。
 藤原宮の平瓶の話にもどると、富本銭は「お賽銭」と考えられているようだ。神さまに差し上げるお金を総称して「お賽銭」と言えばその通りだが、もっと目的をしぼって言えば「土地代」ではないかと、私は思ったのである。
 ところで、富本銭は以前から知られていたが、祭祀用につくったもので貨幣として流通したものではないと考えられ、だから日本最初の貨幣は「和同開珎」だと言われてきた、とのことである。おかしな話だと思いませんか。祭祀用とはつまり神さまへのお賽銭である。流通しない貨幣とは無価値なお金、言い換えればニセ金である。お賽銭にニセ金をあげたら、神さんは怒りますよ、祟りますよ、絶対に。
 ゆえに、富本銭は流通していた貨幣であり、日本最古の貨幣であると、私は思う。(了)

 大津皇子の悲劇

大津皇子がはじめて史書に登場するのは、「壬申の乱」のさなかである。
壬申の乱」は天武天皇の権力確立の出発点であるが、その妃、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)にとっても天武天皇との夫婦の絆を確固たるものとし、皇后への道を決定的にした出発点であった。ということは、わが子、草壁皇子(くさかべのみこ)をつぎの天皇にという当然の欲望が湧き出た源流でもあり、その犠牲となった大津皇子の悲劇の種子もここに宿ったと言える。
 以上のとらえ方から「壬申の乱」の経緯を述べてみよう。

 壬申の乱
 天智天皇は即位したときに、弟の大海人皇子を「皇太弟」として次の天皇を約束した。それなのに、いざ死期が迫ってくると、自分の子ども(大友皇子)に跡を継がせたくなった。
 そこで大海人皇子を病床に呼んで、皇位を継ぐようにと勧めるが、大海人皇子は丁重に辞退した。
 このとき、もしも天皇の言葉を素直に受け入れて「では不肖わたくしが天皇に」と答えたらどうなるか。謀反の疑いありとして否応なく逮捕されただろう。そういう時代なのである。
 大海人皇子天皇の前を辞すると別室でただちに髭や髪を剃り落として僧体となり、私有していた武器をすべて差し出すと、二日後には仏道修行のためと称して近江京をあとにして吉野に去った。
 世人は「虎に翼を着けて放てり」と評した。強大な実力者は身近に置いて監視すべきで、それを遠くに追いやったのは、虎に翼をつけて自由にさせたようなものだというのだ。大海人皇子がいかに畏敬の念をもって仰がれていたかがわかる。
 天智天皇崩御はそれから一カ月半ののちであった。
 さらに半年のち(672年)、大海人皇子は吉野を出て東国へ向かい、ここに古代史上最大の内乱「壬申の乱」の幕が切って落とされた。
 当初、大海人皇子に従ったのは、鸕野讃良皇女(のちの持統女帝)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)をはじめとする一族二十人ほどと女嬬十人ほどだったが、東進するにつれて軍勢も数を増した。途中、近江京に使者をやって、高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子を呼び寄せた。高市皇子の年齢は二十歳前後、大津皇子は十歳前後だったと推測される。
 高市皇子を招いたのは、頼りにできる身内としてである。何日かあとで、大海人皇子がこう嘆く場面がある。「近江朝廷には有力な諸将がそろっているのに、自分には心をうちあけて作戦の相談をする相手がいない」と。すると高市皇子が腕まくりして剣をつかんで「近江の軍勢がいかに多勢であろうと、天皇大海人皇子)の霊威に逆らえるものではありません」と励ました。これを聞いて大海人皇子は大いに喜び、高市皇子に軍の指揮権をゆだねたという。
 高市皇子はこのように頼れる身内だったが、一方、大津皇子はまだ子どもである。大海人皇子はおそらく大津皇子の聡明さを愛して将来に期待したのではないか。あるいは、この子は幼くして母を亡くしていたから、不憫でもあったろう。
 大海人皇子は戦いに勝利すると飛鳥古京に還り、天武天皇として、日本という国号や天皇という称号を定め、国家の基本たる法体系を創出するなど、古代史上、最も偉大な天皇となった。

 吉野の盟約
 壬申の乱から七年たった679年、天皇は吉野に行幸された。吉野は天武政権発祥の地であり、天皇・皇后夫婦の絆を磐石に固めた思い出の地である。
 これに同行したのは、皇后となった鸕野讃良皇女はじめ六人の皇子たちで、草壁皇子大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子(しきのみこ)である。注目すべきは河嶋皇子芝基皇子の二人は天智天皇の子だということ、また逆に天武天皇の皇子なのに呼ばれていない皇子もいるということだ。つまりこの六人は天武天皇の子供たちを集めたのではなく、その時点における皇位継承レースの最有力候補者たちを集めたのである。
 天皇が「汝らとともに盟(ちか)いて、千歳ののちに事なからしめむと欲す」(千年のちまで争いごとのないように盟約を結ぼう)と言われると、草壁皇子が「私たちは、母親こそ違うものの、天皇のお言葉に従って互いに助け合います」と誓った。他の五人の皇子たちもこれにつづいて次々と誓いを立てた。
 天皇は「襟(えり)をひらき、その六皇子を抱きたまふ」。
 いかにも芝居じみているが、要するに草壁皇子が六皇子を代表して真っ先に誓ってみせることで、後継者の立場を表現し、他の五人は争いをしないと誓ったわけだから、草壁後継を認めさせられたことになる。
 これが「吉野の盟約」だが、この演出は、鸕野讃良皇女のアイデアで、天皇はそれに従ったのではないか、というのが筆者の推測である。その理由はいくつかある。
 第一に、草壁皇子の擁立に最も熱心なのは、当然ながら実母である皇后鸕野讃良皇女であること。
 第二に、もし「吉野の盟約」が天武天皇の企画演出だったとしたら、吉野から帰ってすぐに草壁皇子を皇太子にすればよいのに、草壁立太子はそれから二年のちの681年であること。
 第三に、さらに二年後の683年に「大津皇子、はじめて朝政を聴く」とあって、大津皇子が政治を行ったというのである。「えっ? 草壁皇子で決まりじゃなかったの?」という感じで、天武天皇の真意が疑われてくる。
 だいたい天皇大津皇子がお気に入りだった。壬申の乱のとき近江から呼び寄せたのもその証左だが、ずばり「天皇大津皇子を愛していた」と書いた記事がある。大津皇子の死を報じた箇所である。
 「(大津皇子は)容止墻岸(ようししょうがん=立ち居ふるまいがきわだっている)、音辞俊朗(言葉がすぐれて明晰)なり。天命開別天皇天武天皇)の愛するところとなる。長ずるに及び弁(わきわき)しく(分別がある)、才学あり、もっとも文筆をこのむ。詩賦(漢詩)の興り大津よりはじまれり」と、べた褒めである。
 これに対して、草壁皇子はどうか。残念ながら、その人柄に触れた記述は皆無であり、凡庸だったと推察するしかない。
 となると、皇后としてはわが子、草壁皇子の地位を確たるものとする演出が必要で、それが「吉野の盟約」だったと思う。

 ライバル
 この時代、天皇レースの優劣は、まず実母の出自であった。草壁皇子の母、鸕野讃良皇女は天智天皇の娘である。つまり皇女からみれば、父の弟(叔父)に嫁いだことになる。
 天智天皇の娘で天武天皇の皇后だから、その子が皇太子となって当然である。
 これに対して大津皇子の母はといえば、これまた天智天皇の娘で大田皇女といい、鸕野讃良皇女の姉なのである。ただこの姉は667年に若くして亡くなってしまった。あとに残されたのは大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子姉弟で、大津皇子はこのとき五歳だった。 要するに草壁皇子の母と大津皇子の母は実の姉妹で、家柄に優劣はまったくない。二人は宿命のライバルだったのである。
 では他の皇子たちはどうかと見ると、最も実力のあるのは高市皇子で、壬申の乱天武天皇から軍の指揮を委ねられたほどであったし、のち持統女帝は彼を太政大臣に任じて政界首座に据えているほどである。ただその母は胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)という九州の豪族の娘で、身分差は歴然としている。
 皇太子の地位を得て次期天皇を約束された草壁皇子。人気と「聴政(まつりごとを聴く)」という立場を得た大津皇子。二人の争いが予断を許さぬ状態のまま、朱鳥元年(686)九月九日、天武天皇崩御する。

 謀反
 大津皇子が謀反により逮捕されたのは、天皇崩御からひと月もたたぬ十月二日であった。連座して逮捕されたもの三十余人。
 翌日には「死を賜る。ときに年二十四」。
 皇子の妃、山辺皇女は「髪をみだし、すあしにて奔(はし)りゆきて殉ず(殉死する)。見るもの皆すすりなく」。
 ところがそれから二六日後には、持統女帝はつぎのような詔を出す。
 「大津皇子は謀反した。皇子にだまされて加担した役人らはやむをえなかったのだ。今、皇子は死んだので、縁坐した従者はみな赦(ゆる)せ。ただし礪杵道作(ときのみちつくり)は伊豆に流せ。また新羅僧行心(こうしん)は謀反に加わったが、処罰するに忍びないので飛騨国の寺に送れ」。三十余人のうち、流罪一名、左遷一名で、他は無罪放免である。
いったい大津皇子の謀反とは何だったのか。本当に謀反の実体があったのか。
 もっとも、以上は『日本書紀』の記述で、日本最古の漢詩集として有名な『懐風藻』の「河島皇子伝」にはこう書いてある。
 「(河島皇子は)はじめ大津皇子と莫逆のちぎりをなす。津(大津皇子)逆を謀るに及び、島(河島皇子)すなわち変を告ぐ」とあって、河島皇子が密告したという。
 また同書「大津皇子伝」にも、
 「ときに新羅僧行心あり。天文卜筮を解す。皇子につげていわく。太子の骨法はこれ人臣の相ならず。これをもって久しく下位にあらば、おそらくは身を全くせざらんと。よりて逆謀をすすむ」。「あなたの相は人につかえる相ではなく、このままでは身を滅ぼすことになります、と謀反をすすめた」というのである。
 このように『懐風藻』は、謀反があったという書きぶりである。
 筆者の結論を言えば「大津皇子のささいな失敗をとがめて謀反と言いつのり、死に追い込んだのだろう」と思う。
 その根拠は、天武天皇崩御の記事である。
  (朱鳥元年、686年、九月九日)天皇の病、ついにいえず、正宮において崩ず。
  (一一日)はじめて哭を発す(死を悲しんで泣き声を発する儀礼)。すなわち南庭に殯宮(もがりのみや)をたつ。
  (二四日)南庭で殯を行い、哀を発す(哭に同じ)。是の時に当り、大津皇子、皇太子に謀反す。
  (二七日)もろもろの僧尼、殯の庭において哭を発して退く。・・・(以下儀式が続く)
 ご注意いただきたいのは、「是の時に当り」の一句である。
 「この日に別の場所で謀反があった」のだろうか。ここは、そう読むよりも、「殯の儀礼を行っている、そのときに、謀反があった」と解釈すべきだろうと思う。その謀反は皇太子に対する謀反だったというのだから、儀礼の場における大津皇子の何らかの行為が、皇太子に失礼にあたるものだった、ということではないか。その行為は作為的なものだったとして咎められたが、実は悪意のない失態だったかもしれないし、ましてや大津皇子天武天皇から「聴政」という立場を認められていたのだから、儀礼の場でも最高クラスの扱いを受け、そう振る舞っていただろう。そこに難癖をつけられたかもしれない。
 そもそも「謀反」という言葉から受けるイメージとしては、武器を携えた多数の兵が集合して・・・というものではないか。しかるに『懐風藻』にも『日本書紀』にも、「謀反があった」というばかりで、武器を集めたとか、兵を集めたといった話しはまったくない。
 それにもし武装蜂起といった動きがあったのならば、九月二四日に謀反が発覚しながら、一〇月二日に逮捕という悠長な経過にはなるまい。
 さらに、大津皇子は伊勢にいる姉を訪ねて今生の別れを告げているし、辞世の漢詩や短歌を残している。これは謀反と決めつけられてから逮捕まで時間があったこと、その間、大津皇子武装蜂起の準備をしたわけでもなく、逃亡したわけでもなく、ただ身に迫る危険におののく日々を送っていただけだろうと思われる。

 姉の悲しみ
 大津皇子には母を同じくする姉がいた。大伯皇女(おおくのひめみこ)という。父天武天皇はこの皇女を伊勢神宮に遣って、斎宮(斎王)として仕えさせていた。大津皇子はその姉に会いに行っている。日にちは特定できないが、すでに状況は切迫していたようで、おそらく最後の別れを告げるためだったのであろう。
 突然の弟の訪問と、窮地に陥ったいきさつを聞いて、姉はさぞ動転し悲しんだことだろう。あっという間に時がたち、別れのときがきた。
 大伯皇女の歌が残っている。
  ふたり行けど行きすぎがたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ(万葉0106)
  (ふたりで手をとり合って歩いても危ない山道を、弟よ、あなたはひとりでどうやって越えて行くのでしょう)
  わが背子を大和へやるとさ夜ふけて あかつき露にわれ立ちぬれし(万葉0105)
 あわただしい別れだった。いつまでも別れがたく、ついに夜がふけてしまった。暗い運命の待つ大和の地へ、それでも弟は帰らねばならない。見送った姉はそのまま弟の行く末を案じながら、あかつきの露に濡れるまで立ち尽くしていたというのである。
 
 大津皇子の遺体がどこに埋葬されたのか定かでないが、その後、二上山に改葬された。おそらく持統女帝の指示であろうが、いかなる心境による措置だったのか。
 大伯皇女もすでに伊勢から飛鳥の都に呼びもどされていた。
 飛鳥から西を望めば、夕陽の落ちるあたりに、二上山が二つの峰を並べてたたずんでいる。そこに大津皇子は眠っている。
 大伯皇女はこう詠んでいる。
 うつそみの人にある吾や あすよりは二上山を弟(いろせ)とわが見む(万葉0165)
 「現身(うつそみ)の人にある吾や」とは、「この世に、まだ生きている私です」というのである。生きていることが辛いのである。弟と一緒に、この世ならぬところに行ってしまった方がよかったのである。何と悲しい歌だろう。(了)


 

 天智天皇の人間性

 天智天皇中大兄皇子)といえば、「大化の改新」を断行して新しい国づくりを進めた英邁な君主というイメージが定着している。本当にそうだろうか。
 いったい天智天皇とはどんな人柄だったのだろう。

 『日本書紀』では多くの天皇について、寸評が書かれている。
 皇極天皇――「古道に順考して政をなす」(いにしえの道を遵奉して政治を行った)
 孝徳天皇――「仏法を尊び神道を軽んず。人となり柔仁にして儒を好み、貴賎をえらばずしきりに恩勅をくだす」(人となりは素直で思いやりがあった)
 天武天皇――「生まれてより岐嶷(きぎょく)の姿あり。壮に及びて雄抜神武(ゆうばつしんぶ)、天文・遁甲をよくす」(生まれながら人に抜きん出たお姿で、成年ののちは勇猛で人間わざとも思えぬ武徳があり、天文・遁甲にすぐれておられた)。べた褒めである。
 ところが、天智天皇については「書紀」には何の人物評もない。私は天智天皇は人柄として褒めるところがあまりなかったのではないかと思う。かと言ってまさか貶(けな)すわけにもいかない、だから「書紀」は何も書かなかったのではないか、と、まことに畏れ多いけれども、疑っておる次第であります。

 第一、中大兄皇子にまずまず人望があれば、さっさと天皇になっていたはずである。何度もそのチャンスを逃しているということは、よほど人望がなかったのではないか。通説では中大兄は、なろうと思えばいつでも天皇になれたけれども、皇太子という地位にとどまっている方が、かえって思う存分に腕をふるえると考えたのだ、という。しかしそんなバカな理由があるだろうか。皇太子より天皇の方が、大きな権力を自由に振るえるに決まっているではないか。彼は長らく天皇にならなかったのではなく、なれなかったのではないか。
 そういう問題意識を持って、中大兄が即位できたチャンスと、彼の周辺に起こる血なまぐさい事件を追ってみよう。

 まず父の舒明天皇崩御(641年)の大殯(おほもがり)において、中大兄は「東宮開別皇子(とうぐうひらかすわけのみこ)」と呼ばれて、「年十六にして誄(しのびごと)たてまつりたまふ(現代風に言えば、16歳にして弔辞を読まれた)」とある。「東宮」は皇太子で、皇位をつぐべきポジションにいたことになる。このとき、つまり舒明天皇崩御後は母である皇后が継いで皇極女帝となり、中大兄は時期尚早とされたのだろう、即位を見送られた。

 次に「乙巳の変」がくるわけだが、中大兄を入鹿暗殺に駆り立てた動機を形成したのが、山背大兄皇子の死(643年)であった。あの聖徳太子の遺児でさえも、入鹿によって死に追いやられた。そして入鹿の推す古人大兄皇子は、あたかも次期天皇は自分だと誇示するかのごとく、朝廷において皇極女帝の隣に座を占めている。中大兄は次に殺されるのは自分だと思った。殺される前にやろう。こうして入鹿謀殺劇は起こる。
 その現場でのことだが、みんな怖気(おじけ)づいているなか、結局、中大兄が「やあ」と叫んで子麻呂とともに入鹿に斬りかかり、頭と肩を斬ったという。人間は、なかなか人を斬れないと思う。みずからの手で人を殺すには何か異常な力が要る、もしくは何か正常な抑止力が欠けている、そんな気がするのは、私だけだろうか。もし古代の人々も同様に感じたとすれば、殺人者を、人々は恐怖することはあっても敬愛するだろうか。

 入鹿謀殺の直後に、皇極女帝が前例のない「譲位」を中大兄に申し出た。女帝は「入鹿謀殺事件は、中大兄が天皇になるために起こした」と思ったのだ。この時、中大兄は即座にことわったわけではなく、中臣鎌足に相談した。ということは、中大兄は即位したかったのだろうと思う。だが鎌足はまだ若いという理由で反対する。当時、軽皇子は49歳、古人大兄は年齢不詳ながら軽皇子より上と思われるのに対して、中大兄は19歳である。
 即位の話しはまず軽皇子に行った。しかし軽皇子は再三固辞して古人大兄にゆずった。古人大兄もまた座を降り拱手して辞退し、「私は出家して吉野に入ります」と言うと、佩刀(はいとう)を投げ出し、部下全員の刀をはずさせ、法興寺に行き、髪を剃り袈裟をまとった。先日までの振るまいはどこへやら、古人大兄は今や戦々恐々、命を守る工夫に汲々たるのみである。軽皇子はそれ以上辞退できず、即位(孝徳天皇)する(645年)。

 そのわずか3カ月後、吉野の古人大兄が謀反を企てていると訴え出てきた者があった。中大兄はただちに兵を送って古人大兄とその子を討ち、皇子の妃も首をくくったという。訴え出たのは吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)という者で、自分も謀反の仲間だったと自首したのだったが、彼は罪を許されて功田二十町を賜ったという。そんないきさつから見ると、この謀反劇はおそらく中大兄の謀略であろう。
余談ながら、「謀反の疑いを避けるために出家して吉野に入る」という筋書きは、壬申の乱前夜、大海人皇子が踏襲する。

 さて中大兄皇子の次なる標的は蘇我石川麻呂だった。蘇我石川麻呂といえば、あの乙巳の変の冒頭に、娘を中大兄に嫁がせて婚姻関係を結んだ蘇我氏の傍流であり、入鹿謀殺劇では三韓の上表文を読みあげる役を果たした。大化新政権では右大臣としてナンバー2の地位を占めた。ナンバー1である左大臣阿倍内麻呂が649年3月に亡くなると、その1週間後に蘇我石川麻呂を讒言するものがあり、中大兄は兵を差し向けた。石川麻呂は飛鳥へ逃げ、息子の営む山田寺に入って自殺する。この事件については、中大兄はすぐに冤罪と知って後悔したことになっている。朝廷人事としては、ここで一気に左右大臣が交代しており、しかも中臣鎌足は内臣(うちつおみ)のままなので、この事件は鎌足も共犯だという説もあるが、私は根拠薄弱だと思う。「書紀」の言うとおり、中大兄が軽率に讒言を信じた結果の惨劇だったのか、陰謀だったのか、いずれにせよひどい話である。

 孝徳天皇の晩年、難波の都に天皇を置き去りにする事件が起こっている(653年)。このとき百官・皇族たち、みな中大兄皇子に従って飛鳥に帰ったというが、みんな中大兄が怖かったのではないかと思う。

 翌654年に孝徳天皇は亡くなり、さて次はまさに本命、中大兄皇子の即位と思うのだが、そうはならなかった。中大兄は28歳の男盛り、もう若いとは言わせまい。それなのに何故か。中大兄は、皇太子・摂政として存分に腕をふるいたかったからだというのが常識のようだが、冒頭にも言ったように、そんなばかな、天皇の方がよほど自由に腕をふるえるはず、というのが私の主張で、ここはやはり天皇になれなかったのだと思う。鎌足が反対したのだと思う。なぜか。第一に、人望がなかったからである。第二にライバルがいたからである。ライバルとの後継者争いを避けたいときにはどうするか。誰にも異存のない女帝を立てて暫定天皇とするのである。それが重祚した斉明女帝(655年)である。

 ではそのライバルとは誰だったのか。のちに起こる有間皇子事件から逆のぼって推理すれば、孝徳天皇の遺児有間皇子がライバルだったのだろうか。私は、それはないと思う。なぜなら有間はこのとき15歳で若すぎるし、孝徳天皇難波置き去り事件に見るように、有間を押す勢力があったとは思えないからである。別にもうひとり、真の意味でのライバルがいたと思う。それが誰かはさておき、中大兄はその3年後、18歳に成長した有間皇子を謀反の罪で死刑とする(658年)。このままゆくとライバルに成長すると猜疑したのだろう。有間皇子は狂気をよそおってまで、自分が天皇母子にとって無害な存在だと訴えていたのに。
 ライバルとも思えないほど弱い相手でさえ抹殺した中大兄なら、もうひとりのライバルも抹殺すればいいではないかと思われるだろう。だが、さすがにそれはできなかった。なぜならそのもう一人の真のライバルとは、母を同じくする実の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)だったから。
 大海人皇子がこの時点ですでに実力者であったという証拠はないが、ただ一つあげれば、孝徳天皇難波置き去り事件の記述である。難波に天皇を置いて、中大兄が「皇祖母尊(皇極上皇)・間人皇后を奉り、あわせて皇弟(大海人皇子)等をひきいて」飛鳥へ帰ると、公卿大夫や百官の人々もこれに従った、と書いてある。皇太子と天皇が対立したとき、前天皇・皇后がどちらと行動を共にしたかは重要であるが、しかし皇太子の弟がどうしたかはさほど重要ではあるまい。なのに「皇弟」も同行したと書いているのは、「皇弟」の去就がかなり影響力を持っていたからではないか。
 さらに、翌年、天皇が難波で病気になられたときも、「皇祖母尊・間人皇后を奉り、あわせて皇弟・公卿等をひきいて」お見舞いに行ったと書いていて、やはり「皇弟」を加えている。これも同じく、大海人皇子の行動が注目されていたからだと思う。
 さて、ついに斉明天皇崩御(661年)を迎える。やはり中大兄は即位できなかった。第一に人望がない。第二にライバル大海人皇子の人望はますます高くなっていたから。ちなみにこのとき中大兄は35歳、弟の大海人は(生年不詳ながら631年説を採れば)30歳、いずれも男盛りである。
 結果は中大兄の「称制」という非常事態体制で落ち着く。皇太子が天皇代行となるのである。この体制で6年余が過ぎる。この間、おそらく中臣鎌足が二人の後見役として、争いの起こらぬよう目配りしていたのではないか。そして鎌足はみずからの健康に不安の生じた668年、決断する。大海人皇子と彼を推す勢力に対して、「ここは兄である中大兄皇子の即位を認めてやれ。その代わり、大海人皇子東宮に立てることで次期天皇の座を約束する」と説得したのであろう。かくして天智天皇、大海人皇太弟が実現する。それが鎌足の最後の大仕事だった。翌669年、鎌足は亡くなる。
 だが、鎌足という重しがとれるや、天智天皇の迷走が始まる。671年、わが子、大友皇子太政大臣とし、露骨に皇位を継がせたいという意志をあらわにする。
 古代史上、最大の内戦、壬申の乱へと歴史の歯車は回転してゆくのである。(了)

 注=私は関西大学の有坂隆道先生から、中大兄皇子は大人物ではないという説をよくお聞きしていた。御説の具体的な内容について明確な記憶はないが、ここに書いたことはほとんど有坂説の受け売りになっているだろうと思う。ただここに専門家の方がみておかしなことが書いてあったら、それは私のミスである。

 有間皇子

有間皇子孝徳天皇の子である。
「乙巳(いっし)の変」ののち即位した孝徳天皇の治世は9年だが、その最後はみじめだった。天皇は難波に都していたが、中大兄皇子が飛鳥へ帰ろうと言い出し、天皇の反対を押し切って、百官を引き連れて飛鳥に帰ってしまった。母である元の皇極女帝、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)も中大兄に従ったが、孝徳天皇の皇后である間人(はしひと)皇后まで中大兄に従い、天皇ひとり難波に取り残された。天皇は、翌年、病を得て亡くなった。遺された有間皇子は14歳だった。
孝徳天皇のあとは、先の皇極女帝が重祚(ちょうそ)して斉明(さいめい)天皇となった。その斉明3年(657年)、「書紀」はこう書いている。
有間皇子、性(ひととなり)黠(さと)くして陽狂す」
「黠い」とは「悪がしこい」という意味、また「陽狂す」とは「狂人をよそおう」ことで、「有間皇子は悪がしこい人で、狂気をよそおっていた」というのである。そして治療と称して牟婁温湯(むろのゆ、和歌山県の白浜)に行き、帰ってくると、その地の風光明媚なことを斉明女帝に申し上げた。女帝は自分も行ってみたいと思われ、それから1年後に女帝の和歌山行幸は実現した。その留守の間に事件は起こった。
留守官を命じられていた蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間皇子に、「斉明女帝には三つの失政がある」などと非難してみせた。皇子は赤兄が自分に好意を寄せていることを知り、「やっと挙兵の時が来た」と喜んだ。翌々日、皇子が赤兄の家で話していると皇子の脇息の脚が折れた。これは不吉な前兆だというので、計画を白紙撤回して、互いに口外しないことを誓い合って帰宅した。
その夜中、赤兄は配下のものに皇子の家を囲ませておき、馬を走らせて、天皇有間皇子の謀反を奏上した。皇子は和歌山に護送された。
護送途中の旅の歌2首が『万葉集』に残っている。
  家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を 草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
 (「笥」は食器。日常から解き放たれた旅でのささやかな体験で感じた興趣を素直に詠んでいる。この歌に虜囚の悲しみを読み取るべきだろうか。私には18歳の少年が旅に心ときめかせる、その小さな興奮がほほえましく感じられるだけだ。それだけに悲惨な最期を知らぬ無邪気さが哀れである。
  磐代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまたかえり見む
  (松の枝を結んで旅の無事を祈る。「もしも我が身にまだ幸運が残っていれば、帰り道にもう一度これを見よう」。「まさきくあらば」の七文字に込められた祈りが切ない。
 尋問を行なったのは中大兄皇子だった。
 「何ゆえの謀反か」
 有間皇子の答えはこうだった。
 「天と赤兄と知る。われ、全(もは)ら解(し)らず」。
 「赤兄に聞いてくれ。私はまったく知らない」という意味だが、「天と赤兄が知っている」という劇的な表現に、「赤兄の言動と策謀のすべては天が知っている。わが無実も天が知っている」という祈りにも似た訴えが感じられる。
 皇子は絞首刑に処せられた。

 『日本書紀』の書き方に従えば、有間皇子はかねてから斉明・中大兄母子に対する謀反のこころざしを抱いていたことになる。「陽狂」していたというのは、その心のうちを隠すためであって、それが「悪がしこい」というのだが、「悪」がしこいかどうかはともかく、愚鈍ではなかったに違いない。思うに孝徳天皇崩御の時点では14歳のまだ幼い少年だったが、4年経って18歳になると、いつの日にか即位しておかしくない立派な青年に成長したのだろう。中大兄には脅威である。
 しかし、脅威を感じていたのは有間皇子の方だったかもしれない。自分には皇位をうかがう考えはないけれど、中大兄皇子や世間は、そうは見てくれない。ということは、わが身が危ない。そこで「陽狂」していたのかもしれない。
 赤兄にそそのかされたとき、有間皇子がどんな返事をしたのか、本当のところはわからない。つまりどの程度謀反の意志があったのか、あるいはまったくの濡れ衣、罠にはめられたのかもしれない。
 
 ところで有間皇子の和歌2首だが、実は、皇子の歌ではないかもしれない。誰かの歌が、あの悲劇にぴったりだというので、皇子の歌とされたのかもしれない。あるいは、有間皇子の歌には違いないが、最後の護送の旅のときではなくて、その前年の旅のときの歌かもしれない。(了)

 入鹿暗殺


 

 鎌足中大兄皇子に近づこうと機をうかがっていた。
 ある時、中大兄が蹴鞠(けまり)をしていると、鞠を蹴った拍子に靴が脱げて、見ていた鎌足の方にころがってきた。鎌足は靴を両手で捧げて膝まづき、つつしんで中大兄に差し出した。中大兄もまたひざまづいて、うやうやしく受け取った。これを機に二人は親しくなったが、人に怪しまれないように、二人は本を手に南淵先生のもとに通い、その行き帰りに語らいあった。
 鎌足の最初の策は、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)の娘を中大兄の妃に迎えて婚姻関係を結び、石川麻呂を味方に引き込むことだった。入鹿は蘇我本宗家(ほんそうけ)を継ぐものだが、石川麻呂は蘇我氏の傍流であった。
 鎌足はさらに佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かずらきのわかいぬかいのあみた)の二人の武人を中大兄に推挙した。
 ここまでが皇極3年(644)3月までのことで、話は1年3カ月のちの皇極4年(645)6月にとぶ。
 中大兄は石川麻呂に決行計画をこう語る。
 「三韓が調(みつき)を進上する日に、その上表文をお前に読んでもらう」。
 三韓とは朝鮮半島高句麗新羅百済のことで、その貢物献上の日に石川麻呂が天皇に対して上表文を読み上げる役目をさせるから、そのとき入鹿を斬ろうというのだ。
 当日、天皇大極殿にお出ましになり、古人大兄皇子がかたわらにひかえた。
 鎌足は入鹿が用心深く昼夜、剣を放さないことを知っていたので、俳優(わざおぎ・滑稽なしぐさで座をなごませる人)を使って剣をはずすように仕向けると、入鹿は笑って剣をはずして座に着いた。
 石川麻呂が玉座の前に進み上表文を読み始めると、中大兄は十二の門の閉鎖を命じ、衛士を1か所に集め、みずからは長槍を手に大極殿のかたわらに身をひそめた。鎌足らは弓矢を持って中大兄を警護した。佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は「不意をついて斬れ」と命じられていた。子麻呂は飯を水で流し込んで食べたが、恐怖のため嘔吐した。
 石川麻呂は上表文が終わりに近づいているのに、子麻呂らが来ないので不安になり、汗みずくになり、声も上ずり、手も震えた。入鹿は不審がり、「どうして震えているのか」と尋ねると、石川麻呂は「天皇のおそば近いので恐れ多くて」と答えた。
 中大兄は子麻呂らがためらっているのを見て、「やあ」と叫ぶと子麻呂らと共に入鹿の頭と肩を斬った。入鹿が驚いて立ち上がると、子麻呂は入鹿の脚を斬った。入鹿はころがりながら玉座近くにひれふし「私には罪はありません。どうか調べてください」と叫んだ。天皇は驚いて、中大兄に「何があったのか」と問われた。中大兄もまた地に伏して「入鹿は天皇家を滅ぼしてみずから皇位に即こうとしたのです」と訴えた。天皇は立ち上がり奥に去られた。子麻呂と網田が入鹿を殺した。
 古人大兄は私邸に走り入り、門を閉ざした。
 中大兄は法興寺に入ってここを砦として戦う準備をした。皇子たち・諸王・諸卿大夫(まえつきみたち)・臣・連・伴造・国造はことごとく中大兄につき従った。
 中大兄は入鹿の死体を父の蝦夷のもとに届けさせた。
 蘇我氏に従っていた漢直(あやのあたい)らは、一族を集め武装して陣を設営しようとした。中大兄は将軍巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)を遣わして説得させた。蘇我氏側の高向臣国押(たかむくのおみくにおし)は「我らは太郎様(入鹿)のせいで殺されるだろう。大臣(蝦夷)も今日、明日のうちに滅ぼされるだろう。我らは誰のためにむなしい戦いをして処刑されるのか」と言うと、剣をはずし弓を投げ捨てた。従う兵たちも逃げ去った。
 翌日、蝦夷も誅殺され、さらにその翌日、天皇は譲位された。 

 以上が『日本書紀』の物語るクーデタの経緯である。断っておくが、この物語をすべて事実と思ってはいけない。645年から「書紀」編纂の720年までの七十余年の間に、虚実織り込まれて語り伝えられ、伝説となった物語なのである。
 さて、ここまでをふり返って、いくつか注釈を加えたり疑問を述べたりしてみたい。
鎌足はこのとき三十一歳、中大兄皇子は十九歳で、ひとまわり違い。おとなと子どもである。『書紀』も鎌足を主語として語り始めており、いよいよ暗殺劇が始まるといつのまにか中大兄が主役となっている。実際、このクーデタは鎌足の企画・演出、中大兄が主役というおもむきである。
 鎌足の策は用意周到で、石川麻呂を味方に引き込むという蘇我一族の分断策を、中大兄皇子との婚姻関係から始めるというあたり、打つ手に凄みさえ感じる。
 鎌足は、おそらく軍備にも力を注いだことだろう。入鹿を殺したあとの第2幕を予測すれば、まず蘇我一族が総力を挙げて戦いを挑んでくると予測したはずである。その対策として佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田をあらかじめ味方に引き入れていた。佐伯氏は軍事貴族であって、腕力の強い単なる殺し屋ではない。鎌足が戦争準備に意を用いたであろうことは、逆に蘇我氏サイドの動向からも推察できる。
 すなわち、入鹿暗殺事件の前年11月、蘇我蝦夷・入鹿父子は甘樫岡(あまかしのおか)に家を並べて建てたが、その外に砦の垣をつくり、門のかたわらに武器庫をつくり、武器を持った屈強の人々に家を守らせた。さらに畝傍山(うねびやま)の東にも家を建て、池を掘って砦とし、武器庫を建てて矢を貯えた。蝦夷は身辺警護のため常時50人の兵を引き連れていた。入鹿暗殺事件の半年前にはこうした緊迫した状況があった。
 当然、鎌足・中大兄サイドにもこれに対応する戦争準備があったと推察される。ただそれは蘇我側にはもちろん、世間にもいぶかしく思われないような静かな準備、たとえば軍事貴族を味方に引き入れるという戦争準備である。
 さて、ここで注目したいのは古人大兄皇子である。彼は暗殺劇の中では特に役割はなく、したがって名前を出す必要のない人物である。それなのに、冒頭、天皇ご出座の場面で、こう書かれている。
 「天皇大極殿におはします。古人大兄侍(はべ)り」。
 天皇に寄り添うがごとく、ナンバー2を誇示するがごとくである。蘇我氏の血を引き、蘇我氏の担ぐ御輿に乗って、明日にも天皇たらんとする古人大兄の日ごろの言動とポジションが想像できる。彼は事件後、私邸に逃げ帰り、部屋に閉じこもった。失脚を覚悟したことがわかる。
 蘇我側の抵抗は大したものではなかった。中大兄が法興寺に入って陣を構えると、皇族たち、重臣たちは続々と傘下に集ってきた。これは事前の根回しが行き届いていたことを思わせるし、蘇我本宗家への嫌悪や嫉妬が広い層に浸透していたのだろうと思わせる。
 さて、私にとって最大の疑問は、最後の結末、すなわち皇極女帝の譲位である。そもそも皇極女帝の即位は、その夫である舒明天皇崩御後の苦肉の策だった。皇極女帝とすれば「わが子中大兄はまだ十六歳で若すぎる、ここは自分がつなぐしかない」と覚悟したのだろう。蘇我氏からみれば、皇極即位は、中大兄即位をとりあえず阻止したという意味で一安心であり、この女帝の在位中に、蘇我氏の血を引く古人大兄の即位を画策する時間を獲得できたと評価したはずだ。
 その皇極女帝が譲位したという。実は当時、「譲位」などはできなかった。どんな天皇でも、武烈天皇のごとく悪評嘖々(さくさく)でも、亡くなるまで天皇だった。皇極天皇の譲位が史上初の譲位なのである。『日本書紀』には「天皇、位を中大兄に伝へんとおもほして」とあって、譲位は女帝の意志だとしている。そしてそれを聞いた「中大兄、まかりいでて中臣鎌子連(鎌足)に語りたまふ」となっている。
 皇極女帝にすれば、中大兄即位に反対していた巨魁を倒したのだから、当然、この劇の第二幕はわが子の即位であり、それも間髪を入れず、いま断行すべしと考えたのかもしれない。この政治的判断は迫力があり、失礼ながら女とは思えない胆力を感じさせる。
 しかし鎌足の判断は違った。「年長の古人大兄をさしおいて、腹違いとは言え弟が先に即位すれば、世間は謙遜ということを知らない、と非難するでしょう」と反対した。この物の言い方はみごとで、鎌足のホンネはこうだろう。「あなたは若すぎるから天皇になれないのに、入鹿を殺したら急に歳をとったとでも言うのですか」。蘇我家崩壊によって古人大兄の即位は遠のいたものの、だからと言って中大兄が若すぎるという障碍はいささかも軽減されたわけではない。ここは皇極女帝の弟で、中大兄の叔父にあたる軽皇子(49歳)を立てれば、古人大兄も文句は言えないし世間も納得するだろう。結局、この案が通って、軽皇子が即位(孝徳天皇)した。
 ところで、このときの女帝の譲位だが、これは鎌足の計算外だったのではないか。鎌足にとって、策というものは、極端を避け、できるだけ自然に見えるものでなければならなかったはずである。女帝の譲位という前代未聞の手段で、世間の驚愕を誘うような策は、鎌足の発想と思えない。また、譲位は、女帝と中大兄のふたりだけの話し合いの結果であって、鎌足はあとから相談を受けており、しかも、彼はふたりの意志に反対している。鎌足のシナリオは、古人大兄の失脚、中大兄の立太子までで、あとは皇極女帝の崩御後に中大兄即位だったのではないか。(了)